日本料理(読み)ニホンリョウリ

デジタル大辞泉 「日本料理」の意味・読み・例文・類語

にほん‐りょうり〔‐レウリ〕【日本料理】

日本の風土で独自に発達した料理。季節感を重んじ、新鮮な魚介や野菜を用い、刺身や煮物・焼き物・汁物・寄せ物などに材料の持ち味を生かして調理し、強い香辛料をあまり使わない。器の種類や盛り付けにも工夫を凝らし、見た目の美しさを尊重する。和食。

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精選版 日本国語大辞典 「日本料理」の意味・読み・例文・類語

にほん‐りょうり‥レウリ【日本料理】

  1. 〘 名詞 〙 日本の風土の中で独特に発達し、日本人が通常食する料理の総称。和食。
    1. [初出の実例]「建野知事は後六時、該紳士一同を私邸へ招き日本料理の饗応有りて」(出典:朝野新聞‐明治一四年(1881)五月二〇日)

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「日本料理」の意味・わかりやすい解説

日本料理
にほんりょうり

日本料理とは、日本の風土で独特に発達した料理をいう。その材料、作り方、食べ方などは時代によって非常に異なる。食物に手を加えて食べやすくしたり、2種以上の食品を組み合わせることにより味をよくすることが広義にみて料理であるとするならば、料理の起源は石器時代、あるいはそれ以前までさかのぼるであろう。しかしこれらの時代は文献はなく、考古学の見地から遺物包含層、貝塚、化石などの発掘・調査により判断することになるので、ここでは文献のある時代から記することにする。

 日本列島は季節風に恵まれ、春夏秋冬の別がはっきりしており、それぞれの産物が異なっている。また生物の種類が非常に多く、とくに魚類は、世界で生息する種類中、日本産の占める比率が著しく高い。鳥類はさほどではないが、獣類、植物類も面積のわりにその種類は多いほうである。したがってこれらの動植物で食用になるものを適宜組み合わせて、美味で栄養のある料理をバラエティー豊かにつくりだすことができたのである。

多田鉄之助

歴史

古代

『古事記』『日本書紀』によると、天照大神(あまてらすおおみかみ)の曽孫(そうそん)である火闌降命(ほのすせりのみこと)(海幸彦)・彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)(山幸彦)の兄弟神は、それぞれ海・山の食用産物を得ていた。それから3代後の「神武(じんむ)天皇紀」には飴(あめ)、牛酒(ししざけ)などのことが記してある。「景行(けいこう)天皇紀」53年条に、安和(あわ)国の水門(みなと)(千葉県鋸南(きょなん)町か)で天皇が白蛤(うむぎ)(ハマグリにあらず。アワビとする黒川真頼(まより)説に従う)を得たおり、磐鹿六雁命(いわかむつかりのみこと)がこれを膾(なます)にして奉ったとあり、一般にはこれが日本料理の起源とされている。この功により六雁命は膳大伴部(かしわでのおおともべ)の官職を与えられ、その子孫高橋氏は代々宮中料理を担当することとなった。平安初期、内膳司(ないぜんし)であった高橋氏は神膳調進をめぐって同僚安曇(あずみ)氏と争い、自らの正統性を示す由緒書「高橋氏文(うじぶみ)」を朝廷に提出している。料理がかなり整った形態をみるようになったのは、仏教が伝来(538年ないし552年)してからである。農作物の生産も増加し、健康食や治療食なども考えられている。

[多田鉄之助]

飛鳥・奈良時代

薬猟(くすりがり)として年に数回、イノシシやシカなどの野獣を捕らえて一族で食べるのを養生食といったが、この風習は奈良朝以前からある。調理法としては煮物、焼き物、蒸し物は古くから行われたが、揚げ物は朝鮮や中国からの伝来調理法で、一部の人たちの間では古くから行われていた。肉食については、野獣は大いに食べてよいが家畜は食べるなという禁令が天武(てんむ)天皇(在位673~686)、聖武(しょうむ)天皇(在位724~749)、桓武(かんむ)天皇(在位781~806)の代に出ている。桓武天皇は首都を奈良から京都に移したが、それ以前784年(延暦3)長岡(京都府長岡京市)に遷都し、794年に京都へ移った。遷都に際しては渡来系氏族が格別の協力をした。そのために京都の地名には中国名がかなりみられるし、調理法にも中国風が多く取り入れられるようになった。

[多田鉄之助]

平安時代

中国料理が宮中の宴会料理として用いられたのは、嵯峨(さが)天皇(在位809~823)の時代である。当時中国は唐の時代で、中国渡来の品々を唐物(からもの)といった。調理法では唐揚げの名称はいまでも用いているが、平安時代には唐煮もあった。当時すでに、中国料理で珍重されている「熊の掌(てのひら)の料理」のようなものもつくっていたし、中国風の納豆、すし(なれずし)のごときも存在していた。食用油(ごま油、荏油(えのあぶら))の使用が著しく多くなったのも、中国料理法の影響である。11世紀初頭に成立した藤原明衡(あきひら)の『新猿楽記(しんさるがくき)』にイワシの酢煮がみえ、当時、人工酢の作り方は本格的にはわかっていないとみられるので、果物酢か、または醤(ひしお)を大豆、糯米(もちごめ)、小麦、酒、塩などで和(あ)えたものが自然に酸化して酸味を生じたものを用いたと思われる。米食の型も盛んになり、強飯(こわめし)(蒸し米)、姫飯(ひめいい)(現在のような炊き飯)、汁粥(しるかゆ)、味噌水(みぞうす)(雑炊の一種)などがつくられた。それに、飯(かしきがて)(米・麦・豆などの混ぜ飯)、糒(ほしいい)(蒸した飯を乾燥させた保存食)などもあった。酒もいろいろつくられた。飲用のほかに調味料としても用いていたし、また、自然発酵したものを酢として用いていたと思われる。また京都では、中国の影響も受けて、麩(ふ)、湯葉(ゆば)、凍り豆腐などを保存食として用いていた。行事食にも唐風が入り、元旦(がんたん)の屠蘇(とそ)、1月7日の七草粥(ななくさがゆ)、7月15日の盂蘭盆(うらぼん)の料理などがつくられた。食事の進歩は食器の発達にもつながり、銀器、青銅器、漆器、ガラスの酒杯などもつくられ、これらをのせる折敷(おしき)、台盤などもできた。ただし、一般庶民の食生活ははるかに低いものであった。平安朝の末には、食礼法がそろそろできてくるのだが、関白藤原忠実(ただざね)は「人は物を食い食様(くいよう)を知らざる也(なり)、就中(なかんずく)、汁に食菜(くうな)は其物(そのもの)、冷汁に食葉は其物、箸(はし)にて物を食するは其物、手にて食する物は其物、皆差別あり。而(し)かして近代の人全くこれを知らず」といっている。

