基本情報
正式名称=トルコ共和国Türkiye Cumhuriyeti
面積=77万9452km2
人口(2010)=7270万人
首都=アンカラAnkara(日本との時差=-7時間)
主要言語=トルコ語,クルド語
通貨=トルコ・リラTurkish Lira
アジア大陸の西端に位置し,アナトリア(小アジア)とヨーロッパ大陸のマルマラ海沿岸地方の一部とにまたがる共和国。なお,共和国成立以前の歴史については〈トルコ族〉〈セルジューク朝〉〈オスマン帝国〉などの項を参照されたい。
トルコの大部分(97%)を占めるアナトリアは,起伏の激しい山地と高原をなしており(平均標高1132m),平地はきわめて少ない。気候は一般に冬に雨が降り,夏に乾燥する地中海式気候帯に属しているが,内陸の高原は,黒海および地中海に沿って東西に走る山脈によって海洋性気候から遮断されて,内陸アジアの大陸性気候帯に連続する乾燥地帯をなしている。
最も乾燥度の高い中央アナトリアのトゥズ湖周辺の年降雨量は200mm以下である。したがって,内陸アナトリア高原は,牧畜および穀類(小麦,大麦)の単作地帯をなしており,近年は灌漑とトラクターの普及により,コニヤ平原を中心に,この国の穀倉地帯となっている。沿岸地方も夏の乾燥度は高いが,冬に降る適度の雨(雪)が,クズルウルマク川(黒海に注ぐ),ゲディズGediz川,メンデレス川(ともにエーゲ海に注ぐ)などの河川を形成し,その流域を中心に多彩な農業が展開されている。黒海沿岸は降雨量が最も多く,西部のゾングルダク地方で1200mm強,東部のリゼでは2400mmに達する。ポントス山脈と総称される,黒海に平行に走るジャニキ山脈,東黒海山脈などは,いずれも海に迫っているが,黒海に面したその北麓では森林資源に恵まれ,またタバコ,茶,ヘーゼルナッツなどの輸出向け果樹などの栽培が盛んである。
トルコ最大の都市イスタンブールの後背地にあたるヨーロッパ大陸およびアナトリアのマルマラ海沿岸地方は,600~700mmの年降雨量をもち,都会向け野菜,搾油用のヒマワリ,とくにオリーブの産地である。近年は食肉および乳製品生産を目的とした牧場経営が発達している。イスタンブール郊外はトルコ随一の工業地帯となっている。西アナトリアのエーゲ海沿岸地方は,低地で600~800mm,山地で800~1000mmの年降雨量をもち,ゲディズ川,メンデレス川の各河川の流域は,狭小ではあるがきわめて肥沃で,タバコ,綿花,ブドウ,イチジク,各種野菜を産し,近代的農法の普及した最先進地域である。その集荷港イズミルは,アナトリア最大の輸出港である。
地中海沿岸地方の夏は,非常に暑く乾燥しているが,冬には雨が多く,年降雨量は,西のアンタリヤ地方で1000mm,東のアダナ地方で600mmに達する。トロス(タウロス)山脈が海岸に平行して走り,その裾は海に迫っているが,オレンジ,レモンなどのかんきつ類の栽培が発達している。この地方最東部の,シリア国境に近いチュクロバおよびアミクの両平原は,この国最大の綿花栽培地帯である。
トルコの最高峰アララト(アウリ)山(5165m)をもつ東部アナトリアは,3000m級の山の連なる山岳地帯で,冬の積雪によって外界から遮断される後進地帯である。ワン湖周辺や山間の谷間の限られた耕地での農耕(穀類)を除けば,羊,ヤギによる牧畜が主体である。東部から中央アナトリアへなだらかに下る斜面には豊かな牧草地が広がり,最良のチーズを産する。また,その最西端のマラティヤ盆地では綿花も栽培されている。
住民の大多数は,中央アジアに故地をもつトルコ人(トルコ族)であるが,これらトルコ人は中央アジアからの移住の過程で幾多の民族と混血しており,今日,中央アジア諸国在住のトルコ系諸民族とは,容貌・骨格などにおいて異なっている。ただし,ロシア帝国から亡命した〈タタール人〉もトルコ人に含まれている。トルコ人のほかには,東部アナトリアに多数のクルド人がいるほか,ギリシア人,アルメニア人,ユダヤ教徒,イラン人,アラブ,チェルケス人,グルジア人などが少数ながらいるが,トルコ政府は,これらすべての非トルコ系住民も等しく〈トルコ国民〉として認識する方針を採っており,彼らは公式の統計記録には表れない。このほか,東黒海沿岸のリゼ地方に商才にたけた〈ラズ〉とよばれる人々がいるが,民族的には定かでない。
