一条兼良(読み)イチジョウカネラ

デジタル大辞泉 「一条兼良」の意味・読み・例文・類語

いちじょう‐かねら〔イチデウ‐〕【一条兼良】

[1402~1481]室町中期の公家学者関白太政大臣。准三宮博学多才で、特に歴史有職ゆうそく故実・文学に通じた。著「江次第抄ごうしだいしょう」「公事根源くじこんげん」「花鳥余情かちょうよじょう」「樵談治要しょうだんちよう」など。いちじょうかねよし。

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精選版 日本国語大辞典 「一条兼良」の意味・読み・例文・類語

いちじょう‐かねら【一条兼良】

  1. ( 「いちじょうかねよし」とも ) 室町中期の公家、学者。経嗣(つねつぐ)の子。桃華老人、三関老人、東斎と号す。摂関家の当主として摂政関白等を歴任。その博学多才は当代随一とされた。「歌林良材集」「日本書紀纂疏」「花鳥余情」「樵談治要」「公事根源」「文明一統記」など、多数の著書がある。法名覚恵。応永九~文明一三年(一四〇二‐八一

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改訂新版 世界大百科事典 「一条兼良」の意味・わかりやすい解説

一条兼良 (いちじょうかねら)
生没年:1402-81(応永9-文明13)

室町時代中期の公卿。桃華老人,三関老人,東斎とも。法号は覚恵,後成恩寺殿という。〈かねよし〉と読むほうが正しいと思われるが,〈かねら〉と読み習わしている。父は関白一条経嗣,母は東坊城秀長の女。当代一流の学者で有職故実に明るく著作も多い。子女は26人の多きを数え,長男教房(その次男は土佐一条家の祖),大乗院門跡尋尊,冬良(教房の養子)らが有名である。1412年(応永19)11歳で元服と同時に正五位下に叙され禁色昇殿を許され,翌13年従三位,29年(永享1)従一位左大臣昇進し,32年には摂政となったが,拝賀以前に解任された。しかし46年(文安3)には太政大臣に任ぜられ,翌47年には念願の関白になった。51年(宝徳3)太政大臣を,53年(享徳2)には関白を辞して准三宮の宣下をうけた。死に際しては〈日本無双の才人〉〈本朝五百年以来この殿ほどの才人は御座有るべからず〉と惜しまれたほど和漢の学に通暁し,みずからも菅原道真に勝れりとするほどの自負を抱き公家・武家が催す詩歌の席にはつねに出席を求められた。応仁の乱で一条坊門邸と膨大な和漢の書籍を集積した文庫桃華坊が焼かれたため,先に一部疎開させてあった蔵書とともに五男尋尊を頼って68年(応仁2)から77年(文明9)まで奈良へ難を避けた。戦乱が続いて生活が苦しかったので,伊勢や美濃へ旅行して大名に教学を授けて献金をうけたが,冬良の右大将拝賀のときにはその費用を得るために80歳に近い老体をおして越前の朝倉氏のもとへ出向いたほどである。一生の間にものした著述は多く,足利義政夫人日野富子に与えた女人政治の道理を論ずる《文明一統記》《小夜のねざめ》,将軍義尚への政治意見書《樵談治要》,有職関係の《公事根源》《桃華蘂葉(ずいよう)》など20余にのぼり,奈良へ疎開していた間にも乏しい資料をもとに《花鳥余情》や《日本書紀纂疏》などを著した。81年《江家次第》の御進講のさなかに倒れ,4月2日没した。東福寺普門院で葬儀が行われ,常楽院に葬られた。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「一条兼良」の意味・わかりやすい解説

一条兼良(いちじょうかねら)
いちじょうかねら
(1402―1481)

