翻訳|Stendhal
フランスの小説家。本名アンリ・ベールHenri Beyle。19世紀前半のフランスの小説家としてバルザックと並び称されるが、ほかに文芸評論、旅行記、評伝、自伝などにも手を染めている。文筆活動以外にも、ナポレオン時代の軍人、軍属、また七月革命以後の外交官の経歴があり、周知の数多い恋愛遍歴に彩られた生涯はきわめて波瀾(はらん)に富む。
[冨永明夫]
1783年1月23日、フランス東部ドーフィネ地方の首府グルノーブルの裕福なブルジョア家庭に生まれる。少年ベールの精神生活はかなり特異なものだったようだ。彼は母を熱愛し、ひたすら父を憎悪した。「母は魅力的な人だった。そして私は母に恋していた……父が私たちのキスを邪魔(じゃま)しにくるときなどは無性(むしょう)に父が憎らしかった」という自伝の一節は、典型的なエディプス・コンプレックスの記録といってよいだろう。その母を、彼は7歳のとき失った。「このときから私の精神生活が始まる」と彼はいう。大嫌いな父、狂信家の老嬢である叔母、家庭教師の神父に囲まれた自分を、少年は奴隷だと思う。地方都市のブルジョア家庭の保守性・偽善性への反発、他方リベラルな母方の祖父から授けられた18世紀的合理主義思想と文芸への愛、なによりも高潔を愛する大伯母から吹き込まれた「スペイン気質(エスパニヨリスムespagnolisme)」、さらに放蕩(ほうとう)家の叔父から学んだドン・ファン的人生訓、以上がこの反抗児の教育の総体である。数学に秀でたため、16歳でパリに上京、理工科学校(エコール・ポリテクニク)受験の機会に恵まれたものの、彼の本心は「モリエールのような劇作家になる」ことであり、結局受験は放棄した。が、親戚(しんせき)の陸軍高官の世話でイタリア遠征軍に加わり、17歳の1800年初夏、アルプスを越えてミラノの土を踏む。灰色の年月ののちに訪れた解放としてのイタリア体験は彼にとって決定的だった。彼はこの地で自由を知り、愛と快楽を、美と音楽を、そしてイタリア人の生き方を知る。それ以来イタリアは彼の精神的故郷となった。
まもなく軍職を離れ、1802年ふたたびパリへ出たベールは、以降数年間、劇作家を目ざして文学修業に精進する。読書、観劇のかたわら、エルベシウス、カバニス、デスチュット・ド・トラシなどの「イデオロジー哲学」に傾倒、その影響下に彼一流の人間学構築に腐心した。執拗(しつよう)な努力にもかかわらず劇作にみるべき成果はなかったが、この時期の修業の意味は計り知れない。後年の小説家の素地は多くこの時代に培われたのである。この間、女優メラニーに恋して出演先のマルセーユまで同行したが、これは彼が初めて経験した同棲(どうせい)生活でもあった。1806年から1814年の帝政崩壊まで、ベールは軍属として、また官吏としてさまざまの役職につき、ヨーロッパ各地を転々とした。文学よりも社会的地位を築くことに野心を燃やした時期といってよい。
1814年、ナポレオンの没落とともに失職。以後、文筆活動が本格化する。『ハイドン・モーツァルト・メタスターシオ伝』(1815)を皮切りに、ミラノ移住後の『イタリア絵画史』(1817)、『ローマ・ナポリ・フィレンツェ』(1817)が続く。後者で初めてスタンダールなる筆名が用いられた。1818年に知り合ったマチルデ・デンボウスキは生涯最大の恋人だったが、この恋は実らず、その経験はのち『恋愛論』(1822)に結晶する。1821年、それまでの執筆活動とリベラル派との交際から官憲ににらまれてミラノ退去の勧告を受け、マチルデへの恋に絶望しつつパリへ戻る。王政復古下のパリで、彼は失意の文壇放浪児でしかない。定職もないまま、フランス、イギリスの諸雑誌に多種多様の評論の寄稿が始まる。ロマン派への援護射撃『ラシーヌとシェークスピア』(1823、1825)もこの系列の仕事である。ほかに『ロッシーニ伝』(1823)、『ローマ散歩』(1829)があるが、小説としての処女作『アルマンス』(1827)は、性的不能者を主人公とする特殊な主題を扱いながら、その点を包み隠した作品だったため、さして注目を集めるに至らなかった。