住民の99%はイスラム教徒であり,その大多数はスンナ派に属するが,東部および中部アナトリアにアレウィーAlevīとよばれる人々も多い。政教分離の原則にもとづくこの国では,イスラムは国教ではなく,東方正教,カトリック,プロテスタント,アルメニア教会,ユダヤ教なども存在を認められている。
かつてトルコ人の多くは遊牧民であったが,アナトリア移住後(11世紀末以後)の長い年月を経て,現在ではその大多数は定住し,遊牧民(トルクメンあるいはユルックYürükとよばれる)は全人口の1%に満たない。都市と農村との人口比率は,1950年には1:3,1985年では9:11であり,近年における都市化の傾向が著しい。
トルコ共和国は,第1次世界大戦後に発足した若い国家であるが,アナトリアにおけるトルコ人の歴史は11世紀末に始まり,とりわけ,15,16世紀を全盛期とし,第1次世界大戦まで,西アジア,北アフリカ,バルカンの大半を支配したオスマン帝国を建設した経験をもっている。第1次世界大戦後,オスマン帝国の滅亡が決定的となると,連合国はアナトリアの分割に乗り出し,また,イギリスの支援を受けたギリシア軍がイズミルに上陸して西アナトリアの併合を意図した。1920年8月のセーブル条約は,これらの既成事実を成文化したものにほかならない。これに対してトルコ人は各地に祖国解放運動を展開した。ムスタファ・ケマル・パシャ(後のケマル・アタチュルク)は,これらの運動を統合し,アンカラに国民政府を樹立して,連合国の傀儡(かいらい)と化したオスマン帝国政府の打倒,ギリシア軍,フランス軍など外国軍隊の追放を実現した。その結果,600年余の命脈を保ったオスマン帝国は滅亡(1922年11月スルタン制の廃止)し,23年7月のローザンヌ条約によって,セーブル条約が廃棄されてトルコの独立が国際的に承認された。同年10月,国民政府はアンカラへの遷都決定に引きつづいて共和制を宣言し,ムスタファ・ケマルがその初代大統領に選出された。24年3月にはオスマン王家に認められていたカリフ制も廃止され,4月には新憲法が制定された。以後,ムスタファ・ケマルの唱導のもとに,イスラムの諸制度の廃止と世俗的・西欧的諸制度の導入(トルコ帽および女性のベール着用禁止,神秘主義諸教団の閉鎖,国際的暦法と国際時間の採用,アラビア文字の廃止とラテン文字を基礎とした新トルコ文字の採用など)を目標とした改革が行われ,共和国の基礎が固められた(トルコ革命)。34年姓氏制が制定されると,トルコ大国民議会はムスタファ・ケマルに〈アタチュルク〉(〈父なるトルコ人〉の意)の姓を贈った。〈内に平和を,外に平和を〉を外交政策の基本としたトルコは,第2次世界大戦中ほぼ中立を維持し,戦後はNATOに加盟して西側陣営にとどまった。
第1次大戦後のケマル・アタチュルクの率いるトルコ革命によってオスマン帝国にかわりトルコ共和国が成立(1923),以後第2次世界大戦まで,トルコは初代大統領ケマル・アタチュルクの創設した共和人民党Cumhuriyet Halk Partisi(1923創設)による一党独裁制をとってきた。第2次大戦後,民主主義の世界的風潮の中で,1946年以降複数政党制に移行した。46年の総選挙では共和人民党がかろうじて第一党の地位と政権とを保ったが,50年の総選挙では,自由主義的政策を掲げた民主党Demokrat Parti(共和人民党反主流派により1946年に創設)が大勝し,以後60年5月までの10年間バヤル(第3代大統領,祖国解放運動の闘士)とメンデレス(首相,西アナトリアの地主出身)とによる民主党政権が続いた。民主党は,豊作による農業生産の向上,朝鮮戦争による国外需要の増加,マーシャル・プランにもとづく経済援助による潤沢な資金などを基礎として,農業の近代化,工業の発展,電力や道路など社会資本の拡充などの大規模な経済開発政策を推進したが,50年代以後,財政難,貿易収支の赤字による外貨不足,インフレ,社会発展の不均衡,政府首脳の腐敗などが表面化した。