 保元(ほうげん)・平治(へいじ)の乱(1156~1159)が終わり平氏の時代となると、平氏一門は中国宋(そう)と貿易を行い、宋の商人との商談などで中国料理の味も試みているのだが、それは一般には紹介されていない。

[多田鉄之助]

鎌倉時代

源頼朝(よりとも)によって鎌倉幕府が置かれ武家政治が始まったが、初めは文化的感覚が低く、料理などには関心もなくて、その進歩向上はスピードを緩めた。『吾妻鏡(あづまかがみ)』建久(けんきゅう)元年(1190)10月13日条に、頼朝が東海道菊川宿で佐々木盛綱(もりつな)からサケの楚割(すわやり)(素干し)を献上され、大いに喜んだと大きく取り上げられているのは、当時の料理道の程度が低かったのを証明するものであろう。源政権は3代で短く終わり、北条執権の時代となったが、質素倹約の風習が強く、食事も実用的になっていった。当時の武士、僧侶(そうりょ)は1日2食であった。禅僧が坐禅(ざぜん)の行に入る場合など、冬には身体を暖めるために石を熱して布で包み、懐中に入れていた。これを温石(おんじゃく)というが、この代用に軽く食べることを考え、この軽食を懐石(かいせき)代りといい、のちに略して懐石といった。この料理は茶道と結び付いたり、長崎料理といっしょになったりして、しだいに豪華な料理に変化していくのである。

 仏僧栄西(えいさい)が中国から茶を持ち帰りその普及を図った結果、日本独特の茶道が生まれた。これと懐石が結び付き、新しい感覚と内容の茶料理が生まれるのである。さらに、鎌倉時代の料理道において特筆すべきは、食物による健康増進と病気克服の研究である。これについては梶原性全(かじわらしょうぜん)の『頓医抄(とんいしょう)』(14世紀初)、玄恵(げんえ)作ともいわれる『庭訓往来(ていきんおうらい)』(室町初期)などに出ている。鎌倉時代からは、生間(いかま)流、大草(おおくさ)流、四条流など料理の流儀について、それぞれの秘法などが散見できる。

[多田鉄之助]

室町時代

室町時代は、勘合(かんごう)船(遣明(けんみん)船)による貿易など海外との交流もあり、文化に重点を置いたこともあって、料理道は画期的な躍進をみた。とくに8代将軍足利義政(あしかがよしまさ)は銀閣寺を建て、各方面の文化事業や美術工芸にも力を入れた。かたや応仁(おうにん)の乱(1467~1477)によって、京都の文化財が焼失したり破壊されたりもした。いわゆる東山時代とよばれるこの時代には、料理の世界では食礼式が完全に近い型を整えてきた。これは、公家(くげ)方では、すでに平安時代にいちおうの型ができてはいたが、さらにそれが複雑化し、武家方にも適するものが確立されたのである。今川了俊(りょうしゅん)の『今川大雙紙(おおぞうし)』(15世紀中ごろ)には武家の礼法についての記事が多いが、「食物の式法の事」「酒についての式法の事」などの項目もある。

 料理の流儀も室町時代に至って確立をみる。平安時代の四条中納言(ちゅうなごん)藤原山蔭(やまかげ)を始祖とする四条流は、宮中・公家方のものであったが、東山時代には武家にも多く取り入れられ大きく前進した。長享(ちょうきょう)3年(1489)の奥書をもつ『四条流包丁書(ほうちょうがき)』も完成した。武家階級では進士(しんじ)流、生間流が鎌倉時代にできたとされるが、この時代に生まれた大草流は、足利政権に重用されたため、東山時代の料理界をリードすることとなった。のち江戸時代に至り、四条流は江戸に移り、町家の祭事・行事食に取り入れられ、料理屋風の豪華な料理もここから芽生えている。大草流は絶えたが、同じ武家料理で大草流に押された進士流は本願寺の料理に残っている。この時代には、料理の材料に区別をつけ、美物と粗物に大別している。魚貝類、鳥類などは多く美物になっており、野菜類は大半が粗物で、なかには美物に入っているものもある。食べる順序も材料によって定められており、まず海の物、山の物、野の物、里の物の順序であるが、海の物ではタイを右翼とする。ただし、コイがある場合にはこれを優先させており、クジラ肉はもっとも右翼に位置するものとしてあった。

 日本料理の儀礼的な食膳(しょくぜん)としては本膳料理がある。これは室町時代にできたものであるが、正確な年次は明らかではない。本膳は何人かで会食する場合に用いるが、その際、同格の人が集まる場合には、膳の高さは35センチメートルぐらいの高足膳を用いる。また、自分より身分の低い者を招く場合には、膳の高さは低くなる。本膳のそばに出すのは二の膳、三の膳というように番号付きの膳で、これにはかならず吸い物が加わることになっている。吸い物のない膳はいくつあっても番号をつけないで、単に側膳(そばぜん)という。祝膳の「式三献(しきさんこん)」「七五三膳」「五三三膳」など各流派による型が、本膳料理の基本をなすものとなった。本膳の複雑な作法は、時代とともに多少の変化はあったが、昭和初期まで続いたのである。

 室町末期にはフランシスコ・ザビエルが鹿児島に渡来し(1549)、キリスト教に帰依(きえ)する人たちは牛肉食なども試みている。松永貞徳(ていとく)の『なぐさみ草』(1652〈慶安5〉自跋)には「キリシタンの日本に入りし時は京衆(きょうしゅう)牛肉をワカと称してもちはやせり」とある。ワカvacaはポルトガル語の牛肉である。

