下西郷村(読み)しもさいごうむら

日本歴史地名大系 「下西郷村」の解説

下西郷村
しもさいごうむら

[現在地名]福間町四角しかく両谷りようたに大和町やまとまち古町ふるまち昭和町しようわまち本町ほんまち緑町みどりまち南町みなみまち原町はらまち中央ちゆうおう一―六丁目・手光南てびかみなみ一丁目・西福間にしふくま一―四丁目・花見はなみおか一―三丁目・花見はなみはま一―三丁目・花見の里はなみのさと一―三丁目・有弥ゆみさと

西郷川の河口部に位置し、玄界灘に西面する。東は上西郷村、南は糟屋かすや久保くぼ(現古賀市)、北は宮司みやじ(現津屋崎町)。同川を挟んで比較的平坦な地勢で、河口の右岸一帯に枝村の福間村がある(続風土記)


下西郷村
しもさいごうむら

[現在地名]岐阜市下西郷

西改田にしかいでん村の北に位置し、東は東改田村、西は寛延三年(一七五〇)に分郷した支郷の小西郷こさいごう村。東西に細長い楕円形で、集落はやや西部にある。古くは上西郷村・中西郷村・小西郷村を含め一帯は西郷と称された。天正一一年(一五八三)七月日の稲葉一鉄初尾奉納目録写(稲葉家譜)に「一貫文 西郷」とみえ、稲葉氏の所領であったことが知られる。なお続群書類従本「土岐系図」の一本によれば、土岐頼忠の子頼音が当地に住し、西郷を称したという。慶長九年(一六〇四)の黒野村外三十二ヶ村連署書上(山田文書)に西郷村とみえ、岩佐田宮・西垣三氏の名を記す。


下西郷村
しもにしごうむら

[現在地名]いわき市常磐じようばん西郷町にしごうまち

藤原ふじわら川南岸にあり、東対岸は下船尾しもふなお村、南はいわおか村、西は上西郷村。もと西郷村のうちで、建武四年(一三三七)正月一六日の伊賀盛光代麻続盛清軍忠状(飯野八幡宮文書)によれば、麻続兵衛太郎盛清は石川松河四郎太郎のもとで戦い、滝尻たきじり城から湯本ゆもと館に向かう途中「於西郷長間子」で出会った湯本少輔房を生捕っている。菊多きくた郡に属した。近世の領主の変遷は磐城平藩領から寛永一一年(一六三四)泉藩領、元禄一五年(一七〇二)幕府領、宝永三年(一七〇六)二五石余が湯長谷藩領となり、残余は享保一三年(一七二八)以降棚倉藩領。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

今日のキーワード

プラチナキャリア

年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...

プラチナキャリアの用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android