長い不遇ののち、1830年の七月革命は彼に領事職をもたらした。前後して出版された『赤と黒』(1830)は彼の代表作だが、好評を博したとはいいがたい。以後は、ローマ近郊のチビタベッキアの領事として同地とローマの間を往復し、かたわら何回か年単位の休暇を得てパリに遊ぶ生活が続く。職務に倦(う)む領事は書くことに慰めをみいだした。二つの自伝『エゴチスムの回想』『アンリ・ブリュラールの生涯』、長編小説『リュシヤン・ルーベン』『ラミエル』はいずれも未完(死後刊行)に終わったが、『カストロの尼』(1839)を含む「イタリア年代記」と総称される中短編群、『ある旅行者の手記』(1838)などを発表。ことに、『イタリア年代記』の延長線上に位する『パルムの僧院』(1839)は生涯を締めくくる傑作である。1842年3月22日、パリ滞在中に街頭で卒中の発作に襲われ、意識を回復しないまま翌23日没した。
[冨永明夫]
小説家スタンダールの功績は、近代小説におけるリアリズムの一つの型を打ち立てた点にある。『赤と黒』の副題「1830年年代史」が暗示するとおり、作者が年代記作家としてフランスの現実を描くことを課題としていたことは多くの証拠から明らかであり、「人はもはや小説においてしか真実に到達しえない」という省察を胸に畳んでいたことも確かである。これに「小説、それは往来に沿って持ち歩かれる鏡である」という彼の有名な警句を重ね合わせてみればいい。確かに彼の小説は、バルザックのそれのように社会総体のパノラマを志すものではなく、むしろただ1人の主人公の物語に終始することが多い。スタンダールの鏡は、時代を、社会を映し出しはするが、それはほとんどつねに主人公というレンズを通じてなのである。作中であれほど内的独白が多用されるゆえんであろう。また創作ノートにいう「風俗の描写は小説中において味気ないものだ(中略)描写を驚きに変えてみるがいい、描写は一つの感情になるだろう」。現実に直面して揺れ動く主人公の内面を的確にとらえ、神速の筆に移す、これがスタンダールの創作の最大の秘密、すなわち心理的リアリズムの骨法なのである。
ところで、小説中の特権的なレンズにほかならぬ主人公を、彼はどのように設定したか。いうまでもなく自己の分身としてである。スタンダールの主人公は作者の理想化された姿だとよくいわれるが、作者自身の内面の矛盾や、明敏を志しつつ感性の発作に足をすくわれるという失敗のパターンは、作中人物においてなんら緩和されていない。むしろ小説の筋は、多く主人公の失敗にその原動力を負うている。作者は、主人公の失敗を通じてかつての自己の失敗を分析することに皮肉な快楽を味わう一方で、失敗せざるをえなかった自己の本性を確認し、容認する契機をみいだす。理想化されたのは、実は自己認識のための視点にほかならない。不惑の年を越えた作者が青年主人公のうちに投影された過去を生き直す――作品中における作者のこの奇妙な二重生活こそ、スタンダールの多くの小説に共通する構成の秘密である。作者が「若き主人公の社会へのデビュー」というテーマを飽かず繰り返したゆえんであろう。
主人公への揶揄(やゆ)ないし注釈という形で頻出する作者介入の技法、内的独白の多用、人物の「驚き」をなぞるように、鋭角的に屈曲する跳躍的文体、原因抜きに結果だけを述べ、あるいは逆にまったく結果を省略する、しかし心理的にはきわめてリアルな叙述法、スタンダールは実にさまざまな非連続的手法によってその小説を構築していく。発想と手法の斬新(ざんしん)さのために生前多くの理解は得られなかったが、まさにそのゆえに、自ら予言したとおり、死後50年、100年を経て、彼の作品はますます多くの読者を獲得していったのである。
[冨永明夫]
『桑原武夫・生島遼一編『スタンダール全集』全12巻(1968~1973・人文書院)』▽『小林正著『「赤と黒」の成立過程の研究』(1962・白水社)』▽『チボーデ著、河合亨・加藤民男訳『スタンダール論』(1968・冬樹社)』▽『大岡昇平著『わがスタンダール』(1973・立風書房)』▽『室井庸一著『スタンダール評伝』(1984・読売新聞社)』