これに対して,都市民,インテリ,学生の間に不満が高まると,政府は,アメリカや西欧諸国からの借款の取付け,宗教宣伝による票の獲得,言論弾圧などによって事態の収拾を図ったが事態は改善されず,60年春に頻発した学生による反政府デモの弾圧に政府が軍隊を利用したことが引金となって,〈政治への不介入〉をケマル・アタチュルク以来の方針とする軍部は,60年5月27日にクーデタを敢行した。ギュルセル将軍Cemal Gürselを指導者とする軍人グループは国家統一委員会を組織して国政を掌握した。その結果,民主党は閉鎖され,メンデレスは絞首刑,バヤルは終身刑(のち釈放)に処された。61年1月制憲議会が召集され,政治権力の分散,二院制議会の採用,言論・出版の自由など民主主義を基調とする新憲法が制定され,同年10月に総選挙が行われて民政への移管が実現された(第二共和政)。
総選挙では共和人民党(党首はイノニュ。ケマル・アタチュルクの腹心で祖国解放運動の闘士)が第一党の地位をかろうじて得たが,単独政権をつくり得ず,65年10月の総選挙でデミレルSüleyman Demirel(〈ダム王〉とよばれたテクノクラート)の率いる公正党Adalet Partisiに政権を譲った。公正党は旧民主党員の支持を受けて結党した政党で,その政策は,民主党時代と同じく,地主や民族資本家の利益を優先した自由主義経済政策を基調としたが,政治的には民主党より民主的で,60年代を通じてデミレル首相のもとで保守安定政権が維持され,この間に社会主義運動が高揚し,トルコ労働者党のような社会主義政党も生まれた。60年代末以後,経済は再び悪化し,インフレや外貨不足による経済不況が深刻化すると,野党,労働組合,学生による反政府運動が激化した。この間,60年代を通じてみられた言論および政治活動の自由な展開の中で,政治イデオロギーの多様化が進み,とくに同年代末になると,極右および極左の政治・社会運動が注目されはじめた。極右に属する運動の一つは,チュルケシュAlparslan Türkeş(1960年クーデタに参加した青年将校。のち軍から追放された)の率いる民族主義者行動党(1969年2月創設)で,これは,中央アジアのトルコ系諸民族の救済およびそれとの連帯をも主張する超国家主義的パン・トルコ主義(トゥラン主義)的主張をもっていた。この運動は,トルコ人の民族的アイデンティティと深く結びついて,学生・労働者など若者に支持された。いま一つは,エルバカンNecmettin Erbakan(元イスタンブール工科大学教授)の国家秩序党(1970年創設)であり,これは,50年代から60年代に高揚したイスラム復興運動である〈ヌルジュ〉などと結びつき,イスラム神権国家の樹立を目標とした。その支持基盤は,農民,下層都市民,宗教関係者,保守的学生であった。極左の運動は,1968年以後国際的に盛り上がった学生運動やパレスティナ解放闘争の影響を強く受けた学生・労働者を主体とした。69年以後,左右両勢力は互いにテロの応酬を繰り返し,労働組合の相次ぐストにより,経済は沈滞した。また71年初頭には,〈トルコ人民解放軍〉と名のる極左学生組織による,NATO(1952年に加盟。イズミルに南東欧地上連合軍本部がある)基地に働くアメリカ人士官の誘拐事件も発生した。こうした政局に対してデミレル政権は事態収拾能力を欠いたため,71年3月12日,軍部はデミレル退陣を要求する最後通牒をスナイCevdet Sunay大統領(旧軍人)に送り(〈書翰によるクーデタ〉),穏健な改革派エリムNihat Erim(元イスタンブール大学教授)に組閣させた。それにもかかわらず,70年代を通じてトルコの政局は,10年間に13回も政権が交代するなど定まらず,この間デミレルの公正党と,イノニュに代わる若い党首エジェウィトBülent Ecevit(元ジャーナリスト)の共和人民党とが拮抗状態を保ったため,民族主義者行動党と国家救済党(国家秩序党の後継党。党首エルバカン)とがキャスティング・ボートを握り重要な役割を果たした。
