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1923年にスイスのローザンヌLausanne会議において締結された条約。第一次世界大戦の敗戦国であったトルコと連合国の講和条約は、1920年のセーブル条約であったが、過酷な同条約に反対するケマル・パシャ(ケマル・アタチュルク)が率いるアンカラ新政府は、同条約を受け入れようとするスルタン政府と対立した。ケマル・パシャは侵入していたギリシア軍を独自の兵力を集めて撃退、さらにイタリア軍、フランス軍も自発的に撤退するなかで、着実に内外での評価を高めた。彼は、22年11月、政教分離を掲げスルタン制の廃止、すなわちスルタン政府の権力消滅を宣言、トルコの実権を掌握した。同月、ケマル・パシャのアンカラ政府は、ローザンヌで連合国と新しい講和条約の交渉に入り、翌23年7月24日調印した。新条約によると、トルコはトラキア、全アナトリア、キリキア、アルメニア、クルディスターンの分割を免れたばかりでなく、連合国軍隊のダーダネルス、ボスポラス両海峡地帯およびイスタンブールからの撤退、治外法権、連合国の財政管理の廃止など大幅にトルコの主権を回復した。しかし両海峡の国際管理は依然改められず、36年のモントルー条約まで待たねばならなかった。
[藤村瞬一]
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出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報
1923年にトルコ共和国の独立が認められた条約。第一次世界大戦に敗れたオスマン帝国は,20年屈辱的なセーヴル条約によって連合国による領土分割の危機に直面した。しかし,ムスタファ・ケマル(アタテュルク)の指導のもと,祖国解放戦争に勝利し,占領軍は撤退した。23年,改めて連合国との間にローザンヌ条約が結ばれ,トルコは領土保全,不平等条約の撤廃などを勝ち取り,独立を承認された。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
…ところが,第1次大戦とロシア革命,トルコ革命によって海峡をめぐる政治条件は一変し,第3期になる。まず,1923年のローザンヌ条約で,トルコに対する海峡の主権の承認,すべての海軍の自由航行権の承認,海峡の非武装が規定された。ところが,トルコとソ連の反対にあい,結局,36年のモントルー条約によって,海峡の再武装が承認され,軍艦の艦種・トン数・時期などの制限が付されて,今日まで至っている。…
…第1次世界大戦ではイギリス・フランス連合軍が海峡占領を画策したが失敗に終わった。大戦後,セーブル条約(1920)で国際管理下に置かれたが,ローザンヌ条約(1923)で非武装を条件にトルコの支配管理権が認められ,現在にいたる。【長場 紘】。…
…ただし,カリフにはオスマン王家の一員が〈トルコ大国民議会〉によって選出された。23年7月23日,アンカラ政府は連合国との間にローザンヌ条約を締結し,セーブル条約を廃棄させてトルコの独立を国際的に承認させ,あわせて治外法権の撤廃,オスマン債務管理局およびフランス系タバコ専売公社の廃止など,19世紀以来の経済的植民地体制を清算することに成功した。同年10月29日,アンカラを新首都としてトルコ共和国が宣言され,ケマル・アタチュルクがその初代大統領に選出された。…
…ムスタファ・ケマル・パシャ(後のケマル・アタチュルク)は,これらの運動を統合し,アンカラに国民政府を樹立して,連合国の傀儡(かいらい)と化したオスマン帝国政府の打倒,ギリシア軍,フランス軍など外国軍隊の追放を実現した。その結果,600年余の命脈を保ったオスマン帝国は滅亡(1922年11月スルタン制の廃止)し,23年7月のローザンヌ条約によって,セーブル条約が廃棄されてトルコの独立が国際的に承認された。同年10月,国民政府はアンカラへの遷都決定に引きつづいて共和制を宣言し,ムスタファ・ケマルがその初代大統領に選出された。…
…しかし民族国家形成のために行われた最も思いきった荒療治は住民交換であった。第1次大戦後に結ばれたヌイイー条約によってギリシア・ブルガリア間に住民交換が行われ,またギリシア・トルコ戦争の講和条約である1923年のローザンヌ条約によって両国間に強制的住民交換が行われ,ギリシア人130万人,トルコ人40万人,ブルガリア人25万人がそれぞれの〈本国〉へ移住したといわれるが,何世紀も居住した土地を去って母国に引き揚げた者たちを待ちうけていたのは多くの場合割り当てられた開拓地や都市スラム街での生活や経済的な貧しさであった。 独立後の経済的・社会的立遅れのために生じた現象としては,海外とくにアメリカへの移住がある。…
…1198年に即位したインノケンティウス3世は,反皇帝運動の中心となり,教皇領の拡大,充実を図った。13世紀の諸都市は,ギベリンとゲルフに分かれて激しい戦いに入り,1278年,教皇ニコラウス3世は皇帝ルートウィヒと教皇領を承認するローザンヌ条約を更新し,この時から,教皇は真の世俗的統治者になった。アナーニ事件を経て,1309年,教皇庁はアビニョンへ移転され,ラチオにおける教皇の統治権が衰退した。…
※「ローザンヌ条約」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...
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