七日町(読み)なぬかまち

日本歴史地名大系 「七日町」の解説

七日町
なぬかまち

[現在地名]山形市七日町一―五丁目・本町ほんちよう一―二丁目・小姓町こしようまち緑町みどりちよう一―四丁目など

三の丸の大手門前を通る羽州街道の両側町を中心に東に広がる町で、北に続く旅籠はたご町とともに城下の中央部にあたる。南はよこ町、東は小白川こじらかわ村。東部一帯は寺町とよばれた。最上氏時代には笹谷ささや街道が小白川村から城下に入り、当町で羽州街道に合流していた。最上氏時代城下絵図には「今七日町」と記され、東方に三日みつか町がみえる。東部には最上義光建立の浄土宗専称せんしよう寺とその寺中、曹洞宗光禅こうぜん寺などのほか多数の寺院が広大な境内地を占め、出城の観を呈していた。元和八年(一六二二)鳥居忠政が入封すると、最上家の菩提寺光禅寺と門前町の三日町を城下南部の上八日かみようか町に移し、三日町を通っていた笹谷街道千歳ちとせ山麓を通って城下南部から入る道筋とした(東村山郡史)。三日町の跡地は元三日もとみつか町とよばれるようになる。

元禄一〇年(一六九七)の屋敷家数等覚(山形故実録)によれば、町の長さは横町境より旅籠町境まで三町、幅四間三尺、石橋四・土橋一。


七日町
なのかまち

[現在地名]鶴岡市本町ほんちよう二丁目

一日市ひといち町南端の丁字路から西へ延びる道沿いにある町人町。西端はうち川に架かる七日橋(現神楽橋)。町名は最上氏時代の山形城下の町名にならったといわれる。なぬかまちともよばれたらしい。慶長八年(一六〇三)町割され、初めはのちの郭内馬場ばば町の辺りにあった。酒井氏入部後の郭内拡張に伴い南方内川東岸の現在地へ移転したという。寛永二〇年(一六四三)の間数三八(大泉掌故)。延宝六年(一六七八)の城下絵図に七日町一四四間とある。元禄九年(一六九六)の城下大絵図では二五〇間。天和三年(一六八三)の町割は二町半、家数九五、男二九七・女二四四(「鶴ヶ岡町割家数人数書上」鶏肋編)。元禄七年の人別改帳(川上記)では本屋数六五、男二四八・女二一三、名子家数六二、男一七〇・女一二四(宿借・店借とも)。寛文一一年(一六七一)の無役屋敷は使者宿多右衛門など一軒四分一厘、家数三(「無役屋敷軒数覚」宇治文書)。延宝四年の総軒数四四軒二分五厘、町入用を負担する役下屋敷三八軒二分五厘、天明二年(一七八二)の役下屋敷三六軒七分五厘(「御町御水帳」同文書)


七日町
なのかまち

[現在地名]栃尾市おもて

栃尾城下の根小屋町。大手門前のおお町に直交し、町域は鶴城かくじよう山大手口の登り道にあたる諏訪神社坂下より西谷にしだに川に架かる大布たいふ橋まで。寛延三年(一七五〇)の栃尾町村絵図(富川家文書)には両側に約八軒ほどずつの町屋が並ぶ。さらに鉤形に交わる七日町の横の西谷川沿いにはよこ町が隣接する。かつては諏訪神社境内の横に出来た上の山うえのやま、七日町横の横町、さらに横町の上手の神明しんめい町・岩崎いわさき町と併せて岩神三光いわしんさんこうとよばれた時代もある。三光とは七日町・上の山・横町の三町を併せた通称名。当初は栃尾城の戦時物資調達の場であったものであろう。

延宝三年(一六七五)の屋敷改検地帳(富川家文書)では表間口四八間余で地子米は六斗余。


七日町
なぬかまち

[現在地名]人吉市七日町

球磨川を挟んで人吉城の北にある町人町の東端に位置し、東は新馬場しんばば、西は二日にの町・五日いつか町、北はおお村の泉田いずみだと接する。文禄三年(一五九四)近世城郭建設時に計画的に立てられた商人町の一つで、「熊風土記」によればそれ以前は大村青井あおい社の門前にあり、唐人とうじん町とも称し、町名の由縁は「朝鮮陣ノ時御連帰リノ朝鮮人ヲ此所ニ被召置」たためといい、「今七日町緒車氏子孫ノ由、元祖ノ墓大村ヒタ峯原ニ上リ、原ノ左ニ入畠中ニ有」という。

寛政元年(一七八九)の私領御巡見教令(相良家近世文書)によれば、「七日町壱町三拾間、道幅四間、下水道加へ、縦町四拾四間、道幅右同じ、合弐町拾四間、但屋敷数八拾五軒」とあり、借屋一四軒があった。


七日町
なぬかまち

[現在地名]会津若松市大町おおまち七日町なのかまち

北小路きたこうじ町の北に並び、大町札之辻ふだのつじより西へ行く通りで、越後・出羽両国に通じる街道。長さ七町一六間・幅四間、家数一四九。この西に続く七日町四谷よつやは、長さ一町一二間・幅三間余、家数二〇(新編会津風土記)。文化四年(一八〇七)の「若松風俗帳」に「商人住居仕候。諸国通路ノ町ニテ旅籠屋等之有リ(中略)昔此町七日ニ市ヲ立ル依而七日町ト名付」と記される。文禄元年(一五九二)蒲生氏郷が定めた六斎市になる以前の市であるという説もある。交通の要衝なので旅籠屋が多く、一七世紀中期は一七軒あったが、弘化二年(一八四五)の旅籠株極帳(地名の由来)によると、城下全町の旅籠屋の軒数九五軒中、七日町だけで三〇軒を数えた。


七日町
なのかまち

[現在地名]角館町七日町

外町に属し、東はなか町、南は勝楽かつらく町、北は東西に走るよこ町通り。西に檜木内ひのきない川から取水したうち川に接して米蔵が立つ。通りは一町二七間(享保年間「角館町町割図」角館町立図書館蔵)

宝永二年(一七〇五)の家数三六軒(角館誌)、享保八年(一七二三)三六軒(「仙北郡郡村本村支村御高調帳」秋田県庁蔵)で、伝馬役をもっていた。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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