[多田鉄之助]

安土桃山時代

織田信長の日常は戦争に明け暮れていたので、料理に関心がなく上流人の料理の味を知らなかったことは湯浅常山(じょうざん)の『常山紀談』(1739成立)に書いてあるが、兵食はかなり合理化されている。武士、町人、農民の身分制度が確立し、料理も身分に応じて型が決まってきた。桃山時代には、上流社会では華麗なパーティー食などもできている。茶道も盛んになり、千利休(せんのりきゅう)により茶懐石(ちゃかいせき)料理の形式が細かく定められた。16世紀末、文禄(ぶんろく)・慶長(けいちょう)の役後、連行した朝鮮陶工により、陶磁器の製造が始められ、それを用いた料理も研究され、各地で飛躍的に発展したが、豊臣(とよとみ)秀吉の死により、一時中止の形となる。一方、ポルトガル人、スペイン人から伝えられた南蛮料理や南蛮菓子(カステラ、金平糖など)もつくられていた。

[多田鉄之助]

江戸時代

17世紀初頭、徳川家康が江戸幕府を開くや江戸の繁栄は加速度を加え、関東風の日本料理は一つの体系をみるに至った。しかしこれは生(なま)のままの材料を用いる料理が多く、一方の関西料理は技術的に一日の長があり、加熱して仕上げる独自の料理が多く、独自の体系をつくりあげていた。しかし、全国的にみて庶民生活のなかでの料理は程度が低かった。『続兵家茶話(へいかさわ)』に、徳川家康が大浜の長田平左衛門宅を訪れたとき、命じて食べたものは、麦飯に大根の混ぜ塩、いなだの汁、田作り、なます、こんにゃくの煮物であったとある。また、3代将軍家光(いえみつ)の時代に、毛利甲斐守(もうりかいのかみ)らが各自持参の弁当の菜を交換して楽しんでいたが、ある日甲斐守がコイの煮つけを持ってきたところ、珍味だといって皆が喜んで食べたことが『玉箒子(たまははき)』(1696)に出ている。これらの話は、当時の料理の程度が低かったことをうかがわせるものと思う。1635年(寛永12)に参勤交代の制度が定められ、全国諸大名の江戸入りが始まってからは、各地の特産食品が江戸に紹介され、江戸の料理にその影響が出てくる。4代将軍家綱(いえつな)の寛文(かんぶん)年間(1661~1673)に、そば粉をこねて細い線状にした蕎麦切(そばきり)の専門店ができたが、これは現代まで盛業である。季節外れに早くとれた野菜や果物を初物(はつもの)と称して、その味覚を楽しむ風習も現れ、町人の生活がぜいたくな方向に向く。幕府は1686年(貞享3)と1693年(元禄6)の2回にわたり野菜売出しの季節を制定して、事実上の初物売りの禁止をしているが、守りきれてはいなかった。

 料理道が大いに躍進したのは、8代将軍吉宗(よしむね)の享保(きょうほう)(1716~1736)以降である。専門の料理人が出てきたが、本格的な料理屋が江戸に出現したのは1771年(明和8)である。主として諸大名の御留守居役(おるすいやく)なる名称の接待役が、各藩江戸屋敷間の外交折衝の場として利用したので、お留守居茶屋の名称もあった。これに続いて多くのお留守居茶屋ができたが、松平定信(さだのぶ)の寛政(かんせい)の改革(1787~1793)で大半は店を閉ざした。しかし、茶屋の出現によって、作法のやかましい本膳料理から脱して会席料理の基礎ができ、料理屋文化の始まりとなったのである。この間に大きく前進した料理道は、文化・文政(1804~1830)の江戸文化爛熟(らんじゅく)期に著しく向上し、多くの料亭ができた。大田蜀山人(しょくさんじん)は「五歩に一楼、十歩に一閣皆飲食の店ならずといふ事なし」といっている。ただし、天保(てんぽう)の改革(1841~1843)によって多くの料亭は店を閉じ、料理の前進も一時止まるが、まもなく前にまさって繁栄する。

 貿易の中心地長崎では、鎖国下でも中国人やオランダ人との交流によって、洋風・中国風の特徴をミックスした卓袱(しっぽく)料理が生まれ、流行した。「しっぽく」は唐音で、中国風の食卓を覆う布、あるいは食事そのものをさした。一卓を囲んで数人が共食する卓袱料理は、銘々膳の食習慣をもつ日本人にはきわめて目新しく感じられたのであった。また中国から日本に帰化した隠元(いんげん)禅師によって、黄檗(おうばく)宗寺院の精進(しょうじん)料理である普茶(ふちゃ)料理が伝えられ、卓袱料理とも影響しあいながら、会食式の精進料理として普及した。民衆の間には、すし屋、てんぷら屋、そば屋など大衆的な専門料理の店もできた。握りずしは文政(1818~1830)初年に花屋与兵衛によって始められ、今日のすし繁栄の源となったというが、天明(てんめい)(1781~1789)のころに太巻きずしの形態があって、その前触れをなしたものといえよう。肉食の風習は、元禄(げんろく)(1688~1704)の初年に彦根(ひこね)藩で牛肉のみそ漬けができ、幕閣の要人をはじめとする上流人の健康食として用いられた。また庶民には、江戸中期に麹町(こうじまち)、平河町や両国に野獣肉屋(ももんじ屋)ができ、イノシシ、シカ、サル、ウサギなどの肉が楽しめた。

[多田鉄之助]

