翻訳|Dardanelles
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エーゲ海とマルマラ海の間にある海峡。ボスポラス海峡とともにアジアとヨーロッパを分かつ海峡で、古くからの交通の要衝である。長さ61キロメートル、幅は1.9~6.4キロメートル。古代はヘレスポントス海峡とよばれて、黒海と地中海を結ぶ貿易路を支配した。トロイの繁栄はこれに基づいていた。ギリシア植民市としてアビトス、セストスが海峡の両岸に成立した。ペルシア戦争では、アケメネス朝のクセルクセス1世の大軍がこの海峡を通過した。アレクサンドロス大王は紀元前334年、ペルシア遠征のためこの海峡を渡った。ローマ帝国の支配下に入ったダーダネルス海峡は、コンスタンティノープル建設後、地中海への出口として重要性を増した。イスラム勢力や第4回十字軍もこの海峡を海路通過した。オスマン帝国オルハン・ベイは1356年、ダーダネルスを渡り、ガリポリを占領しヨーロッパに進出した。1453年コンスタンティノープルがオスマン帝国に占領されると、海峡は地中海からの海上航路としてのみ外国商船に開放された。
18世紀以降、ロシアの南下政策が進行すると、ボスポラス海峡とともに国際関係の重要地点の一つとなった。ギリシア独立戦争後、オスマン朝とロシアの間で締結されたアドリアノープル条約で、海峡はロシアの完全自由航行権が保障され、1833年には、エジプト事件を理由に、ロシアの軍事支配が行われた。その後、1841年、海峡条約により海峡の中立が規定された。クリミア戦争後のパリ条約で、海峡の軍艦通行が禁止された。ロシア・トルコ戦争のロシア勝利によってサン・ステファノ条約が1876年締結され、両海峡の自由通航権をロシアが得た。しかし同年のベルリン条約によりサン・ステファノ条約は破棄された。第一次世界大戦後、1920年、セーブル条約により海峡は国際海峡委員会が管理した。1936年、モントルー条約によって新生トルコ共和国は、ダーダネルス海峡の管理権を手に入れることができた。
[設楽國廣]
トルコ北西部,ヨーロッパとアジアを分断し,エーゲ海とマルマラ海を結ぶ海峡。呼称は,沿岸にあった古代ギリシアの植民都市ダルダノスに由来する。トルコ語名はチャナッカレÇanakkale海峡。全長約61km,幅1.2~6.4km,平均水深55m(最深部は92m)。マルマラ海の寒流とエーゲ海の暖流が海峡で激しく交錯して豊かな漁場を形成する。アジア側の町チャナッカレは漁業と缶詰工業が盛んである。
古代にはヘレスポントスHellēspontosとよばれ,14世紀までビザンティン帝国の重要な水路であったが,15世紀以降オスマン帝国が航行権を独占してきた。18世紀中葉からオスマン帝国が衰退期に入ると,ロシアは海峡支配を目ざした南下政策を展開して海峡問題がおこった。第1次世界大戦ではイギリス・フランス連合軍が海峡占領を画策したが失敗に終わった。大戦後,セーブル条約(1920)で国際管理下に置かれたが,ローザンヌ条約(1923)で非武装を条件にトルコの支配管理権が認められ,現在にいたる。
執筆者:長場 紘
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…一般には黒海と地中海を結ぶダーダネルス,ボスポラス両海峡の軍艦の通航権をめぐる国際紛争を指す。今日では重要な海上輸送路にあたるマラッカ,ホルムズ両海峡,さらに,海軍力の通過する他の海峡についても関心がはらわれている。海峡は,歴史的に,異なる文明や地域間の十字路として象徴的な意味が与えられてきた。とくに,頻繁な海上交通路にあたる海峡付近には交易の拠点が,戦略上の重要性が意識される海峡には軍事基地が,設けられてきた。…
※「ダーダネルス海峡」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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