押切村
おしきりむら
千曲川両岸にまたがる。東は羽場村であるが集落等は交錯している。西は浅野村(現上水内郡豊野町)、南は山王島・北岡村、北は矢島村と耕地・立ヶ花村(現中野市)と篠ノ井川境。
慶長七年(一六〇二)川中島四郡検地打立之帳(小柳文書)に、「三百五拾九石九斗八升四合 押切村」とあるのが初見。同九年の信州四郡草山年貢帳に、「拾弐石五斗 草山 在々改牧山ヘ入 押切村 孫右衛門 善右衛門」とある。牧山は牧村(現高山村牧)である。
村名が示すように千曲川洪水被災地である。中世は長く高梨氏の支配を受け、戦国時代末の変転を経て、慶長五年森忠政(松代)、同八年松平忠輝(松代)、同一五年堀直寄(飯山)、元和二年(一六一六)近藤政成か、同五年幕府領、天和二年(一六八二)板倉重種・重寛(坂木)、元禄一六年(一七〇三)幕府領となり明治に至った。
押切村
おしきりむら
[現在地名]西区
押切町・押切二丁目・
花の木一―三丁目・
天神山・
葭原町・
南押切町・
桜木町・
菊ノ
尾通
東は名古屋村、北は春日井郡児玉村である。鴛鴦の生息地に由来し鴛鴦喜里と書くなどの付会の説はあるが地名の意味は不詳(「名古屋市史」地理編)。織田信雄分限帳に「ヲシキリ郷内」と散見する。慶長一八年(一六一三)頃、清須越しの完成に伴い、城下から清須(現西春日井郡清洲町)、墨俣・大垣(現岐阜県)に至る美濃路が村中央を通り、街道沿いに家屋が建並び、村境の樽屋町筋と押切町筋の間には大木戸が設置された。
押切村
おしきりむら
[現在地名]尾島町押切
岩松村の南東に位置し、東は武蔵国幡羅郡小島村(現埼玉県大里郡妻沼町)、南は利根川をへだてて同郡間々田村(現同上)。集落の南に川除堤があり、村の北西に扇形状の低地(旧河道)がある。仁安三年(一一六八)六月二〇日の新田義重置文(長楽寺文書)に空閑の郷々一九ヵ郷の一つとして「をしきり」がみえ、義重から庶子らいわう(義季)の母へと譲られた。里伝では岩松村の南東に続く集落であったが、大洪水で押切られ、元亀二年(一五七一)同村から独立し押切村を称したとする(昭和五三年三柱神社改修記念碑)。
押切村
おしきりむら
[現在地名]小山市押切
巴波川と永野川に挟まれた平坦地にあり、東の巴波川対岸は下泉村・鏡村。永徳元年(一三八一)八月二五日の沙弥禅助上杉朝宗禁制(法雲寺文書)に「法雲寺領下野国押切郷事」とある。法雲寺は茨城県新治郡新治村に現存する。喜連川家料所記(喜連川文書)には、小山氏に押領された郷の一つとして押切郷がみえ、永禄三年(一五六〇)まで古河公方料所であった。文禄四年(一五九五)の榎本領二十四村惣高覚(大出善作文書)に三三三石余とある。慶長一〇年(一六〇五)榎本藩領、寛永一〇年(一六三三)幕府領となり、正保元年(一六四四)旗本原田・落合らの三給、元禄一一年(一六九八)下総古河藩領。
押切村
おしきりむら
[現在地名]市川市押切・伊勢宿・行徳駅前一―三丁目・入船・日之出・福栄二丁目など
伊勢宿村の南西、江戸川の左岸に位置する。行徳経由の佐倉道に沿って集落が形成され、江戸時代は幕府領で推移した(旧高旧領取調帳など)。寛文期(一六六一―七三)と推定される国絵図に村名がみえ、元禄一三年(一七〇〇)頃の下総国各村級分では高八二石余。近世初頭から製塩を行っていて、塩浜由来書(国立史料館蔵)によると、寛永六年(一六二九)の塩浜検地で二九貫四〇〇文の塩年貢が課せられている。元禄一五年の検地では塩浜反別一三町三反余、塩年貢永は三八貫六七六文であった。
押切村
おしきりむら
[現在地名]江南町押切・上新田・中央
現江南町の北西端、荒川右岸の沖積扇状地の氾濫原に位置し、東は樋ノ口村・春野原村、西は男衾郡本田村(現川本町)、北は荒川を境に大麻生村(現熊谷市)。古代には押切と大麻生は接続しており、荒川は大麻生の北西を流れていた。中世に大麻生の南が決壊して大里郡が二分されたと推測され(大日本地名辞書)、荒川の乱流による押切りが村名の由来と考えられる。田園簿では田方四〇〇石余・畑方二一四石余、旗本米倉領。
押切村
おしきりむら
[現在地名]尾花沢市押切
正厳村の東、丹生川支流赤井川左岸下流域に位置し、北東は高橋村、南は中島村。地名は古くから赤井川の氾濫にさらされた地であったことに由来するという。元和八年(一六二二)山形藩領、寛政一三年(一六三六)幕府領となり、安政二年(一八五五)からは松前藩預地。正保郷帳では田方三〇二石余・畑方一五石余。宝暦一一年(一七六一)の御巡見様御案内覚帳(二藤部文書)によると高三一一石余、家数二二・人数一五三、馬一四。
押切村
おしきりむら
[現在地名]鴨川市押切
加茂川中流域の北岸に位置し、南は同川を狭んで下小原村、東は坂東村、北は池田村。長狭道が通る。寛永一〇年(一六三三)旗本保科領となる。正保郷帳に村名がみえ、高一一二石余、うち田方六四石余・畑方四八石余で、保科領。慶安元年(一六四八)保科氏が大名になり、飯野藩領となる。
押切村
おしきりむら
[現在地名]笹神村押切
南の陣ヶ峰の西麓に位置し、東は金屋村に接する。正保国絵図に村名がみえ、村上藩領に属する。貞享元年(一六八四)の郷村高辻帳では高一三八石八斗余。宝永四年(一七〇七)頃の山崎組御巡見御案内帳(渡辺家文書)では高一六〇石余・田畑反別一四町一反五畝余とあり、家数二六、男六七・女六二。宝暦一一年(一七六一)の御巡見様御案内帳(同文書)では高二五三石一斗余で、家数三〇・人数一三五、馬二。
押切村
おしきりむら
[現在地名]藤代町押切
小貝川西南岸に所在。東南は高須村。相馬二万石の一部で、「寛文朱印留」には下総佐倉藩領として村名がみえる。寛政二年(一七九〇)の地頭性名村高控帳(国立史料館蔵飯田家文書)によれば天領で、村高六二七・四二六石。嘉永三年(一八五〇)の岡堰三拾弐ケ村組合田畑反別控帳(同文書)では反別六八町余。
押切村
おしきりむら
[現在地名]富津市押切
六野村の東に位置し、湊川支流の志駒川が流れる。文禄三年(一五九四)の上総国村高帳に押間村とみえ、高五二石で、幕末もほぼ同様。宝永七年(一七一〇)から佐貫藩領で、幕末に至る(正徳二年「阿部正鎮領知目録」阿部家文書など)。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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