フランスの小説家。本名アンリ・ベールHenri Beyle。地方都市グルノーブルの富裕なブルジョア家庭の生れ。7歳で母を失い,父や家庭教師に代表されるブルジョア的偽善を憎みつつ反抗的な少年時代を送る。数学に優れたため,16歳でパリに出て,名門校受験の機会に恵まれたものの,彼の本心は〈モリエールのような劇作家になる〉ことにあり,結局は受験を放棄,やがてナポレオンのイタリア遠征軍に加わり1800年春ミラノの土を踏む。灰色の年月の後に訪れた解放としてのイタリア体験は決定的だった(彼が自ら選んだ墓碑銘は〈アッリゴ・ベール,ミラノ人。生きた,書いた,愛した〉である)。まもなく軍職を離れ,パリで1805年ごろまで劇作家を目ざして文学修業に精進するが,少年時代以来,彼の精神形成に最も深くかかわったのは18世紀的合理主義であり,この時期の修業は後年の作家の形成に深い意味をもつ。その後再び軍属としてナポレオン軍に従い,モスクワ遠征を含む外地体験を積み,また官吏としてパリで華やかな生活も経験した。
1814年帝政崩壊とともに失職,以後文筆活動が本格化する。第二の故郷イタリアでの長期滞在,多く不幸な結末に終わる数々の恋愛事件,筆禍によってミラノを追われパリで文壇を放浪した失意の時代を経るうち,評伝,旅行記,美術評論,文芸時評に筆を染めた。なかでは《恋愛論De l'amour》(1822)が有名だが,小説としては《アルマンス》(1827)が処女作である。長い不遇の後,1830年七月革命後の政変で領事職を得たが,この年発表した《赤と黒》が彼の代表作となる。以後ローマ近郊のチビタベッキアに領事として駐在する一方,休暇を得て何回かパリに長期滞在する生活が続き,その間に長編小説《リュシアン・ルーベン》《ラミエル》,自伝《エゴティスムの回想》《アンリ・ブリュラールの生涯》(いずれも未完,死後発表)を執筆,また《カストロの尼》(1839)をはじめとする《イタリア年代記》の諸編,《旅行者の手記》(1838)などを発表したが,38年パリで口述筆記により完成した長編《パルムの僧院》こそ生涯の傑作であろう。死は,42年パリ滞在中に,街頭で脳卒中のかたちで彼を襲った。
ロマン派の時代に生きながらロマン派の饒舌に耐ええなかった感性豊かな魂が,18世紀的合理精神に拠りつつ,自らの内面の自伝を語るとすればどうなるか。その答えがスタンダールの小説の書き方だったといってよいだろう。時代の偽善,退廃,抑圧に抗しつつ,ひたすら自由を希求する精神が〈生き〉,〈愛する〉ためには,どのように行動し,どのような内面の劇を経験しなければならなかったか,それをスタンダールはいっさいの虚飾を去った簡潔な文体で〈書いた〉。すべては主人公の眼を通して見られ,主人公の内面の劇として語られる。心理分析の小説として,時代を告発する政治小説・社会小説として,未到の境地をひらきえたゆえんであり,近代小説の一典型として今なお多くの読者をもちうるゆえんでもある。文体と手法の斬新さが,生前の不評,死後の栄光をもたらしたのはある意味で当然のことであった。
執筆者:冨永 明夫
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1783~1842
フランスの小説家。グルノーブルに生まれ,陸軍に勤務後文筆生活に入る。『赤と黒』『パルムの僧院』などを書き,時代を批判した。精緻な心理解剖に優れ,文体は簡潔である。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報
…自我主義と訳される。利己主義を意味するエゴイズムと区別して,スタンダールがとくに好んでこの言葉を使用した。〈エゴティスムといえども,`それが誠実なものである限り’,人間の心を描き出すひとつの方法である〉(スタンダール《エゴティスムの回想》)。…
…散文では,言語という手段を純粋な機能だけに限定するために,簡潔,平明,的確などが貴ばれる。スタンダールが法典の無味乾燥な文体を散文の理想としたことは知られているが,彼はロマン派の修飾や連想や色彩に満ちた文章に対して,非情で正確な抽象語のうちに,人間情熱のあらゆるもつれを冷酷に解析するための用具をみたのである。したがって事物そのものの堅固さに達しようとしながら,彼の散文は極度に抽象化され,記号化されている。…
…フランスの小説家スタンダールの長編小説。1839年刊。…
※「スタンダール」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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