下境村(読み)しもさかいむら

日本歴史地名大系 「下境村」の解説

下境村
しもさかいむら

[現在地名]横手市下境しもざかい

東は上境村で、北は仙北せんぼく金沢西根かねざわにしね(現仙南村)と横手川(あさひ川)で接する。川の南近く角間川かくまがわ街道が通ずる。「奥羽永慶軍記」に慶長五年(一六〇〇)一〇月、山北吉田合戦の際、吉田城(現平鹿ひらか郡平鹿町上吉田間内かみよしだまうち)城主吉田孫一郎陳道が、郎等の境喜助ら七〇〇余人を率いて「境ニ出テ陣ヲ備フ」とある境喜助の居館は下境村とも考えられる。「雪の出羽路」に、下境村北部の枝郷八卦はつけ(現下境字八気)と、その東の馬場ばば(現下境字馬場)について、八卦村に古館があった頃家士が乗馬訓練したと伝える。

正保四年(一六四七)の出羽一国絵図に、上境村一千九〇〇石、上境の内下境村無高となっており、平鹿郡御黒印吟味覚書(秋田県庁蔵)によれば、同年の正保高帳に「両村高を纏境村」と記したとある。


下境村
しもざかいむら

[現在地名]直方市下境・溝堀みぞぼり一―三丁目

遠賀おんが川との合流点付近の彦山川下流域に位置する。北は頓野とんの村、北西は直方町・山部やまべ村、東は上境村。上境村とともに中世の堺郷の遺称地で、下堺村・下堺井村とも記された。小早川時代の指出前之帳では枝郷の上境村・今村を含めて下境村は田八〇町八反余(分米九七五石余)・畠七九町一反余(分大豆四〇二石余)。文禄三郡内知行方目録では上境村と合せて「さかい村」高一千三七八石余とみえ、小早川隆景に与えられている。福岡藩成立後は同藩領となるが、元和九年(一六二三)から延宝五年(一六七七)、および元禄元年(一六八八)から享保五年(一七二〇)までは東蓮寺藩(直方藩)領であった。


下境村
しもざかいむら

[現在地名]烏山町下境

小原沢こはらざわ村の北、南流する那珂川左岸にあって、集落は同川沿いの平地および河岸段丘上に位置。北は上境村、東は小木須こぎす村。天文一五年(一五四六)七月に没した那須政資の法要に「下さかい」では大町民部少など八名が香典を納めている(元亀三年七月日「那須政資法要香銭注文写」那須文書)

江戸時代を通じ烏山藩領で、畑方年貢米納の村。寛永一三年(一六三六)の堀親良遺領村目録(神奈川県堀直敬文書)に村名がみえ、高一千一六二石余。慶安郷帳では田高三五一石余・畑高八一一石余。天和二年(一六八二)小木須村と村境の地をめぐり秣場争論を起こしている(「裁許絵図裏書」川俣左門文書)


下境村
しもざかいむら

[現在地名]飯山市大字一山いちやま

温井ぬくい段丘の南東突出部にあり、半円状に曲流する千曲川の内側沖積地に立地。標高約三〇六メートル。対岸は平林ひらばやし(現下高井郡野沢温泉のざわおんせん村)。温井から下境を経て平林に至る。昭和初年まで渡船場があった。

慶長七年(一六〇二)川中島四郡検地打立之帳(小柳文書)に「六拾壱石五斗八升三合 下境村」とあるのが初見。

寛保二年(一七四二)の千曲川大洪水に、高六六石七斗五升三合のうち、永荒二八石三斗二升、当毛皆無二五石六斗八升、残高一二石七斗五升三合、潰れ家五軒、流失五軒、水入り八軒の被害を受けた(「領内水損村々国役金延納伺并年延申付書」「領内千曲川通村々水損書上帳」伊藤長治氏蔵)


下境村
しもさかいむら

[現在地名]南濃町さかい

太田おおた村の南にあり、伊勢東街道が通る。南の下一色しもいしき村の新田として開発され、寛文三年(一六六三)に下一色新田を下境村と改称したという。正保郷帳の下一色村の項に本田のほか新開一千五一石余とみえるのが当村に相当するか。しかし元禄郷帳に記載の下境村は高七二一石であり、つまびらかではない。同郷帳では大垣藩領で、枝郷として無高の銘岩原めいわら村がみえる(天保郷帳でも同様)。文化三年(一八〇六)より大垣藩領と幕府領大垣藩預所となっている(岐阜県史)。旧高旧領取調帳に大垣藩領四六二石余、同藩預所二七〇石余とあることから、文化一一年の村明細帳は同藩預所分の差出と考えられる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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