明治以降

明治に入り日本料理は従来の型をそのまま保持していたが、しだいに時代に適合する内容に変わってきた。文化年間(1804~1818)にできた簡単な宴会料理が、内容を変えて会席料理として出現した。しかし、明治を代表する料理は西洋料理と牛鍋(ぎゅうなべ)である。西洋料理は1872年(明治5)に精養軒(せいようけん)ができてから急進し、それと並んで牛鍋は名物料理になった。関東の牛鍋は関西ですき焼きとして始まり、名称はのちにすき焼きに統一され、代表的な日本料理として発達するのである。おでん、すし、蒲(かば)焼き、そばなどの専門店も多くできた。料理材料にも、外国渡来の野菜類が著しく増え、初めポルトガル語のボーブラの名でよばれたカボチャ、江戸中期に観賞用植物としてサンゴジュナスビ(珊瑚樹茄子)とか唐柿(からがき)とよばれたトマトなどが利用されるようになった。トマトを日本人が食べ始めたのは1877年以降である。ハクサイ、ホウレンソウは明治初年から栽培されていたが、大量生産されだしたのは1907年(明治40)以降である。

 1917年(大正6)から4年間は第一次世界大戦の影響で日本は好景気に恵まれ、料理は著しく飛躍した。料理業界の特色としては、大邸宅が料理店に改造されるケースが多かった。関東・関西の料理の交流も、この時代の特色である。関東の煮込みおでんが「関東炊(だ)き」の名で関西風にアレンジされ、それが関東に逆戻りするなどがその例である。関東大震災(1923)の被害によっても料理に変化がみられた。震災直後に焼け残りの釜(かま)で炊いた飯をじかに釜から食べたことをヒントに、小釜を用いての釜飯が生まれたのもその一例である。

 昭和初年から関西料理が東京に進出し、関東風の日本料理はしだいに後退した。やがて、関西料理は日本料理の主流となり、全国的に広まっていった。1932年(昭和7)ごろ、とんかつの名で洋食のポークカツレットが日本料理の分野に入ってきた。刻みキャベツを添えるのと、揚げてから包丁を入れて食べよくしたのが特色である。のちにはかつ丼(どん)と称する丼物(どんぶりもの)も出現している。太平洋戦争によって食生活は大きく変わり、粉食に重点を置くことが戦後も続いて米の消費量は少なくなった。日本料理で変わらないのは刺身と焼き魚であるが、木炭を使用しないため、きめ細かい焼き物が少なくなった。家庭調理器具の普及に伴い、料理の作り方も変わってきた。とくに、日本料理、西洋料理、中国料理の区別がつけにくくなってきた。すべての料理が結び付き、新しい日本料理が生まれつつあるとみてよいであろう。

[多田鉄之助]

特徴

材料と調理法に季節感を出すことを重要視して、旬(しゅん)の味をたいせつにする。また、材料の持ち味を生かして調理するために、強い香辛料をあまり使わない。そして、ほとんどの料理が主食である米食と日本酒に調和するようにつくられ、発達してきた。すなわち、ご飯のおかず(菜(さい))であり、酒のさかな(肴・魚)である。「さかな」はもともと酒を飲むときに添えて食べる物「酒菜(さかな)」の意であった。材料としては、「歴史」の項で述べたように、近代以前は獣肉の使用がきわめて少なく、これが日本料理を淡泊な味にする一要因となっている。また獣脂はもとより植物油の使用も少なかった。これらを補ってうま味を出すために案出されたのが、昆布、かつお節など独特の「だし」であった。また、室町後期に始まり江戸時代に普及したしょうゆは、基本的な調味料として、日本料理の味を特徴づける大きな要因ともなった。日本料理は目で見る料理といわれるように、外形の美しさを尊重して、盛付けの技術とか食器との調和をおろそかにしないことが特徴である。日本料理は大別して関西風、関東風に分けられるが、全国各地にそれぞれの気候・風土・産物・行事などから生まれた独特の郷土料理があることも見逃せない。

[多田鉄之助]

分類

(1)形式的特色のあるもの 本膳料理、懐石、卓袱料理、会席料理、弁当形式の料理、丼物など。(2)行事食としてつくるもの 正月料理、節供(せっく)料理、神仏の祭事料理など。(3)地方色の強いもの 郷土料理、雑煮(ぞうに)などの行事食。(4)材料的特色の強いもの 精進料理、川魚料理、山菜料理、卵料理、鳥料理、肉料理など。

[多田鉄之助]

献立

日本料理の献立は、飯、汁、漬物を基準にして発達し、複雑化したものである。日常の献立では、飯、汁、漬物のほかに、主菜となる煮物、揚げ物、焼き物、副菜となる和(あ)え物、おひたしなどを添える。供応料理とされる会席料理の場合、基本的な料理のほかに3~11品まで組み合わせて献立をつくる。材料は、季節を先取りしたはしり物、旬(しゅん)の物、海の物、山の物、鳥獣肉などを調和よく取り合わせて選び、中心をなす料理、中心へと導く料理、あとに余韻をもたせる料理というように盛り上がりや濃淡をつけて献立をつくる。料理の合間には酒を勧め、酒のあとに飯、香の物、果物、菓子、湯を勧めて終わりとするのが普通である。

[多田鉄之助]

食器

古代は木の葉(カシワやユズリハなど大きな木の葉)を用い、次に貝殻、削った白木、素焼の土器を食器とした。飛鳥時代には須恵(すえ)器がつくられ、青銅器や銀器も用いられ、平安時代には中国から漆器が渡来した。鎌倉時代には陶器が急速に発達し、江戸時代には陶磁器が一般的に用いられるようになった。現代は陶磁器を中心に、漆器、ガラス器、金属食器、プラスチック製食器とその種類は広範になってきた。日本料理では原則として1人前盛りで食器の数は多いが、器の形や模様の美しさ、盛付けの美しさを見せるのが、特徴の一つとなっている。器の模様にある花鳥風月などにも心を配り、本格的にはその季節の器としての決まりもある。ただし、現在はあまり形式にこだわらず、とくに家庭では人数や好みにあわせて自由に食器をそろえる風潮がある。日本料理の食器は五客分を単位にして扱うのが常識ではあるが、これも現在の家庭には通用しておらず、和洋兼用の食器も増えている。

[多田鉄之助]

