女性史(読み)じょせいし

日本大百科全書(ニッポニカ) 「女性史」の意味・わかりやすい解説

女性史
じょせいし

総論

 従来の歴史研究、歴史叙述では女性はほとんど顧みられなかった。国民、民衆、庶民などのことばにも、実は女性は含まれていなかった。これに対し、「女性史」は各時代、各階層の女性の生活、労働、担った役割と地位、意識や思想、社会的運動などの歴史的変遷を明らかにし、男女がともに存在する歴史像の構築を目ざす学である。

 女性史研究の第一人者である高群逸枝(たかむれいつえ)は、1938年(昭和13)に『母系制の研究』を著し、日本に母系制が存在したことを論証しようとした。第二次世界大戦後には、1948年に井上清(きよし)(1913―2001)がマルクス主義歴史学の理論と戦前からの研究成果を踏まえて、初めて女性史の通史『日本女性史』を書いた。このなかで、社会発展の各段階における庶民女性の地位や労働を明らかにし、女性の抑圧の原因を階級支配に求め、社会変革による女性解放の実現を展望した。

 1970年代になると、このような女性史の方法について批判的見解が現れた。その第一として、村上信彦(のぶひこ)(1909―1983)は井上の女性史の一面性をつき、解放とは無縁のところで「耐えて」生きる女性の生活史を提唱した。同じころ、聞き書きや証言をもとにする「地域女性史」や「底辺女性史」が各地でつくられ、女性史の新しい流れとなった。第二は、前近代女性史研究の進展により、古代・中世・近世の婚姻・家族、女性の労働や売買春について実証研究の成果が生まれ、高群・井上の研究が乗り越えられた。第三は水田珠枝(みずたたまえ)(1929― )の『女性解放思想の歩み』(1973)の提言である。水田は、女性への抑圧には階級差別と性差別の二重の差別があること、これを制度化するものが家父長制であることを指摘し、性差別の克服が女性史の課題であるとした。

 1980年代からの女性史は、女性学との交流を深めながら性差別の構造、性別役割(性役割)の変遷をその課題の一つとして取り組むことになった。そして性差別、性別役割が近代において逆に強化されることから、近代と近代国民国家を女性の視点から問い直すことが行われるようになった。1990年代に入ると、ジェンダー(社会的、文化的につくられた性差)という概念が女性史研究にも取り入れられ、新たな女性史像が描かれようとしている。

 女性史は、つねにその時代の女性が直面する課題を歴史的に考察し、新しい時代への展望を切り開く役割を担ってきた。さらに、国際的な女性運動、とくに1975年以降の数次にわたる世界女性会議は、女性史の進展、深化に多大のインパクトを与えた。それは、女性史の課題が一国完結的なものではなく、広く地球規模で取り組まれなければならないという新たな視点を提起し、1990年代以降は、欧米やアジア諸国との女性史研究の交流も行われている。

[永原和子]

日本

古代
旧石器時代

日本列島には、3万年以上前の旧石器時代には人類が定住していたとされている。約1万年前ごろ後氷期に入り温暖な気候になると、小動物や植物が豊富になり縄文土器の使用が始まった。約6000年前には竪穴(たてあな)住居に定住が開始された。男性は狩猟・漁労などの動物性食料確保や、石器制作、交易、木工などを、女性は貝類と植物採集・原始植物栽培などの植物性食料確保や、土器制作、衣類制作などを分担していた。出産による母子や乳幼児の死亡率が高く、女性が担う出産や授乳は共同体の繁栄にとって重要であり、妊婦をかたどったり胎児の骨を納めたりした土偶は、安産や多産を祈る呪術(じゅじゅつ)的な意味をもっていた。しかし、男根をかたどった石棒も多くみられ、土偶と石棒は、ともに種族繁栄や豊穣(ほうじょう)を祈るものであったと考えられている。集落内の住居や墓地に男女格差はほとんどなく、男女対等な無階級の社会であった。

