日本大百科全書(ニッポニカ) 「世界女性会議」の意味・わかりやすい解説
世界女性会議
せかいじょせいかいぎ
国際連合による女性会議。
1960年代にウーマン・リブWemen's Liberation Movementが欧米でさかんとなるなど、女性の地位向上を求める社会状況を背景に、国連は女性差別の撤廃を実現する法的拘束力をもつ条約をつくるべく、1972年の国連総会で1975年を「国連国際女性(婦人)年」と決議した。その目的は、男性は仕事、女性は家庭という性別役割分担観を変え、各国における「平和・平等・発展」に女性の全面的参加を求めることであった。その具体策の一環として、国連は世界女性会議を設定した。第1回の世界女性会議は1975年メキシコ・シティで開催され、133か国が参加し、男女平等実現の国際的共同行動として世界行動計画が定められた。またこのとき政府間会議とは別に、世界の草の根の女性運動家たちが顔をあわせ討論する場「NGO(非政府組織)フォーラム」が同時に開催された。国連は翌1976年から1985年を「国連女性の10年」とし、世界共通の目標にむけて国連、加盟国政府、民間団体が協力し、各国内の諸制度や慣習の改善、法律整備への取り組みが始まった。
1979年12月、第34回国連総会は「女性差別撤廃条約」を採択し、その署名批准は、デンマークのコペンハーゲンで1980年に開かれた第2回世界女性会議で行われた。また、同会議では「国連婦人の10年」後半期の行動プログラムが策定された。
1985年、ケニアのナイロビで行われた第3回世界女性会議では、女性の地位向上をめざした「2000年にむけての将来戦略」を採択し、各国での履行の報告を義務付けた。
その後、1993年に女性への性暴力禁止を議論した国連ウィーン人権会議、1994年に「性と生殖に関する健康と権利」を確認合意する国連カイロ人口会議などが開催されたが、この間にNGOの女性団体などが変革の推進力として台頭していき、世界女性会議のNGOフォーラムにも影響を与えることとなった。
1995年、北京での第4回会議では、190の参加国と2000を超えるNGOが参加した。貧困、教育、健康、女性への暴力、紛争、経済構造政策、権力、女性の進出、人権、メディア、環境、少女の12分野に関する行動綱領が策定され、この綱領を実現するため女性のエンパワメント(自律的に行動する力をつけること)の必要性が強く主張され、社会主義国にも影響を及ぼした。また、ジェンダー(社会的・文化的に形成された性差)という語が初めて公式に使われ、あらゆる政策にジェンダーの視点を取り入れることが提唱された。第4回以降は、2012年時点まで世界女性会議は行われていない。
[石崎昇子]
日本の動き
日本政府は国連の動きを受けて、1975年(昭和50)総理府(現、内閣府)に「婦人問題企画推進本部」を設置し、活動計画の策定と実施に務めた。同時に民間においても、1975年11月には全国組織をもつ41の女性団体が「国際婦人年の決議を実現するための連絡会(国際婦人年連絡会)」を結成し、参加団体の数を増加させながら、取り組みをすすめた。1980年の第2回世界女性会議において、当時のデンマーク大使高橋展子(のぶこ)(1916―1990)が日本代表として条約に署名し、批准にむけて国内の条件整備が始まった。1984年5月には父系主義から父母両系主義への国籍法改正、1985年5月には国内最大の男女平等への法整備として「男女雇用機会均等法」を成立させ、家庭科教育課程の再編成を経て、同1985年7月の第3回世界女性会議において女性差別撤廃条約を批准した。その後、家庭、教育、労働などさまざまな場において、女性差別の現状分析や社会参加を妨げる障害要因を明らかにし、固定的性別役割分担意識をなくすための理論化と活動がすすめられた。1995年(平成7)、国連による第4回会議と同時期に行われた民間会議「NGOフォーラム」には、日本から約5000人の女性が参加し、女性運動の転換点となった。
[石崎昇子]