三木武吉(読み)みきぶきち

精選版 日本国語大辞典 「三木武吉」の意味・読み・例文・類語

みき‐ぶきち【三木武吉】

政治家香川県出身。衆議院議員を長く務め、第二次世界大戦後日本自由党結成に関与し、さらに鳩山一郎を擁して日本民主党を結成して同内閣の樹立に成功。その後保守合同推進して自由民主党の結成に参画した。明治一七~昭和三一年(一八八四‐一九五六

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デジタル大辞泉 「三木武吉」の意味・読み・例文・類語

みき‐ぶきち【三木武吉】

[1884~1956]政治家。香川の生まれ。衆議院議員を長く勤め、第二次大戦後は日本自由党の結成に参画。日本民主党を結成し、鳩山内閣実現尽力。のち、自由民主党の結成を推進。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「三木武吉」の意味・わかりやすい解説

三木武吉
みきぶきち
(1884―1956)

政治家。香川県生まれ。1904年(明治37)東京専門学校(現、早稲田(わせだ)大学)卒業。1908年弁護士となる。1912年(大正1)弁護士事務所を開く。1917年衆議院議員。憲政会に所属。1922年から東京市会議員兼任。1924年憲政会幹事長。1926年東京市政刷新同盟の結成をもって政友会支配体制を確立し「大御所」とよばれたが、1928年(昭和3)の汚職事件、京成(けいせい)電車乗入れ事件に連座し投獄された(1935年大審院判決で禁錮3月の刑確定)。1939~1942年報知新聞社長。1942年の翼賛選挙では非推薦で当選(香川1区)。鳩山一郎(はとやまいちろう)、中野正剛(せいごう)とともに反東条英機(ひでき)内閣運動に参加。第二次世界大戦後、日本自由党結成に参画し総務会長となり、1946年(昭和21)4月総選挙で当選するが、同年5月公職追放。1951年解除となり、自由党に復帰。1953年鳩山一郎を押し立てた分党派自由党に参加。1954年反吉田茂勢力を糾合して日本民主党を結成し、吉田内閣を退陣させ、鳩山内閣を成立させた。1955年11月には保守合同を実現させ、総裁代行委員となったが、翌1956年7月4日に死去した。気骨のある党人派で策略にたけ、寝業師の異名をもって知られた。

[荒 敬]

『三木会編・刊『三木武吉』(1958)』『水木楊著『誠心誠意、嘘をつく――自民党を生んだ男・三木武吉の生涯』(2005・日本経済新聞出版社)』

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「三木武吉」の意味・わかりやすい解説

三木武吉
みきぶきち

[生]1884.8.15. 高松
[没]1956.7.4. 東京
政治家。 1904年早稲田大学卒業。 05年日本銀行に入り,門司支店勤務中日露講和反対市民大会で演説したかどで非難され辞職。上京して弁護士となった。 14年東京市会議員,17年衆議院議員。東京市会の大御所といわれ,24年憲政会幹事長,大蔵参与官。 34年京成電車疑獄事件で入獄,一時政界を離れ,39年報知新聞社社長,42年翼賛選挙に非推薦で当選,政界に復帰した。第2次世界大戦後,日本自由党の創立に参画,46年追放。解除後吉田茂鳩山一郎の首班争いに鳩山を支持,総務会長として党内民同派を率い,53年3月分党派自由党幹事長となった。同年 11月鳩山の復党にも同調せず,党名を日本自由党と改め最高顧問となる。 54年反吉田を旗印とした日本民主党の総務会長,55年 11月保守勢力を結集した自由民主党の実現を成就し総裁代行委員に選出されたが,56年4月鳩山総裁就任と同時に代行委員を辞任。衆議院議員当選 11回。気骨あり,また逸話にも富んだ政治家であった。

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改訂新版 世界大百科事典 「三木武吉」の意味・わかりやすい解説

三木武吉 (みきぶきち)
生没年:1884-1956(明治17-昭和31)

大正・昭和期の政治家。高松市出身。1904年東京専門学校(現,早稲田大学)を卒業,07年司法試験に合格し弁護士となる。16年憲政会に入党,翌年代議士に当選し,32年まで6回連続当選。野次将軍とよばれた。22年東京市会議員となり(兼任)実力者鳩山一郎と対立,京成電車東京乗入疑獄に連座した。33年以降鉱山業に従事,39年報知新聞社長となる。42年翼賛選挙に非推薦で当選,鳩山らと提携した。戦後ただちに鳩山を擁して日本自由党を結成,総務会長となり,翌46年5月衆議院議長に選出されたが公職追放される。51年追放解除され自由党に復帰,翌年代議士となり鳩山を推戴して吉田茂総裁と対立,民主化同盟,分党派自由党,日本自由党に属し,54年11月,自由党鳩山派,改進党と日本民主党を結成,鳩山内閣を実現した。翌年保守合同を実現,総裁代行委員の一人となったが,まもなく病に倒れた。代議士当選11回。
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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「三木武吉」の解説

三木武吉 みき-ぶきち

1884-1956 大正-昭和時代の政治家。
明治17年8月15日生まれ。大正6年衆議院議員(当選11回)。昭和3年の東京市疑獄事件で失脚。20年鳩山一郎らと日本自由党を結成するが公職追放となる。27年政界に復帰。29年反吉田勢力をまとめ日本民主党を結成,鳩山内閣を実現させ,30年の保守合同,自民党成立に尽力した。昭和31年7月4日死去。71歳。香川県出身。早大卒。

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世界大百科事典(旧版)内の三木武吉の言及

【自由民主党】より

…吉田長期政権が退陣して鳩山民主党内閣となり,自由党総裁は緒方竹虎に代わって,保守合同の機運が強まった。熱心な推進者は三木武吉であったが,その背景には,再建から発展過程にはいった日本資本主義を支える保守政治勢力の結集を望み,同時に左翼勢力の伸張傾向に危機感を強める財界の強い意向があった。このため,保守合同―自民党結成は,自由,民主両党の対立感情を残したまま,理論的にも組織的にも急造・速成の弊を免れなかった。…

【保守合同】より

…占領軍による覚書追放者鳩山一郎と,彼の後継者の自由党総裁吉田茂の確執はその象徴である。鳩山のほか三木武吉,河野一郎,石橋湛山らは53年3月分党派自由党を結成したが,4月総選挙では吉田派199名に対し35名と振るわず,11月鳩山ら多数は自由党に復党,三木,河野ら8名は日本自由党に改組して吉田と対立した。この間,政局安定を要望した財界は造船疑獄事件後の国会紛糾に対し,議会政治の安定,保守政権の安定を重ねて要望した。…

※「三木武吉」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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