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営業写真師。伊豆下田生まれ。鵜飼玉川(うかいぎょくせん)(1807―87)、上野彦馬らと並び、最も早い時期に営業写真館を開いて職業的に写真を撮りだした、日本における写真術の開祖の一人。幼名は桜田久之助。成人するまでのその履歴についてはあまり知られていないが、江戸幕府が海岸警備のため下田に築いた砲台で足軽として勤務した後、1844年(弘化1)ごろ、江戸の絵師狩野董川(とうせん)(?―1871)に弟子入り、玄関番などを勤めつつ絵師を志す。その当時に、西洋で発明されたばかりの写真術に関する情報を儒学者成島司直(もとなお)から伝え聞き、また薩摩藩島津家の下屋敷で初期の写真術である銀板写真(ダゲレオタイプ)の実物を目の当たりにしたことをきっかけに、写真に強い関心を抱くようになったという。
その後、下田へ戻り、写真術習得のためロシア使節プチャーチンや、アメリカ総領事ハリスなどに接近、ハリスの秘書兼通訳だったオランダ人ヒュースケンから写真の撮影・現像法の手ほどきを授けられたともいわれているが、真偽のほどは定かでない。
60年(万延1)ごろ、新たに開港した横浜へ移り、アメリカ人商人ラファエル・ショイヤーのもとで働きつつ、かたわらショイヤーの妻から西洋風のパノラマ油彩画の技法を学ぶ。やがて写真機材一式を入手。苦心をかさねて写真技術を身につけ、62年(文久2)ごろ、横浜野毛で営業写真館を開業する。おもに顧客の肖像撮影および外国人客への販売をねらった日本の風景・風俗を題材とする着色写真帳の制作などを手がけた。
下岡の写真館はその後、横浜弁天通りへ移転し、次いで一時期下田へ移ったが、再び横浜弁天通りに戻り、67年(慶応3)ころには横浜馬車道の太田町に「全楽堂」の名称で、富士山の大看板を掲げた新築店舗を構えた。下岡の撮影と推定される現存の写真印画の多くは、この前後の1860年代に制作されたものと考えられている。同じ時期に下岡はまた、馬車を輸入し東京・横浜間で乗合馬車事業を興すなど、文明開化期のさまざまな新事業にも手を染めた。写真師下岡の門下からは、横山松三郎、鈴木真一(1835―1918)、江崎礼二、中島待乳(まつち)(1850―1938)ら、明治期に活躍した高名な写真師が輩出した。
1876年(明治9)ごろ、写真師としては第一線から退き、東京・浅草へ転居、自作のパノラマ油彩画『函館戦争図』『台湾戦争図』や、高橋由一(ゆいち)、五姓田義松(ごせだよしまつ)、横山松三郎らの油彩画による見世物興行を浅草奥山で開催した。晩年は絵画を描いてすごしたと伝えられている。
[大日方欣一]
『前田福太郎著『日本写真師始祖下岡蓮杖』(1966・新伊豆社)』▽『石黒敬七編『写された幕末 石黒敬七コレクション』(1990・明石書店)』▽『石黒敬章編『限定版下岡蓮杖写真集』(1999・新潮社)』▽『「寫眞渡来のころ」(カタログ。1997・東京都写真美術館)』
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