室町中期の公卿(くぎょう)、学者。名は「かねよし」とも読む。関白(かんぱく)一条経嗣(つねつぐ)(成恩寺殿(じょうおんじどの))の子として応永(おうえい)9年5月7日に生まれる。母は東坊城秀長(ひがしぼうじょうひでなが)の女(むすめ)。別称は一条禅閤(ぜんこう)。法号は覚恵(かくえ)。後(のちの)成恩寺殿。兄経輔(つねすけ)が病身であったので、1412年(応永19)11歳で元服し、叙爵して禁色(きんじき)、昇殿を許され、以後、父の権勢を背に累進して20歳で内大臣となり、29年(永享1)左大臣に、さらに4年後には摂政(せっしょう)、関白に昇って、そののちも摂政、関白、太政大臣(だいじょうだいじん)を歴任し、政界に重きをなした。南北朝時代きっての碩学(せきがく)二条良基(にじょうよしもと)を祖父に、また歴代学問の家として名高い菅原(すがわら)氏の東坊城秀長を外祖父にもっただけに、若年より俊才をうたわれ、後年には「五百年来の大学者」「一天無双の才」とたたえられた。67年(応仁1)66歳で応仁(おうにん)の乱に際会し、代々の蔵書を収めた文庫の桃花坊(とうかぼう)を一条室町(むろまち)の邸もろとも失い、関白職現任のまま翌年子息の大乗院尋尊(だいじょういんじんそん)を頼って奈良に避難。77年(文明9)日野富子(ひのとみこ)らの尽力で京都に戻るまでは同地を拠点に学芸面で活躍、『花鳥余情(かちょうよせい)』『日本書紀纂疏(さんしょ)』など代表的著作を完成し、伊勢(いせ)(三重県)、近江(おうみ)(滋賀県)、美濃(みの)(岐阜県)などにも旅した。その間、73年に出家入道。晩年も故実、典礼、古典文学などの研究にいそしみ、物語、連歌和歌に関する数多(あまた)の著作を残した。精力絶倫で76年に75歳で女子をもうけ、その子女はあわせて26人にも上った。80年将軍足利義尚(あしかがよしひさ)の求めで『樵談治要(しょうだんちよう)』を記述し贈呈したが、翌文明(ぶんめい)13年4月2日、かぜがもとで80歳で没した。墓所は東福寺(とうふくじ)(京都市東山区)にある。

[横井 清]

『永島福太郎著『一条兼良』(1959・吉川弘文館)』


一条兼良(いちじょうかねよし)
いちじょうかねよし

一条兼良

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朝日日本歴史人物事典 「一条兼良」の解説

一条兼良

没年:文明13.4.2(1481.4.30)
生年:応永9.5.7(1402.6.7)
室町時代の公卿,学者。「かねら」ともいう。法名は覚恵。後成恩寺と号し,一条禅閤と称した。父は一条経嗣,母は東坊城秀長の娘。応永19(1412)年に元服して叙爵,翌年従三位,同21年に正三位・権中納言となり,同23年に権大納言となって家督を継ぐ。同28年に内大臣,同31年に右大臣,同32年従一位,永享1(1429)年に左大臣,永享4年8月に摂政・氏長者となるが,室町幕府将軍足利義教が二条持基を重用したことから,同年10月に摂政を辞任させられる。文安1(1444)年に足利義政が将軍になると,同3年に太政大臣,翌年には関白・氏長者となる。宝徳2(1450)年に太政大臣を,享徳2(1453)年に関白を辞任,同年准三宮に叙せられ,長禄2(1458)年に辞した。応仁1(1467)年に再び関白となったが,応仁の乱の勃発により同2年に奈良興福寺大乗院門跡尋尊(兼良の5男)のもとに疎開した。文明2(1470)年に関白を辞して,同5年に美濃(岐阜県)に下向し,奈良に戻ってまもなく大乗院で出家した。同9年に帰京し,同11年には越前(福井県)の朝倉孝景のもとに下向して家領足羽御厨の返付を要求したが聞き入れられず,200貫文の寄進を得て帰京,同13年に病没し,東福寺に葬られた。 兼良は当時,500年以来の才人といわれ,古典学・有職学の第一人者であった。有職故実では『公事根源』『江家次第抄』『代始和抄』『世諺問答』『二判問答』などの書があり,息子冬良のために『桃華蘂葉』を著している。古典では,『源氏物語』などを天皇,将軍家に進講し,『日本書紀纂疏』『花鳥余情』などを著した。また,『歌林良材集』『連珠合璧集』などの歌学入門書,日野富子のための『小夜寝覚』や将軍足利義尚のための『文明一統記』『樵談治要』などの教訓書,美濃下向時の紀行文『藤河の記』,金春禅竹に与えた『桃華老人申楽後証記』,仏教関係の『勧修念仏記』『多武峰縁起』などの書がある。兼良の博識な学問と多数の著書は,当時の人々の啓蒙と学問研究に多大な功績を残した。<参考文献>永島福太郎『一条兼良』

