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一条教房 いちじょうのりふさ

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

一条教房
いちじょうのりふさ

[生]応永30(1423).6.
[没]文明12(1480).10.5. 土佐
室町時代の貴族。父は一条兼良,母は中御門宣俊の娘。従一位,関白となったが,寛正4 (1463) 年これを辞し,応仁1 (1467) 年8月戦乱を避けて奈良に下り,翌 2年9月,和泉堺から土佐国幡多の家領回復のため下向。長宗我部氏に推されて長岡郡岡豊 (おこう) におり,のち幡多郡中村に移り,土佐一条家の祖となった。京都の文化をここに移入したため,中村は土佐の中心地となり,文化開発の起点となった。教房の没後,土佐一条家は次男房家が継ぎ,のち兼定 (→一条兼定) まで続いた。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

一条教房 いちじょう-のりふさ

1423-1480 室町時代の公卿(くぎょう)。
応永30年生まれ。一条兼良(かねよし)の長男。永享11年従三位,長禄(ちょうろく)2年関白にすすむ。従一位。応仁(おうにん)の乱勃発(ぼっぱつ)のとき弟尋尊(じんそん)のいる奈良興福寺に避難。応仁2年家領の土佐(高知県)幡多荘(はたのしょう)にうつり,中村の館に定住し,土佐一条家の端緒となる。和漢の学問にすぐれた。文明12年10月5日死去。58歳。法名宗恵法号は妙華寺。

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世界大百科事典内の一条教房の言及

【一条家】より

藤原氏北家の嫡流,五摂家の一つ。家号は始祖実経の殿第に由来するが,また一条の坊名にちなんで桃華ともいう。鎌倉時代の初め,藤原摂関家は,忠通の後が基実流の近衛家と,兼実流の九条家に分かれたが,九条家は,兼実が源頼朝の推挙により摂関の座について以来,源氏将軍家との結び付きを強め,さらに兼実の孫道家に至って全盛期を迎えた。道家はみずから再三摂関に就任したばかりでなく,教実,良実2子を相ついで摂関に任じ,さらに1246年(寛元4)良実に強要して関白を弟の実経に譲らせ,ついでこれを摂政とした。…

【土佐一条氏】より

…戦国時代土佐国に土着した公家一条家の一流,三国司家の一つ。1468年(応仁2)一条兼良の長子前関白教房が国人大平氏らの援助により家領幡多荘中村へ下向したのを端緒とし,開祖房家より房冬,房基,兼定,内政(ただまさ)と5代つづいた。当初は家領回復に追われたが,細川氏の守護領国制崩壊後はその抜群の家格をもって諸国人間の紛争を調停,房基のころには東進して高岡郡南部をもその版図に収め,豊後の大友氏と結びしばしば伊予南部へ侵入した。…

【中村[市]】より

…鎌倉初期,幡多郡一帯は九条家領(のち一条家領)の荘園幡多荘となるが,当地はその本郷(本荘)であった。1468年(応仁2)前関白一条教房は応仁の乱の戦火を避けて当地に下向,〈中村御所〉〈中村館〉とよばれる居館を構え,家領幡多荘の維持と町づくりに努めた。以後,長宗我部氏に滅ぼされるまで土佐一条氏の支配が続く。…

【幡多荘】より

…幡多荘は鎌倉末期の敷地氏,室町期の布氏の押領,南北朝内乱期の所務不能など在地領主の侵略に悩まされるが,応仁の乱で最大の危機に面する。そこで,前関白一条教房は1468年(応仁2)みずから遠く幡多荘に下向し,家領の回復を図った。一条家にとって幡多荘の重要性と期待がいかに大きかったかがわかる。…

※「一条教房」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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