三野郷
みのごう
「和名抄」高山寺本・伊勢本・東急本とも「美乃」と読む。平城京二条大路跡出土木簡に「阿波国美馬郡三野郷戸主佐伯直国麻呂米五斗」および「阿波国美馬郡三野郷戸主佐伯直国分米」とあり、これら二枚の木簡は天平七、八年(七三五、七三六)頃のものと推定されている。「阿府志」は「此地白地ヨリ佐野山城三名ノ県ノ号也」として馬路川流域を中心にした白地・佐野(現池田町)、さらにその南部の山城・三名(現山城町)など郡西部の山間部に比定している。一方、野口年長「阿波国郷名考」は「足代村に美濃田と云ふ地あり三野郷の名残なるべし」として吉野川北岸の現三好町足代付近に比定する。
三野郷
みのごう
「和名抄」は訓を欠く。美努・美怒とも書かれる。東南院文書の(一)天平勝宝四年(七五二)正月一四日、(二)天平宝字四年(七六〇)一一月七日、(三)同年同月一八日、(四)神護景雲三年(七六九)九月一一日、(五)延暦二年(七八三)六月一七日の五通の文書で、安宿王家→東大寺→新薬師寺→勅旨省→東大寺と転売・交換された三町余の土地が、東は東生郡酒人郷、西は西成郡美努郷にわたる場所にあり、北は堀江(現大川)に接していたことから、当郷の位置が堀江の南で東生郡との郡界に位置したことが知られる。その広さは明確ではないが、「日本地理志料」が堀江の北岸から現淀川の北岸の東部地域とし、「大日本地名辞書」が現淀川北岸の西部の歌島・稗島付近(現西淀川区・淀川区・此花区)とするのは、いずれも誤りであろう。
三野郷
みのごう
「和名抄」所載の郷。東急本の訓は「美乃」。同一の郷名はほかに摂津・播磨・阿波などにみえ、播磨国飾磨郡三野郷の訓も東急本に「美乃」とあるので、ミノの読みが妥当であろう。「三州志」は上蓑村・下蓑村(現福岡町)などをあて、「郷荘考」も近世の糸岡郷に属する蓑島村(現同上)・上蓑村と五位庄に属する下蓑村の三ヵ村が相並ぶことから同地域を比定し、「越中志徴」もこれを支持している。
三野郷
みのごう
「和名抄」所載の郷。東急本の訓は「美乃」。「播磨国風土記」に美濃里があり、讃岐国弥濃(三野)郡の人が来て居住したことにちなんだ地名という。里内に継潮がある。地名は筑紫国火君の祖先が同地の死者(女性)を「復生かして」、すなわち蘇生させて娶ったことに由来するという。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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