(伊東正子)

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百科事典マイペディア 「一条兼良」の意味・わかりやすい解説

一条兼良【いちじょうかねら】

室町中期の公卿(くぎょう),古典学者。〈かねよし〉とも。関白一条経嗣(つねつぐ)の子。関白・太政大臣にまで昇進。応仁・文明の乱で一家は離散し,邸宅や文庫桃華坊(とうかぼう)も焼失した。1473年に出家して,失意のうちに死んだ。法名覚恵(かくえ)。自ら桃華老人などと称し当代随一の学者といわれた。主著《文明一統記》《樵談治要(しょうだんちよう)》《公事(くじ)根源》《花鳥余情》など。
→関連項目朝妻花鳥余情三条西実隆随筆宗祇竹林抄中世日本紀幡多荘

一条兼良【いちじょうかねよし】

一条兼良(いちじょうかねら)

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「一条兼良」の意味・わかりやすい解説

一条兼良
いちじょうかねら

[生]応永9(1402).5.7.
[没]文明13(1481).4.2. 京都
室町時代の公卿,古典学者。桃華叟,三関老人,後成恩寺,覚恵ともいう。太政大臣。一条経嗣の子。母は東坊城秀長の娘。永享4 (1432) 年摂政となったが,まもなく辞退。 500年来の学者,無双の才人などと評されたが,みずからも菅原道真以上の学者と豪語していた。応仁1 (67) 年,関白に還補されたが,その9月に戦乱の兵火によって一条室町の邸宅と文庫「桃花坊」が焼失したので,翌2年8月子の尋尊を頼って奈良興福寺大乗院門跡に避難,ここで『源氏物語』の注釈書『花鳥余情』 (72) ,『日本書紀纂疏』 (72頃) を完成するなど講書,著作の生活をおくった。文明9 (77) 年,応仁の乱が治まると,同年 12月帰京した。のち『樵談治要』 (80) を将軍義尚に贈り,政道の指南にあたるとともに公武の好学の徒に学問を講じた。学問の幅は広く,有職故実の研究から,和歌,連歌,能楽など遊楽の道にも及んでいる。古典では従来の研究を集大成し,また神,仏,儒の三教一致をも説いた。ほかに『東斎随筆』『尺素 (せきそ) 往来』など。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「一条兼良」の解説

一条兼良
いちじょうかねよし

1402.5.27~81.4.2

名は「かねら」とも。室町中期の公卿・学者。父は経嗣,母は東坊城秀長の女。一条禅閤・三華老人・桃華老人・三関老人・東斎と号し,500年来の学者,無双の才人と評された。1412年(応永19)元服し翌年従三位。16年兄の出家後一条家をつぎ,32年(永享4)摂政となるが,未拝賀のまま辞退。47年(文安4)関白・氏長者。67年(応仁元)再び関白となるが,翌年応仁の乱を避け,子の大乗院門跡尋尊(じんそん)を頼って奈良へ疎開。70年(文明2)関白を辞し,73年出家。後成恩寺殿(のちのじょうおんじどの)と号し,法名覚恵。77年,乱の終息にともない帰洛。編著に有職(ゆうそく)書の「公事(くじ)根源」「桃華蘂葉(とうかずいよう)」,和歌の「新続和歌集」,連歌の「新式今案」,古典研究の「花鳥余情」「日本書紀纂疏(さんそ)」「伊勢物語愚見抄」,政道論の「文明一統記」「樵談(しょうだん)治要」,美濃旅行の紀行文「ふぢ河の記」,随筆「小夜(さよ)の寝覚(ねざめ)」などがある。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「一条兼良」の解説

