百科事典マイペディア 「藤堂氏」の意味・わかりやすい解説
藤堂氏【とうどううじ】
→関連項目上野[市]
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江戸時代の大名家。外様(とざま)、大広間詰。近江国(おうみのくに)犬上郡藤堂村(滋賀県甲良(こうら)町)の出。六角(ろっかく)氏、京極氏に仕えた。藩祖高虎(たかとら)のとき、浅井・織田(おだ)・豊臣(とよとみ)・徳川氏に仕え頭角を現す。紀伊国粉川(こかわ)、伊予国宇和島・国府(こくふ)・今治(いまばり)を経て1608年(慶長13)伊賀1国と伊勢(いせ)2郡を与えられ安濃津(あのつ)(三重県津市)に入封する。1617年(元和3)に山城(やましろ)・大和(やまと)2国の加増地を受け32万3900石余の大名となる(津藩)。のち3代高久(たかひさ)は1669年(寛文9)弟高通(たかみち)に5万石を分封し、久居(ひさい)(三重県津市)に支藩を創設。以後、本・支藩とも明治維新まで存続する。本藩では、居城とした安濃津のほかに伊賀上野に城下町を建設し、城代を設置した。
[保坂 智]
江戸時代の大名家。近江国犬上郡から出て8世景盛が藤堂氏を称する。高虎のとき浅井,織田,豊臣,徳川氏に仕え,1585年(天正13)1万石,ついで紀州粉河2万石,伊予宇和島7万石と昇進し,関ヶ原の戦の戦功で伊予今治20万石の大名になった。1608年(慶長13)伊賀,伊勢に22万石を与えられ,はじめ伊賀上野城,10月伊勢の津城(安濃津城)に入った。大坂の陣ののち山城,大和にも増封されて32万3000石余の外様大名となり,高虎を藩祖として以後12代まで領地を失わずに明治維新を迎える。国主。維新後,伯爵。3代高久の69年(寛文9)高通に5万石を分封,久居(ひさい)藩を設けた。維新後,子爵。また計2万石を領する一門の名張家(藩士並)が置かれた。藩主としての藤堂氏は持続するが,高虎の直系は18世紀前半で絶える。藤堂氏は伊勢津城を平常の統治の拠点としたが,伊賀上野にも城代を置いて有事に備えた。
→津藩
執筆者:深谷 克己
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…宗氏は1万石余であるが対馬1国を領有するし,朝鮮との外交関係があったので10万石格の国主の扱いを受けた。 これに准ずる大名,領地高の多い大名は,伊達氏(陸奥仙台62万石余),細川氏(肥後熊本54万石),鍋島氏(肥前佐賀35万石余),藤堂氏(伊勢安濃津32万石余),松平氏(越前福井32万石),有馬氏(筑後久留米21万石),佐竹氏(出羽秋田20万石余),松平氏(出雲松江18万石余),柳沢氏(大和郡山15万石余),上杉氏(出羽米沢15万石)の10家で,合計20家の国主大名が存在した。 ただし1ヵ国を領有する酒井氏(若狭12万石余で小浜に住する),松浦氏(壱岐等6万石余,肥前平戸),稲垣氏(志摩等3万石,鳥羽)の3家は,領地高が多くないので国主としない。…
※「藤堂氏」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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