この間,74年7月,キプロス島にクーデタが起こり,ギリシアへの一体化を求めるエノシス派のサンプソン政権が生まれると,当時のエジェウィト首相はキプロスにトルコ軍を派遣し(トルコ軍は北部を占領し,トルコ系住民は1975年2月デンクタシュ副大統領を元首とするキプロス・トルコ連邦国を宣言),国民の支持を受けたが(キプロス問題),それにより財政収支が悪化し,73年末以来の石油危機による経済危機をさらに悪化させた。75年3月,再び政権に帰り咲いたデミレルは,保守系4党とともに〈民族主義者戦線〉とよばれる保守連合を形成し,チュルケシュとエルバカンはともに副首相の地位に就いた。以後2年半におよぶ保守連合政権も,石油危機以来の経済不況を立て直すにはいたらず,インフレ,失業,貿易収支の赤字,農村人口の流出による都市郊外のスラム化など,トルコの経済・社会は悪化の一途をたどった。76年以降再び激化した左右両組織によるテロの応酬は,70年代末にいたると,もはや内戦状態に達し,80年の最初の8ヵ月間におけるテロによる死者の数は1800人余に達した。この間に79年12月には南東部アナトリアのカフラマンマラシュで,スンナ派とアレウィー住民の衝突により117人の死者を出すなどの宗派対立や,東部アナトリアのクルド人の分離独立運動が表面化し,また第1次世界大戦中のトルコ人による〈アルメニア人虐殺〉の報復を誓う国際アルメニア人テロ組織によるトルコ人外交官の暗殺事件が世界各地で続発するなど,トルコはまさに国家存亡の淵(ふち)に立たされた。78年以降,経済的にもトルコは破産状態に陥り,原料輸入の停止による工場稼働率の低下,エネルギー危機による生活必需品の欠乏,とりわけ年率100%に達するインフレは国民生活を破綻させたばかりではなく,左右両組織による無差別テロの応酬は国民に生命の危機感さえ抱かせるにいたった。
80年9月12日,軍部は再びクーデタを敢行し,参謀総長エウレンKenan Evrenを長とし,陸・海・空の三軍司令官ら5人から構成される〈国家保安評議会〉が全権を掌握した。評議会は,ただちにトルコがNATO体制の枠内にとどまることを全世界に向けて表明するとともに,国内では憲法を停止し,議会を閉鎖した(第二共和政の終焉)。
全権を掌握した国家保安評議会は,ただちに新憲法草案作成のための制憲諮問議会を発足させるとともに既成の全政党を閉鎖させて旧政党人には,今後トルコの政治をいっさいゆだねない方針を明らかにし,また左右両過激派の一掃に乗り出した。国際的にはNATO体制の堅持,自由主義経済政策の続行を表明して,EC(現在その準加盟国),OECD,IMF,世界銀行などから資金援助を受けて経済状態の打開を図った。その結果,トルコ経済は急速に回復し,82年11月の新憲法草案に対する国民投票では,国民の90%以上が賛成票を投じた。これにより,エウレンが新憲法の規定にもとづいて第7代大統領に選出された。新憲法の特徴は,大統領の権限の大幅な拡大にあり,議会も従来の二院制から一院制に改められた。
83年11月6日,新憲法と新政党法(1983年4月23日発効)とにもとづいて総選挙が行われて,3年ぶりで軍事政権に終止符が打たれ,民政移管が実現された。選挙の結果,経済に明るいテクノクラート,オザルTurgut Özal(電気技師出身,元世界銀行顧問)の率いる祖国党Anavatan Partisiが,330議席中184議席を獲得して,人民主義者党(92議席),民族主義者民主党(54議席)を圧倒して単独で政権を獲得し,技師出身のテクノクラートを中心とした組閣(1983年12月14日)を行って,経済および技術開発による国内問題解決に当たる方針を明らかにした。この間83年11月16日に,北部キプロスのトルコ系住民は,〈北キプロス・トルコ共和国〉を宣言し,トルコはただちにこれを承認した。
