日本大百科全書(ニッポニカ) 「三木富雄」の意味・わかりやすい解説
三木富雄
みきとみお
(1937―1978)
美術家。東京生まれ。1954年(昭和29)東京公衆衛生技術学校卒業。その後中央美術学園通信教育部に入学。58年から63年までの読売アンデパンダン展に出品し、63年の内科画廊(東京・新橋)での個展で最初の「耳」シリーズの作品を発表した。アルミ合金や真鍮(しんちゅう)を使い、型取りではなく、自らの手で人間の耳を模倣拡大(縮小)した同シリーズで1960年代を代表する作家の一人になった。
このシリーズで「ヤング・セブン」展(1964、南画廊、東京)、「現代日本美術展」(1964、東京都美術館。コンクール賞受賞)、「現代美術の動向」展(国立近代美術館京都分館)、「宇部市現代日本彫刻展」(ともに1965)、パリ青年ビエンナーレ(1967。アンドレ・シュス夫人賞受賞)に参加。
「耳は人間の一部ではなく、それ自体完結したオブジェであると同時に、八つに分解された耳は、耳をはなれ、それ自体独立した一つのものである。切断された三十二面は物質の形体をはなれ、位相的空間にかわる」とは、『美術手帖』誌68年5月号に掲載された三木の言葉である。美術作品は、視覚機能を備えた身体によってまず知覚されるが、眼の近くにある耳の聴覚が、視覚中心主義の美術分野から排除されていることが大きなポイントである。また自分の耳は自分の眼で見ることができないという関係にあり、そこで宙吊りにされた「耳」の存在を、三木は人間の身体から離れた客体とみなした。耳の形状をよく見てみると複雑な位相幾何学的構造をもち、あたかも脳の視覚機能を外側にひっくり返して露出したような形にもみえる。その迷宮的な耳の構造を三木は飽くことなく制作した。
60年代日本の前衛美術家たちが直面していた、物をつくる人間と現実的な客体物としてのオブジェとの亀裂を、三木は耳の形状を取り出し再現する手法で不意に突いてみせた。70年、日本万国博覧会(大阪)の金曜広場に作品を設置、翌71年に渡米して1年間ニューヨークに滞在した。81年福岡市美術館、92年(平成4)東京・渋谷区立松濤美術館で回顧展が催された。
[高島直之]