作法

日本料理の食礼式が確立したのは室町中期であるが、内容が複雑で実用的ではないので、一般にはしだいに簡素化されてきた。食事作法の基本は、姿勢を正して音をたてず、主客に食べる速度をあわせて、食べたあとは膳や皿の上を乱雑にせずかたづけておく。箸(はし)使いもいまはさほどやかましくはないが、こみ箸(箸の先で料理を口に押し込む)、移り箸(菜から菜を続けて食べる)、さぐり箸(器の中を箸でかき混ぜて自分の好きなものをとる)、もぎ食い(箸についている食べ物を口でもぎ取る)などは禁止事項であった。

 会席料理では、食膳を運ばれたら会釈し、次客に「お先に」と挨拶(あいさつ)して受け、箸を袋から出して箸置きに置く。割箸は膝(ひざ)の上で、中央を静かに開いて割る。酒は最初の一献は飲めなくても受けるのが礼儀である。前菜は懐紙で受けながら食べ、汁のあるものは器を持ってよい。椀(わん)の蓋(ふた)は椀が右側なら右手でとって右側に置き、左側のときは右手でとって左手に持ち換え、左側に置く。箸は先に器を持ってからとる。一尾付けの魚は目の下から箸をつけ、上身を食べたら中骨を外して下身を食べ、骨は皿の隅にまとめる。串(くし)刺し料理は串を抜いてから食べ、かまぼこなどは歯あとを残さないようにする。器は両手でとってから左手に持ち換える。止め椀やご飯のお代わりは、受け取ったら一度膳に置き、改めて手にとる。最後にお茶を受けたら箸先を洗い、懐紙で清めてから膳に返す。一度に料理が並べられたら、冷めて味の落ちるものから先に食べる。

[多田鉄之助]

『土井勝著『新版基礎日本料理』(1983・柴田書店)』『川上行藏編『料理文献解題』(1978・柴田書店)』


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改訂新版 世界大百科事典 「日本料理」の意味・わかりやすい解説

日本料理 (にほんりょうり)

日本の風土と社会の中で形成されてきた料理。広義には日本人が食べてきた料理ということができるが,ことさらに日本料理という場合は,洋風,中国風などの料理に対して,〈日本特有の〉とか,〈伝統的な〉といった性格をもつものとしての呼称である。その狭義の日本料理は,世界的にみてかなり特異な性格のものであり,本項目は主としてその性格形成の過程とその特徴について略述する。日本料理の構成要素である個々の食品などについてはそれらの各項目を,また,世界の中での日本料理のありようを確かめるためには,人類の食生活の諸形態の分析解明を試みた〈食事〉〈料理〉〈肉食〉〈宴会〉などの諸項目を参照されたい。

日本料理の性格を特異なものとした第1の要因は,日本の食生活が米食中心主義であったことに由来する。日本人のほとんどが米食できるようになったのは,たかだか第2次大戦後のことでしかない。しかし,有史以来日本の政治は稲作を中心として行われ,少なくとも支配層と都市民の食生活は米飯を主食とするものだった。主食に対する副食という概念は,必ずしも日本だけのものではなかったが,日本の〈おかず〉の性格はきわめて特異なものであった。カロリー,栄養ともに主食の米飯に依存した結果,おかずは米の飯を食べるための食欲刺激剤的なものとして成立し,そのまま日本料理の中核をなすものとなった。室町時代までの貴族や武士たちは,高盛飯を高杯の中央に据え,周りに小さな土器(かわらけ)などをいくつもならべ,それにおかずを入れて食事をした。〈おかず〉とは,副食物が数々とり合わされたための称であり,〈おめぐり〉〈おまわり〉と呼ぶところがあるのは,周囲に並べたことのなごりである。そのおかずは魚貝類の干物,塩蔵品,塩辛といったものがほとんどで,真ん中の高盛飯を酒に置き換えると,そのまま酒のさかなになるものだった。日本料理は,こうした性格をもつおかずが進化,洗練されたものといえる。

 第2の要因としては,獣肉と油脂の使用がきわめて少なく,乳および乳製品の使用にいたっては皆無であったことが挙げられる。獣肉食が忌避され,食用のための牧畜が行われなかった結果,動物タンパク質は主として魚貝類に求められた。ヨーロッパでは長期間肉を貯蔵し,かつ,それを可能な限り美味に食べることが料理を発達させた最大の原因であり,それによって香辛料の利用も進歩した。中国の場合もそれに近かった。ところが,日本では事情が違った。魚貝類は肉類とちがって腐敗が速い。そのため平安時代以来,地方から中央へ送られてくる魚貝類はほとんど前記のように干物その他の加工品だったし,生鮮品は油を使わぬこともあったが,米飯のおかずとしては生食その他あまり手をかけぬものが好適でもあった。こうして素材主義とでもいうべき傾向を生じ,それと表裏をなして,美しく切る包丁さばきと美しく盛りつけることが重視され,それ以上に手を加えるのは二義的なことと考える伝統が生まれ,新しい味覚の開発は放棄される形となった。油脂の使用が少なかったのは,近世にいたるまで油料作物の栽培が少なく,生産された油が灯火用などで消費され,食用にまで回らなかったことが最大の理由である。平安時代には油で揚げる唐菓子(とうがし)が盛んにつくられていた。それが南北朝期には名だけ伝わり実態はすでに不明だったほどで,調理における油の使用は定着していなかった。油脂と肉類なしに,塩だけで野菜の煮物や汁に味をつけてもうまいものにはならない。そこで考え出されたのが,だしであった。だしを用いて塩味に奥行きをもたせることによって,植物性の材料は初めてうまく食べられるものになる。つまり,だしは油脂不足の弱点を補うためのものであったが,同時に油脂の多用による味の平均化を防ぐことになり,材料の持味を生かすことを特徴とする日本料理に大きな役割を占めることになった。

