上野城(読み)うえのじょう

日本の城がわかる事典 「上野城」の解説

うえのじょう【上野城】

三重県伊賀市にあった平山城(ひらやまじろ)。国指定史跡。日本城郭協会選定による「日本100名城」の一つ。伊賀盆地の中央部の標高180mほどの台地の上に築かれていた梯郭式の城郭で、日本有数の高さ約30mの石垣を持つ。1579年(天正7)の伊賀天正の乱で焼失した平楽寺の跡に、織田信雄の家臣滝川雄利が砦を築いたのが上野城の起源。その後、1585年(天正13)に大和郡山から伊賀国に移封された筒井定次によって城が築かれた。史料は残っていないが3層の天守があったといわれる。定次は1608年(慶長13)に、徳川家康により改易させられ、上野城は伊予宇和島から津城(津市)に移った藤堂高虎の持ち城となり、大改修が行われた。築城の名手といわれた高虎は、豊臣氏との関係が険悪になる中で、豊臣氏に対する徳川方の前線拠点として、より深い堀、高い石垣を築き、新たに本丸の南に二の丸を築き、従来の天守のあった場所の西に5層天守を建設した。高虎は当初、今治城(愛媛県今治市)の天守を移築しようと考えたが、その天守が丹波の亀山城(京都府亀岡市)に献上されたために、新たに天守を築いたといわれる。徳川家康は豊臣氏の勢力との対立が激しくなった大坂冬の陣に至る時期、篠山城(兵庫県篠山市)、膳所城(滋賀県大津市)などを築城して、豊臣方の本拠の大坂城を包囲した。上野城の整備もそうした家康の意向によるものである。高虎は一族を城代家老として入城させ、以降、津藩藤堂氏の支城として明治維新まで存続した。高虎により新造された天守は、1612年(慶長17)に嵐により倒壊した。その後、豊臣氏は滅亡し、上野城を堅固な城塞にする必要がなくなったことなどから、天守が再建されることはなかった。また、本丸・二の丸などの主要部分は城代屋敷を除いて未完成のまま明治維新に至った。1869年(明治2)の版籍奉還後、城の建物のほとんどが取り壊されたが、城が小高い丘の上にあったためにほかに転用されないまま、荒廃した城跡が残った。現在、城跡およびその周辺は上野公園になっている。1896年(明治29)、伊賀出身の実業家田中善助が荒廃していた城跡とその周辺の整備を行い公園として開放した。その後、1935年(昭和10)には、衆議院議員の川崎克が私財を投じて模擬天守(大天守・小天守)を建設した。この建物は元の天守を正確に復元した天守ではなく、正式には伊賀文化産業城という。園内には藤堂高虎が築造した高さ約30mの石垣のほか、堀などの遺構が残っている。さらに、県立上野高等学校の敷地内に上野城の武庫が現存している。また、上野公園内には米倉が移築されているほか、伊賀上野出身の松尾芭蕉を祀る俳聖殿や芭蕉翁記念館伊賀流忍者博物館がある。伊賀鉄道伊賀線上野市駅から徒歩約8分。◇白鳳城ともいう。また、全国各地に上野城があることから、他と区別するため伊賀上野城とよばれることもある。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「上野城」の意味・わかりやすい解説

上野城
うえのじょう

三重県伊賀(いが)市上野丸之内にある城。普通、伊賀上野城とよばれ、白鳳(はくほう)城の別称もある。戦国期から江戸期の城。江戸期初頭の築城の名手として知られる藤堂高虎(とうどうたかとら)の縄張りであるが、城そのものは1581年(天正9)織田信雄(のぶかつ)の臣滝川雄利(たきがわかつとし)によって築かれている。ついで1585年、豊臣(とよとみ)大名の一人筒井定次(つついさだつぐ)が封ぜられ、大掛りな修築を施している。1608年(慶長13)失政をとがめられた定次が改易されると、かわって藤堂高虎が入り、大坂城包囲網の一つとして大修築が行われ、1614年完成した。ただし、天守閣は1612年の暴風で倒壊したあと再建されなかった。江戸期を通じて津城を本城とする藤堂氏の城代支配が幕末まで続いたのである。現在本丸に建つ復興天守閣は1935年(昭和10)の模擬天守。本丸西側の高石垣は約30メートルの高さをもつ。

[小和田哲男]


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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「上野城」の意味・わかりやすい解説

上野城
うえのじょう

三重県伊賀市にある平山城。白鳳城ともいう。平清盛が建立した平楽寺跡に,天正9 (1581) 年織田信雄の家臣滝川雄利が築いた城砦がその始まり。城主は脇坂安治,筒井定次と代わり,城も修理されて近世的城郭となった。慶長 13 (1608) 年藤堂高虎が入封,同 16年より大修築を始めたが,落成を目前にして翌 17年,台風のため倒壊。以来藩制時代の再建はなく,現在のものは 1937年建造で,桃山風の築城法によった優雅なものである。

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