87年11月の総選挙でもオザル首相の率いる祖国党が大勝した。隣国ギリシアとはキプロス紛争などで長い間対立を続けてきたが,88年に入ってオザル首相はギリシア首相と直接会談をし,定期的に両国の首脳会談を行うなどの点で合意,キプロス紛争の解決には至らないまでも,和解をとげた。89年10月,オザル首相は国会で,文民出身としては30年ぶりに第8代大統領に選出された。オザルは大統領就任と同時に憲法の条文にもとづいて祖国党の党籍を離れ,政治的に中立なポーズをとったが,実質的には政治権力をなお維持した。こうしたオザルの独裁的傾向のもとで政治の腐敗が進み,〈オザル王朝〉に対する批判が高まった。91年,湾岸戦争が勃発すると,オザルは多くの反対をよそに,いちはやくイラクに対する経済制裁に参加するなど欧米側の姿勢を明らかにし,空軍基地の使用を許した。93年にオザルが死去すると,当時正道党の党首を務めていたデミレルが大統領に選出された。その結果タンスウ・チルレルTansu Çillerが正道党党首になり,93年6月にトルコ史上最初の女性首相に就任した。チルレルは経済学者であったが,その経済政策は成功せず,むしろクルド労働者党(PKK)の分離独立運動を強硬に弾圧したことで知られる。この間に老練な政治家エルバカンの福祉党が着々と地盤を固め,95年末の総選挙で第一党となり,翌96年6月に福祉党内閣が成立した。しかし,この内閣は正道党との連立であり,エルバカンとチルレルが1年交代で首相を務めるという変則的なものであった。また,エルバカン首相のイスラム復興主義的政策は国民の間に大きな不安と批判を呼んだ。このため,大統領デミレルは政局に介入し,エルバカンを辞任に追い込んだ。97年7月に祖国党党首メスト・ユルマズMesut Yılmazが,祖国党,共和人民党,トルコ民主党の3党による連立内閣を発足させたが,その支持基盤は脆弱である。
共和国発足当時のトルコは,オスマン帝国末期の植民地経済を清算することに全力を注いだ。すなわち,外国資本に握られた金融と基幹産業を国有化し,土着の工業を育成することであった。1923年7月に締結されたローザンヌ条約によってトルコは政治的独立を国際的に認められただけではなく,カピチュレーション,〈オスマン債務管理局〉,フランスのタバコ専売公社のいずれをも廃止させることに成功し,経済的自立への糸口をつかんだ。20世紀初頭以来,アナトリア各地に微弱ながら民族資本家が現れており,地主層もまた商品産物の有利な市場化を求めていた。共和国政府の経済政策は,以上のような現実に立脚し,民族資本の保護・育成と基幹産業の国家資本による創出とを意図したものである。この政策は,エタティスムétatisme(国家資本主義)とよばれ,(1)国営銀行の設立とその企業活動への参加,(2)鉄道・鉱山等外資系特権企業の買収による国有化,(3)アルコール,マッチ,塩等の専売制など,を基本とし,30年代の世界経済のブロック化とも対応している。その結果,30年代のトルコは,鉄道国有化のほか,石炭,鉄,銅,クロームの各鉱業,繊維産業,食品加工,セメント,砂糖などの工業部門に大きな進展がみられた。
第2次世界大戦後,マーシャル・プランにもとづいて大量に外資が導入されると,民主党政府は,電源開発,道路,港湾などの大規模な経済開発政策と,トラクターの大量購入,農業への融資による農業近代化政策とを積極的に推進した。また,エタティスムの中核である〈国家経済機関〉と〈国家経済企業〉への民間資本の参加もすすんで,戦後のトルコ経済は国営企業と私営企業とが相互に補完し合う〈混合経済〉へと転換した。
60年代の公正党政府の経済政策は,〈混合経済〉体制を基本としつつも,50年代の性急で,無計画な経済政策の欠陥を是正するために,63年より経済開発五ヵ年計画を継続的に実施し,国家による計画経済と民間資本の育成とその産業資本への転化とを課題とした。その結果,経済成長率7%の目標はほぼ達成され,〈コチ・ホールディング〉(1963設立。トラクター,冷蔵庫,プロパンガスなど88社を傘下におさめる)に代表されるような,土着の産業資本の成長がみられ,60年代後半には,大半の生活必需品のほか,ラジオ,電気洗濯機,冷蔵庫,電気掃除機などの電化製品を自給できる段階に到達した。それでもなおトルコの経済は,国際的にみればGNPの33%,輸出の76%を農業生産が占める(1960年代半ば)農業国であり,資本財および消費財の輸入への依存度が高く,輸入超過による貿易赤字を克服することができなかった。すでに62年7月,OECD諸国を中心に対トルコ・コンソーシアムが成立している。
60年代末になると,外国資本やそれと結びついた国内大資本を中心としたデミレル政権の経済政策に対する中・小の民族資本家の不満が高まった。68年5月の商工会議所連合会の総会は,ヨーロッパよりも中東諸国との経済的紐帯を主張するエルバカンを会長に選出し,公正党政権の軌道修正を迫った。
