下岡蓮杖(読み)シモオカレンジョウ

デジタル大辞泉 「下岡蓮杖」の意味・読み・例文・類語

しもおか‐れんじょう〔しもをかレンヂヤウ〕【下岡蓮杖】

[1823~1914]江戸末期から明治の写真家伊豆下田の人。上野彦馬と並ぶ日本写真草創期の代表者で、文久2年(1862)横浜に写真館を開設、のち東京浅草に移った。

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共同通信ニュース用語解説 「下岡蓮杖」の解説

下岡蓮杖

下岡蓮杖しもおか・れんじょう 本名は桜田久之助。現在の静岡県下田市生まれ。江戸で絵の修業中にダゲレオタイプ写真と出合い、写真術習得を志す。米国人写真家ジョン・ウイルソンに学び、1862年、39歳で横浜に写真館を開業。長崎の上野彦馬と並んで日本における写真の開祖とされる。弟子には横山松三郎江崎礼二などがいる。晩年写真師をやめ、絵画に回帰した。

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精選版 日本国語大辞典 「下岡蓮杖」の意味・読み・例文・類語

しもおか‐れんじょう【下岡蓮杖】

  1. 幕末・明治の写真師、画家。本名桜田久之助。伊豆下田の人。ハリスの通訳ヒュースケンに写真術の基本を学び、のち横浜に出てアメリカ人ウンシンから撮影技術を習得。文久二年(一八六二)横浜野毛に日本最初の写真館全楽堂を開設した。文政六~大正三年(一八二三‐一九一四

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「下岡蓮杖」の意味・わかりやすい解説

下岡蓮杖
しもおかれんじょう
(1823―1914)

営業写真師。伊豆下田生まれ。鵜飼玉川(うかいぎょくせん)(1807―87)、上野彦馬らと並び、最も早い時期に営業写真館を開いて職業的に写真を撮りだした、日本における写真術の開祖の一人。幼名は桜田久之助。成人するまでのその履歴についてはあまり知られていないが、江戸幕府が海岸警備のため下田に築いた砲台で足軽として勤務した後、1844年(弘化1)ごろ、江戸の絵師狩野董川(とうせん)(?―1871)に弟子入り、玄関番などを勤めつつ絵師を志す。その当時に、西洋で発明されたばかりの写真術に関する情報を儒学者成島司直(もとなお)から伝え聞き、また薩摩藩島津家の下屋敷で初期の写真術である銀板写真(ダゲレオタイプ)の実物を目の当たりにしたことをきっかけに、写真に強い関心を抱くようになったという。

 その後、下田へ戻り、写真術習得のためロシア使節プチャーチンや、アメリカ総領事ハリスなどに接近、ハリスの秘書兼通訳だったオランダ人ヒュースケンから写真の撮影・現像法の手ほどきを授けられたともいわれているが、真偽のほどは定かでない。

 60年(万延1)ごろ、新たに開港した横浜へ移り、アメリカ人商人ラファエル・ショイヤーのもとで働きつつ、かたわらショイヤーの妻から西洋風のパノラマ油彩画の技法を学ぶ。やがて写真機材一式を入手。苦心をかさねて写真技術を身につけ、62年(文久2)ごろ、横浜野毛で営業写真館を開業する。おもに顧客の肖像撮影および外国人客への販売をねらった日本の風景・風俗を題材とする着色写真帳の制作などを手がけた。

 下岡の写真館はその後、横浜弁天通りへ移転し、次いで一時期下田へ移ったが、再び横浜弁天通りに戻り、67年(慶応3)ころには横浜馬車道の太田町に「全楽堂」の名称で、富士山の大看板を掲げた新築店舗を構えた。下岡の撮影と推定される現存の写真印画の多くは、この前後の1860年代に制作されたものと考えられている。同じ時期に下岡はまた、馬車を輸入し東京・横浜間で乗合馬車事業を興すなど、文明開化期のさまざまな新事業にも手を染めた。写真師下岡の門下からは、横山松三郎、鈴木真一(1835―1918)、江崎礼二、中島待乳(まつち)(1850―1938)ら、明治期に活躍した高名な写真師が輩出した。

 1876年(明治9)ごろ、写真師としては第一線から退き、東京・浅草へ転居、自作のパノラマ油彩画『函館戦争図』『台湾戦争図』や、高橋由一(ゆいち)、五姓田義松(ごせだよしまつ)、横山松三郎らの油彩画による見世物興行を浅草奥山で開催した。晩年は絵画を描いてすごしたと伝えられている。

[大日方欣一]

『前田福太郎著『日本写真師始祖下岡蓮杖』(1966・新伊豆社)』『石黒敬七編『写された幕末 石黒敬七コレクション』(1990・明石書店)』『石黒敬章編『限定版下岡蓮杖写真集』(1999・新潮社)』『「寫眞渡来のころ」(カタログ。1997・東京都写真美術館)』

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百科事典マイペディア 「下岡蓮杖」の意味・わかりやすい解説

下岡蓮杖【しもおかれんじょう】

写真家,画家。伊豆下田生れ。江戸で絵師を志して狩野派に学ぶが,偶然ダゲレオタイプを見る機会を得て,写真に開眼したと伝えられている。幕末日本に来日していた職業写真家ウンシンから写真を学ぶが,西洋科学の素養が十分にともなわなかったため,写真術の習得は困難を極めた。上野彦馬が長崎で日本初の写真館を開業した1862年に,横浜で写真館を開業している。明治以降は1876年に浅草公園にパノラマ館を開設するなど,多彩な活動を展開した。
→関連項目写真

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「下岡蓮杖」の意味・わかりやすい解説

下岡蓮杖
しもおかれんじょう

[生]文政6(1823).2.12. 伊豆,下田
[没]1914.3.3. 東京
幕末の写真業創始者。本名桜田久之助。初め絵師を志したが,安政3 (1856) 年来日したアメリカ領事ハリスの通訳ヒュースケンから写真原理を学び,横浜に移ったのち写真師ウンシンから実技を習得。文久1 (61) 年同地で写真館を開業。長崎の上野彦馬とともに,日本の写真師の始祖とされる。 1882年には浅草第5区で営業した。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「下岡蓮杖」の解説

下岡蓮杖 しもおか-れんじょう

1823-1914 幕末-明治時代の写真家。
文政6年2月12日生まれ。写真術をアメリカ総領事ハリスの通訳ヒュースケンや写真家ウンシンにまなび,文久2年(1862)横浜にわが国最初の写真館全楽堂を開業。長崎の上野彦馬とともに職業写真家の先駆者とされる。横山松三郎,江崎礼二らをそだてた。大正3年3月3日死去。92歳。伊豆(いず)下田(静岡県)出身。本姓は桜田。通称は久之助。

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