一条兼良 いちじょう-かねよし

1402-1481 室町時代の公卿(くぎょう),学者。
応永9年5月27日生まれ。一条経嗣(つねつぐ)の子。文安3年太政大臣,4年関白。応仁(おうにん)元年関白に再任。従一位。応仁の乱で一条室町邸とともに文庫桃華坊を焼失し,奈良興福寺に疎開。有職(ゆうそく)故実に通じ,古典研究,和歌にすぐれ,学識当代一といわれた。文明13年4月2日死去。80歳。号は桃華老人,東斎など。法名は覚恵(かくけい)。法号は後成恩寺。名は「かねら」ともよむ。著作に「花鳥余情」「公事(くじ)根源」「樵談(しょうだん)治要」など。

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旺文社日本史事典 三訂版 「一条兼良」の解説

一条兼良
いちじょうかねよし

1402〜81
室町中期の公卿・学者
名は「かねら」とも読む。一条経嗣の子。関白・太政大臣に昇進し,氏長者 (うじのちようじや) となる。応仁の乱で邸宅や文庫を焼かれ,奈良に行きその子大乗院尋尊 (じんそん) のもとに寄寓し,出家。古典・有職故実 (ゆうそくこじつ) ・神道に通じ和歌にも長じ,当代随一の学者といわれた。『公事根源 (くじこんげん) 』『桃華蘂葉 (ずいよう) 』『樵談治要 (しようだんちよう) 』『文明一統記』『花鳥余情』『日本書紀纂疏 (さんそ) 』など著書も多い。

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367日誕生日大事典 「一条兼良」の解説

一条兼良 (いちじょうかねよし)

生年月日:1402年5月7日
室町時代;戦国時代の歌学者・公卿
1481年没

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世界大百科事典(旧版)内の一条兼良の言及

【花鳥余情】より

…30巻。著者は一条兼良(かねら)。1472年(文明4)に成る。…

【公事根源】より

…室町時代の有職故実の書。一条兼良の作。兼良が将軍足利義量の求めに応じて書いたとも,または兼良の子どものために書いたものであるともいわれている。…

【江次第抄】より

…《江家次第抄》ともいう。一条兼良の撰述。巻首に発題を置いて《江家次第》が撰せられた由来などを記す。…

【樵談治要】より

…1480年(文明12)将軍足利義尚の懇望により,当時最高の知識人である一条兼良(かねら)が撰進した政道書。1巻。…

【尺素往来】より

…1巻。一条兼良の作と伝えられる。尺素とは1尺ばかりの絹布の意で,転じて手紙をいう。…

【桃華蘂葉】より

…1480年(文明12)4月に一条兼良が子の冬良に与えた遺戒の書。1巻。…

【東斎随筆】より

…室町時代の説話集。一条兼良著。1巻または2巻。…

【日本書紀纂疏】より

…室町時代に書かれた《日本書紀》の注釈書。著者は一条兼良。神代の巻のみを対象とし,それも一部は散逸して,兼良何歳のころの著作か未詳。…

【連歌新式】より

…1巻。《応安新式》に,1452年(享徳1)に一条兼良宗砌(そうぜい)の意見を徴して成った《新式今案》を加え,さらに1501年(文亀1)に肖柏が改訂をほどこしたもので,正式には《連歌新式追加並新式今案等》と称し,以後長く連歌の規範とされた。ただし実際には,室町末期ころから式目はより細かく煩雑なものとなっていった。…

【六輪一露之記】より

大和猿楽の金春(こんぱる)座中興の名手,金春禅竹(ぜんちく)の代表的著述の一つ。内容は,禅竹自身の六輪一露の説に,南都戒壇院の普一国師志玉(1379‐1463)が仏教の教理で,関白一条兼良(いちじようかねら)(1402‐81)が儒学,とりわけ宋学の立場からそれぞれ理論づけした加注を添え,さらに臨済宗の僧で後に還俗した南江宗沅(なんこうそうげん)(1356‐1463)の跋文を付して一書に編んでいる。跋文の奥書などから1455年(康正1)の秋から翌年の正月までの間に成立したことがわかる。…

※「一条兼良」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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