70年代のトルコ経済は,前半こそ7%前後の経済成長率を維持したが,後半は相次ぐ政権交代,テロ,ストライキ,ロックアウトなどの政治的・社会的不安に加えて,73年末以来の世界的石油危機は,非産油国であるこの国の経済に大きな打撃を与え,79年には成長率はマイナスを記録するにいたった。しかしながら,80年のクーデタ後,政局の安定,先進諸国からの経済援助などにより,トルコ経済の回復・発展は著しいものがあり,とりわけイラン・イラク戦争による国外需要の増大に応じて,イラン,イラク,ヨルダン,サウジアラビア,リビア,パキスタンなどのイスラム諸国への工業製品,技術,労働力の輸出を中心とする経済関係は強まりつつある。1980-88年の経済成長率は実質で年平均5.4%に達した。88年の統計によれば,輸出はGNP(国民総生産)の17%(1980年4.9%)に達し,農業機械(トラクター,コンバイン,バインダーなど),化学肥料,自動車,電化製品,鉱業,エネルギー部門に発展の著しい工業部門のGDP(国内総生産)に占める比率は,農業(17%)を抜いて第1位(26%)を記録している。こうしてトルコは中東諸国の中でも有数の工業国になった。それとともに経済面で見られる新しい傾向は,従来の欧米一辺倒の経済関係から,中東を中心とするイスラム諸国,とりわけイラクとの経済関係が深まったことである。近年の政治・社会に見られるイスラム復興の風潮はそうした関係を反映している。
トルコ共和国の前身であるオスマン帝国は,イスラム史上最も完成されたイスラム国家であった。これとは対照的にトルコは,中東イスラム諸国の中では最も西欧的な近代国家である。このギャップは,(1)トルコ人のイスラム文化との接触・受容がアラブやイラン人とくらべて遅く,かつイスラムの諸制度が国家の側から組織され,官制の色彩が強かったこと,(2)オスマン帝国の西欧化が,早くから(18世紀末以後)継続的に行われたこと,この二つから説明することができる。したがってトルコ共和国は,その住民の90%以上がムスリム(イスラム教徒)であるが,イスラムを国教とは規定していないし,またイスラム国家において基本法であるイスラム法(シャリーア),それにもとづくシャリーア法廷,イスラム宗教指導者を養成するマドラサはすべて全面的に廃止され,西欧的な法律と学校教育とが実施されている。またかつて商工民,農民,遊牧民の社会的組織化に大きな役割を果たしたイスラム神秘主義教団(タリーカ)の活動も,ごく一部を除いては禁止されている。すべてこれらの改革は,共和国初期,共和人民党の一党独裁制のもとで行われた。トルコ人,とくにエリート層の中には自分たちをヨーロッパ人と同一視しようとする傾向がみられるが,民衆はムスリムとしての自覚が強く,イスラムの伝統的習俗を守る者が多い。
第2次世界大戦後,複数政党制に移行すると,政党の多くが戦前の世俗化政策を批判し,宗教の尊重を訴えた。こうした風潮を受けて,民主党政府は共和人民党時代の世俗化政策を緩和し,51年には宗教指導者(イマームおよびハティーブ)養成校を復活させた。その結果,1950年代以後,イスラム復興を標榜する政治・社会運動が現れ(〈ヌルジュ運動〉など),70年代には前出のエルバカンによって政党化(国家救済党。福祉党の前身)された。80年9月のクーデタ以後,この運動は禁止されたが,政府はイスラム諸国との友好関係を強化している。
トルコ人は,かつてモンゴル高原,中央アジアを中心に遊牧騎馬民族国家を建てたトルコ系諸族の後裔であり,アナトリアへ移住したトルコ人の多くは元来遊牧民であった。したがって,その文化には遊牧時代のなごりが強くうかがわれる。遊牧文化の特徴は,文字文化よりも口承文化にあり,この国の民謡,舞踊,口承文学などはいずれも遊牧時代の文化を反映し,中央アジアのトルコ系諸族のそれに類似している。このうち,口承文学はオグズ・トルコ族(アナトリアのトルコ人の直接の祖先にあたる)の英雄叙事詩《オグズ・ナーメ》(オグズ・ハーン伝説),そのイスラム化した形態である《デデ・コルクトの書》を基礎とする数多くの民衆文学をもっている。また,トルコ人特有の名誉を重んじ恥を知る男性的性格,農村に今も残る略奪婚(駆落)の風習も遊牧文化の一形態である。
