改訂新版 世界大百科事典 「幡多荘」の意味・わかりやすい解説
幡多荘 (はたのしょう)
土佐国(高知県)幡多郡のほぼ全域と高岡郡の一部(現四万十町の旧窪川町,中土佐町久礼(くれ))を占める土佐最大の荘園。藤原氏は平安末期から鎌倉初期に土佐国を知行国としており,そのころからとくに幡多郡および足摺岬の金剛福寺と縁が深かった。その関係によってか,九条道家のときに九条家家領として幡多荘が立荘され,史料上は1237年(嘉禎3)が荘名の初見である。その後,道家の3子実経は一条家を分立,50年(建長2)多くの家領を道家から譲られたが,その中に幡多本荘,大方荘,山田荘,以南村,久礼別符がある。そのうち大方荘はのち一条家によって京都東福寺(道家開基)に寄進されている。荘官としては通例の預所,公文,下司などのほか,船所職が荘内物資輸送のため中村の木の津(古津賀)または下流の下田浦に置かれたと推定される。幡多荘は鎌倉末期の敷地氏,室町期の布氏の押領,南北朝内乱期の所務不能など在地領主の侵略に悩まされるが,応仁の乱で最大の危機に面する。そこで,前関白一条教房は1468年(応仁2)みずから遠く幡多荘に下向し,家領の回復を図った。一条家にとって幡多荘の重要性と期待がいかに大きかったかがわかる。教房の後は房家,房冬,房基,兼定と続き,国司兼帯の荘園領主として幡多荘に君臨し,戦国大名化する。これが幡多荘の際だった特色である。この間土佐一条氏は京都一条家,朝廷,管領細川氏,堺町衆,本願寺などと密接な関係を保ち,それにかかわる南海路交易に幡多荘は重要な役割を果たしていた。1574年(天正2)土佐一条氏滅亡後は長宗我部氏によってその支配体制に組みこまれ,幡多荘は消滅する。
執筆者:下村 效
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報