基本的な調理法というのは自然発生的なものであるが,それを洗練し,新しい手法を開拓したのは料理人である。もっとも新手法の開拓といっても,それはほんの一部に限られ,しかも調理器具の改善や新案があってのことであった。日本に職業的料理人が最初に姿を見せたのは律令制下の宮内省内膳司(ないぜんし)と大膳職(だいぜんしき)においてで,その任務は中国直輸入の食禁(じつきん)(食合せ)に基づいて食事を調進し,とくに内膳司では供御(くご)の毒味をすることであった。その後は,宮廷外でも庖丁人として名を得た人々があり,その逸話が《今昔物語集》その他に伝えられているが,いずれもいかにみごとに材料を切るかが関心の的だったらしく,調味のしかたなどを記録したものはない。〈柚(ゆ)をきることは杯酌至極のときの肴物(さかなもの)〉(《古今著聞集》)といったように,どういうわけか酒宴たけなわのときにユズを切ってみせるのが酒興を添えるさかなだとするような通念があり,そうした場合,故実に基づいた正しい切り方をするのが〈名誉の庖丁人〉とされた。もちろん上層階級での話であるが,そうした背景の中で室町時代に宮廷専属の四条,幕府の大草,進士(しんじ)などの料理の流派が成立した。

 時あたかも下剋上(げこくじよう)の実力の季節,各流とも永久的な地位が保証されていたわけではない。それが彼らをして,おのれの流派の権威づけに奔命させたようである。各流ともに前代以来の風潮に乗って,むやみに故実と称して秘伝,奥義の類を捏造(ねつぞう)した。魚や鳥に尊卑の別をつけ,その切り方や食べ方にまで正否があると煩瑣(はんさ)きわまる約束事を設定した。包丁式(式包丁とも)という,味にはなんの関係もないショーを料理秘伝の最奥義とし,それを演ずることが料理人にとって無上の名誉とされるようになったのもその結果である。馳走,つまり駆けずり回るということばが手厚いもてなしの意味に使われるようになったのも,このころからと思われる。小笠原流の伝書である《食物服用之巻》には,白鳥のような珍しいものを供された場合,はしをつける前に白鳥をほめるのが礼儀で,食べてからほめるのは味をほめるので,ほんとうにもてなしをほめたものではない,といったことが記されている。どういういわれによるものか,藤原山蔭(ふじわらのやまかげ)(824-888)を包丁道の祖にまつり上げたすえ,山蔭中納言藤原政朝などという正体不明の呼び方をつくり出したのも,こうした流れの中においてであった。懸命の努力というべきであるが,宮仕えの料理人としてはやはり絶えずおのれの手がけた料理によって主君を満足させる必要がある。しかし,新しい素材や手法が見いだせぬかぎり,料理はマンネリズムに陥らざるをえない。その弱点を補うには味覚以外の部分で興趣を盛る必要があった。料理の景色(けしき)といわれるが,美しく盛りつけることもその一環であり,結果としてこの伝統は日本料理の誇るべき特質の一つとなった。

料理の名というものは,どこの国でも材料と調理法の名を組み合わせるのが常道である。ところが日本の料理人たちは,それに肴物としての役割を果たさせようとしてくふうをこらした。古くから日本人には気のきいたしゃれや軽口を秀句と呼んでかっさいする風があり,そうした秀句好きの風潮に便乗して,例えば〈従兄弟煮(いとこに)〉とか〈天竺(てんじく)みそ〉といった名をつけて供したのである。前者はアズキ,ゴボウ,サトイモ,ダイコン,豆腐,焼きグリなどをみそ煮にしたもの,後者はトウガラシで口が焼けそうななめみそである。奇妙な名なのでそのいわれを聞かれると,煮えにくいものから〈追い追い(甥(おい)おい)〉に入れていくので〈従兄弟煮〉,〈から(唐)過ぎる〉ので〈天竺みそ〉などと答えて座をにぎやかにするというものだった。

 こうした命名法とは別に,名詮(みようせん)と呼ぶことが行われた。〈打鮑(うちあわび)を打ちと取り,熨蚫(のしあわび)を伸しと取り,かち栗を勝ととり,昆布をヒロメともヨロコブとも取り,橙(だいだい)を代々と取り,ゆづりはを譲りと取りて祝とする類を名詮と云ふなり〉と伊勢貞丈がいっているようなことで,仏語の名詮自性(じしよう)の略だという。名は体を表すというか,良い名は福を,悪い名は災いを招くとする信仰である。しかし,ナシを忌んで〈福ありの実〉といった言換えはまだわかるが,打ちひしがれた打ちアワビを〈打つ〉という行為を表すとし,昆布を〈よろこぶ〉ととるなどは,なんとも理解しがたいこじつけである。だがこんなことでさえ,戦国動乱の世の権力者たちには幸運をもたらすと信じられたのであろう。そして,タイを〈めでたい〉,黒豆は〈まめ〉で健康をといった式のことが,現在でも格別の抵抗なしに受け入れられているのも,伝統というべきなのであろうか。名詮にくらべると,先の料理名の方がはるかに有意義である。文学的な美しい名などはそれだけで料理に趣を与えることもあり,貧しい文人が乏しい食膳をにぎわすために風雅な名をつけて楽しんだような事例も少なくない。

現在いうところの日本料理は,長い間の日本人の食生活の中で形成されてきた。室町末期以後になりその基礎がかたまり,江戸後期にいたってそれはほぼ完成の域に達する。ポルトガルの宣教師ロドリゲスが来朝したのは1577年(天正5)であるが,彼は当時の日本で4種類の宴会料理が行われているのを見た。その第1は〈三つの食台の宴会〉,第2は〈五つの食台の宴会〉,第3は〈七つの食台の宴会〉,第4は〈茶を飲むための宴会〉であった。いうまでもなく第1から第3までは,いわゆる七五三の本膳(ほんぜん)形式で,客の一人一人に一の膳(本膳)から三の膳,五の膳,七の膳までの料理を供するものであり,第4は茶席の料理,つまり,のちの懐石である。そしてロドリゲスは第4の宴会が,本膳形式の〈余分なもの煩わしいもの〉を捨て去った〈当世風〉のものであり,料理も〈装飾用で見るためだけ〉のものでなくて,質的に充実したものになったといっている。平安時代以来の宮廷で最も重要な宴会であった大饗(だいきよう)や節会(せちえ)はきわめて煩瑣な儀礼を伴っていたが,室町期武家社会の宴会にはそれにもまして煩瑣な約束事がもち込まれ,料理そのものも華麗,かつ過剰なものであった。武野紹鷗(じようおう),千利休によってわび茶にふさわしく簡素化された懐石は,煩雑,過剰な本膳形式に対する批判と反省のうえに成立したといえるだろう。こうして江戸時代にはさらに自由で気楽に楽しむ宴会形式の欲求から会席料理がおこり,これが懐石とともに日本料理の主流を占めるようになった。ほかに,江戸時代には中国の民間料理と僧院料理が伝えられ,前者は卓袱(しつぽく)料理,後者は普茶料理としていまも行われている。