一方,アナトリアはヒッタイト以来の長い歴史をもち,古代ギリシア,ヘレニズム,ローマ文明の中心地の一つでもあった。これらイスラム以前の文明は,オスマン帝国によって吸収され今日に伝えられた。したがって地方民衆の信仰や風俗・習慣の中には,イスラム以前の文化がイスラム的装いのもとに残存している。たとえば,冠婚葬祭にまつわる儀礼,願かけ,占い,タブーなどの習俗の多くはトルコ以前のこの地域の習俗と共通している。地方民衆の間に今日でも大きな影響力をもつベクターシュ教団の儀礼には,ギリシア正教の影響が強いといわれる。
オスマン帝国の首都であったイスタンブールに発達した宮廷文化もまた,今日のトルコ文化に彩りを添えている。都市の家庭やレストランで味わえる洗練された料理,壮麗なモスク建築,ミニアチュール画法を取り入れた近代絵画,封建的因習からの解放をテーマとしたトルコ近・現代文学の伝統,歌謡曲,影絵芝居(カラギョズ),即興劇などは,いずれも素朴なアナトリアの文化とは好対照で,洗練の極致に達している。
トルコ社会の特徴は,しばしば都市と農村との格差の大きさにあるといわれてきた。それは西欧化の度合が著しく,近代的技術文明(ラジオ,テレビ,電化製品,医療施設など)の恩恵を受けた都市の生活と,貧困,不衛生,封建的因習に閉ざされた農村の生活との落差が大きかったことに由来する。しかしながら近年のトルコは,とくに農村部における生活水準の向上が著しく,今では都市との格差は狭められつつある。これらを可能にしたのは,50年代以降における農業近代化の成果である。だが一方では,そのことが農村における社会的格差を助長し,零細な農民を離村させ,都市の肥大化,郊外地区のスラム化(ゲジェコンドゥ)を促進し,また西ドイツなどへの出稼ぎを誘発した。トルコ農村の多くは,遊牧民がしだいに定着する過程で成立したものであることから,その社会・経済・文化にはいずれも遊牧時代のなごりが強く,たいていの農家では耕作用の家畜(牡牛,水牛)のほか,20頭前後の羊,数頭の馬,牛などをもっており,村にはこれらの家畜の世話をする羊飼いや牛飼いがいて,村社会で特異な地位を占めている。また,地中海沿岸では,現在でも夏になるとトロス山脈中の夏村に村人の大部分が移動する習慣が残されている。
執筆者:永田 雄三
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
首都はアンカラ。1923年10月,共和国宣言とともにケマル・パシャ(アタテュルク)が初代大統領に就任。以後,旧体制の一掃と改革事業の促進など,近代国家の建設に努め,対外的には多角的な友好,中立,不可侵関係を樹立した。38年イノニュが第2代大統領に就任,ケマルの遺志を継いだ。39年ハタイを回復し第二次世界大戦中は局外に立ち,連合国の勝利確定とともに45年2月,対独・日宣戦,サンフランシスコの国連憲章審議会に参加した。52年にはNATO(ナトー)に加入した。一方,民主主義をもとめる世界的な風潮から一党独裁をやめ,与党共和人民党のほかに対立政党を認めて50年5月には民主党政権ができ,ジェラル・バヤルが第3代大統領となり,10年にわたるアドナン・メンデレス内閣が生まれた。60年5月27日,クーデタとともにギュルセル将軍を首席とする国家統一委員会が生まれ,新憲法制定とともに第二共和制に移行した。60年代のトルコは民主党の自由主義的政策のもとに急速な経済発展をとげたが,貧富の差が拡大し左右政党間の対立も激化した。こうした社会背景がイスラーム復興の気運を高め,アタテュルクの掲げた世俗主義の理念を脅かすと,80年には再びクーデタが起こった(83年民政移管)。その後もイスラーム勢力は衰えず政治の不安定要因となっている。一方EU加盟をめざすなど西欧化志向も根強い。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報
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