 料理の素材や調理の面でも,室町末期以後江戸時代には新たな展開が見られた。まず,南蛮料理の影響によって獣肉食忌避の感覚が動揺しはじめ,一時期は牛肉,豚肉の食用がやや広まったが,鎖国や〈生類憐みの令〉で,また表面上は影をひそめた。しかし,ウシやブタとともに奈良時代以降あまり食用とされた形跡がなかったニワトリや鶏卵については,抵抗感がとり除かれた。次に,これもまず南蛮料理の影響によって油の使用が始まった。それが本格化するのはナタネの栽培が進んで油の生産量が増大してからのことで,卓袱料理の流行がそれに拍車をかけ,てんぷらなどの揚物料理も重要なレパートリーに加わった。調理技術や器具の新しい開発もあった。その典型ともいうべきはウナギの調理で,室町時代には蒲焼にしても丸のまま焼いたものが,江戸時代には裂いて焼くようになった。この手法の採用によって,ウナギは一躍淡水魚中最美のものになったのである。また,すり鉢の普及によると思われるが,室町時代以降魚のすり身を使うかまぼこ,はんぺんなどがつくられるようになって,日本料理の幅を拡大した。小型の鉄なべがつくられるようになって,江戸後期にはなべ料理が人気を得たといったこともある。

 しかし,何にもまして重大だったのは,しょうゆの出現である。しょうゆは室町後期から姿を見せ,江戸時代に入って生産が本格化したが,このすぐれた万能的な調味料の登場によって,日本料理の調味の基本は決定的なものになった。みそでも,酢でも,酒に梅干しその他を加えた煎酒(いりざけ)のようなものを使っても,いま一歩という味覚が,しょうゆによって完成させられたのは刺身だけではなかった。煮物はもとより,ウナギの蒲焼やてんぷらにしても例外ではない。そして幕末維新期以後に紹介された西欧の料理と本格化した獣肉食とが,すき焼を筆頭にとんかつ,コロッケなど,しょうゆ味をベースとして米飯に合う料理となって,初めて日本人の食生活の中に定着したのである。
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百科事典マイペディア 「日本料理」の意味・わかりやすい解説

日本料理【にほんりょうり】

日本の風土と社会の中で形成されてきた料理だが,〈日本料理〉という呼称は,〈西洋料理〉,〈中国料理〉などの料理に対して,〈日本特有の〉とか,〈伝統的な〉といった性格をもつものとしての意味で,〈和食〉とも呼ばれる。2013年〈和食 日本人の伝統的な食文化〉がユネスコ世界無形文化遺産に登録された。日本料理は世界的にみて特異な性格のものといえる。[性格と特長]特異な性格の第1の要因は,日本の食生活が米食中心主義であったことに由来する。日本人のほぼすべてが米食できるようになったのは第2次大戦後のことでしかないが,日本は古くから稲作中心文化を育んできた。主食に対する副食という概念は日本だけのものではないが,日本の〈おかず〉の性格はきわめて特異なものであった。カロリー,栄養ともに主食の米飯に依存した結果,おかずは米の飯を食べるための食欲刺激剤的なものとして成立し,そのままそれが日本料理の中核をなすものとなった。室町時代までの貴族や武士たちは,高盛飯を高杯の中央に据え,周りに小さな土器(かわらけ)などをいくつもならべ,それにおかずを入れて食事をした。そのおかずは古くは魚貝類の干物,塩蔵品,塩辛といったものがほとんどで,真ん中の高盛飯を酒に置き換えると,そのまま酒のさかなになるものだった。日本料理は,こうした性格をもつおかずが進化,洗練されたものといえる。第2の要因としては,獣肉と油脂の使用がきわめて少なく,乳および乳製品の使用にいたってはほぼ皆無であったことが挙げられる。獣肉食が忌避され,食用のための牧畜が行われなかった結果,動物タンパク質は主として魚貝類に求められた。ヨーロッパや中国などでは長期間肉を貯蔵し,かつ,それを可能な限り美味に食べることが料理を発達させた最大の要因であり,それによって香辛料の利用も進歩した。日本では,魚貝類は肉類とちがって腐敗が速い。そのため米飯のおかずとしては生食その他あまり手をかけぬものが好適でもあった。こうして素材主義とでもいうべき傾向が生まれ,それと表裏をなして,美しく切る包丁さばきと美しく盛りつけることが重視され,それ以上に手を加えるのは二義的なことと考える料理文化の伝統が生まれた。しかし塩分だけで野菜の煮物や汁に味をつけてもうまいものにはならない。そこで考え出されたのが,だしで,だしを用いて塩味に奥行きをもたせることによって植物性の材料が初めてうまく食べられるものになった。だしは材料の持味を生かすことを特徴とする日本料理に大きな役割を占めることになる。[調理法・素材・宴会の歴史]基本的な調理法というのは自然発生的なものだが,それを洗練し,新しい手法を開拓したのは料理人である。日本に職業的料理人が最初に姿を見せたのは律令制下の宮内省内膳司(ないぜんし)と大膳職(だいぜんしき)においてで,その任務は中国直輸入の食禁(じつきん)(食合せ)に基づいて食事を調進し,とくに内膳司では供御(くご)の毒味をすることであった。その後は,宮廷外でも記丁人として名を得た人々があり,その逸話が《今昔物語集》その他に伝えられているが,いずれもいかにみごとに材料を切るかが関心の的だったらしく,調味のしかたなどを記録したものはない。室町時代に宮廷専属の四条,幕府の大草,進士(しんじ)などの料理の流派が成立した。しかし,新しい素材や手法が見いだせぬかぎり,料理はマンネリズムに陥らざるをえない。その弱点を補うには味覚以外の部分で興趣を盛る必要があった。料理の景色(けしき)といわれるが,美しく盛りつけることもその一環であり,結果としてこの伝統は日本料理の誇るべき特質の一つとなった。日本料理は,長い間の日本人の食生活の中で形成されてきた。室町末期以後になりその基礎がかたまり,江戸後期にいたってほぼ完成の域に達する。16世紀後半ポルトガルの宣教師ロドリゲスは当時の日本で4種類の宴会料理が行われているのを見ている。その第1は〈三つの食台の宴会〉,第2は〈五つの食台の宴会〉,第3は〈七つの食台の宴会〉,第4は〈茶を飲むための宴会〉であった。第1から第3までは,いわゆる七五三の本膳(ほんぜん)形式で,客の一人一人に一の膳(本膳)から三の膳,五の膳,七の膳までの料理を供するもの,第4は茶席の料理,つまり,のちの懐石料理である。ロドリゲスは第4の宴会が,本膳形式の〈余分なもの煩わしいもの〉を捨て去った〈当世風〉(現代風)のものであり,料理も〈装飾用で見るためだけ〉のものでなくて,質的に充実したものになったといっている。平安時代の宮廷での宴会はきわめて煩瑣(はんさ)な儀礼を伴っていたが,室町期武家社会の宴会にはそれにもまして煩瑣な約束事がもち込まれ,料理そのものも華麗,かつ過剰なものであったといわれる。武野紹宝(じようおう),千利休によってわび茶の文化にふさわしく簡素化された懐石料理は,煩雑,過剰な本膳形式に対する批判と反省のうえに成立したといえる。こうして江戸時代にはさらに自由で気楽に楽しむ宴会形式の欲求から会席料理がおこり,これが懐石料理とともに日本料理の主流を占めるようになった。他に江戸時代には中国の民間料理と僧院料理が伝えられ,前者は卓袱(しつぽく)料理,後者は普茶(普茶)料理として現在も行われている。料理の素材や調理の面でも,室町末期以後江戸時代には新たな展開が見られた。まず,南蛮料理の影響によって獣肉食忌避の習慣がやや弱まり,一時期は牛肉,豚肉の食用が多少広まったが,鎖国や〈生類憐みの令〉で,また表面上は影をひそめた。しかし,ウシやブタとともに奈良時代以降あまり食用とされた形跡がなかったニワトリや鶏卵については,抵抗感がとり除かれた。さらに,これもまず南蛮料理の影響によって油の使用が始まった。本格化するのはナタネの栽培が進んで油の生産量が増大してからのことで,卓袱料理の流行がそれに拍車をかけ,〈てんぷら〉などの揚物料理も日本料理の重要なレパートリーに加わった。調理技術や器具の新しい開発もあった。その典型ともいうべきはウナギの調理で,室町時代には蒲焼にしても丸のまま焼いたものが,江戸時代には裂いて焼くようになった。この手法の採用によって,ウナギは一躍淡水魚中最美のものになったのである。また,すり鉢の普及で室町時代以降魚のすり身を使う蒲鉾(かまぼこ),半片(はんぺん)などがつくられるようになって,日本料理の幅を大幅に拡充した。小型の鉄なべがつくられるようになって,江戸時代後期にはなべ料理が人気を得るといったこともある。しかし,日本料理にとって決定的に重要だったのは,醸造技術による発酵調味料の醤油(しょうゆ)の出現である。醤油は室町後期から姿を見せ,江戸時代に入って生産が本格化し,明治時代に完成した。このすぐれた万能的な調味料の登場によって,日本料理の調味の基本が決定されたといえる。みそでも,酢でも,酒に梅干しその他を加えた匙酒(いりざけ)のようなものを使っても,いま一歩という味覚が醤油によって完成させられたのは,刺身だけではなかった。煮物はもとより,ウナギの蒲焼やてんぷらにしても例外ではない。そして幕末維新期以後に紹介された西欧の料理と本格化した獣肉食とが,醤油をベースとしたすき焼を筆頭に日本料理化し,素材を生かす食事文化がさらに充実し洗練されていったのである。
→関連項目無形文化遺産保護条約

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「日本料理」の意味・わかりやすい解説

日本料理
にほんりょうり

日本独特の料理。刺身塩焼など新鮮な魚介類の持ち味をいかした料理が多く,食材や調理法に季節感を重んじる。正月行事(→御節料理)などの年中行事と深いかかわりをもち,栄養的にもバランスがとれている。料理を載せる器の色や材質,形もさまざまあり,盛りつけが繊細で美しいのも特徴である。基本的なものは汁物,香の物(野菜を塩や味噌で漬けた物。→漬物)で,これに前菜,刺身,焼物揚げ物煮物和え物酢の物などが加えられる。形式としては,供応料理の基本である本膳料理,茶席の料理である懐石料理,肉類を用いない精進料理,宴会料理である会席料理,中国の影響が大きい普茶料理および卓袱料理(しっぽくりょうり)などがある。現在では,世界各国の料理法が巧みに取り入れられている。2013年には「和食;日本人の伝統的な食文化」として世界無形遺産に登録された。

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世界大百科事典(旧版)内の日本料理の言及

【本膳料理】より

…本膳形式の配膳法によって供される日本料理の正餐(せいさん)。室町時代以後,武家社会の礼法の固定化が進むに伴って整えられた饗膳(きようぜん)形式であるが,年代や料理の流派の差によって内容にはかなりの異同がある。…

【料理】より

…それに対して,インドから西方においては香辛料が料理に加えられるべき嗜好成分の主役となっており,みそ,しょうゆにあたる既製品の調味料はトマトケチャップの登場まではなく,料理にそえるソースは原則としてそのつど台所でつくるものである。
【伝統的日本料理の特徴と変化】
 表であげた料理操作は一般論としての技術の分類であり,現実には文化によって異なる料理の分類法がある。でき上がった個々の料理には料理名がつけられているが,その上位概念として料理を体系化し分類するやり方は,文化によって異なっている。…

※「日本料理」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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