[服藤早苗]

本格的稲作の開始と首長の出現

紀元前3世紀ごろから、本格的な水稲耕作と鉄器使用が始まり、九州から東北地方まで短期間に伝播(でんぱ)していった。男性は起耕から導水までを、女性は種播(ま)き・草取り・稲刈り・脱穀などをそれぞれ分担した。生産が発展し余剰生産物が生まれると地域的不均衡が生じ、富や土地などをめぐって戦争が始まり、銅剣や銅矛(どうぼこ)などの武器がつくられた。また、数棟の竪穴住居や倉庫からなる集落には堀や土塁がめぐらされ、瀬戸内海地方では戦(いくさ)のための高地性集落も多くみられ、戦死者の人骨も多い。集団間の戦争により貧富の差が集団の差として出現し、集団を統括する首長が出現したことは、舶来武器や勾玉(まがたま)などの装飾品を副葬する集団墓地などから判明する。弥生(やよい)後期になると、多量の装飾品を副葬する巨大な甕棺(かめかん)に葬られた個人墓=王墓がみられるが、中国の歴史書『魏志倭人伝(ぎしわじんでん)』に、3世紀前半に約30の国からなる倭国(わこく)連合を邪馬台国(やまたいこく)女王卑弥呼(ひみこ)が統括したと記されており、女性首長がかなりいたとされている。従来、卑弥呼は呪術祭祀(さいし)担当、男弟は行政担当と解されてきたが、卑弥呼が外交権を掌握しており、男女が対(つい)で王権を相互に担うヒメ・ヒコ制であったとされている。

[服藤早苗]

古墳や史料にみられる古代の社会

3世紀末から6世紀末まで、前方後円墳が九州から東北南部にかけてつくられていたことから、この時代は古墳時代とよばれる。古墳には、埋葬される首長に格差があり、また共同体成員は、墳丘のない穴に葬られており、身分秩序が形成されていた。各地の古墳被葬者には男女がおり、女性首長古墳にも鏡・宝器類・装身具だけではなく、農具・工具・武器も副葬されており、男性首長と異ならない。しかし、5世紀に地域首長を統括した大和(やまと)王権の大王は、中国史料では全員が男性である。外交権を握る大王が男性に移行しており、女性は副王的存在であったと推測される。大王周辺から男性優位社会が開始されたのである。一方、「記紀」や「風土記(ふどき)」などには男女首長や男性のシャーマンも記載されていることから、各地域では男女が呪術と行政を相互に担うヒメ・ヒコ制の存続がうかがえる。交易による鉄器などの道具や灌漑(かんがい)技術を独占的に領有した首長層は、堀に囲まれた館(やかた)で地域共同体を統括していたが、成員たちは竪穴住居に暮らしていた。春秋の祭りでは老若男女が一堂に会して飲食しており、男女の労働分担は存在しても、成員間では男性優位社会は未成立であった。

 7世紀後期には、中国の律令(りつれい)制度を導入し、701年(大宝1)には大宝律令(りつりょう)が制定された。大宝律令はほとんどの部分が唐律令を継受しており、婚姻規定などは、日本の実態と乖離(かいり)している部分が多く、実際には強制されなかった。しかし、唐律令と比較すると、女性にも口分田(くぶんでん)が班給され、相続権や財産権も規定されていた。正倉院に遺(のこ)る戸籍・計帳記載の、男性戸主を中心に傍系親世帯を含んだ30人前後の郷戸(ごうこ)を実態的社会経済的単位の家父長制家族共同体であるとする従来の説は、他の史料検討から(1)父系制未成立、(2)男女対等な性愛関係、共同体所有下の、対偶婚とよばれる一対の夫婦の離合の緩やかな婚姻形態、(3)男女対等に近い財産所有や農業経営、などが解明され、家父長制家族説は否定されている。血縁や地縁関係に基づいて集まった小世帯が集落を形成し、共同体首長層に依存して経営を行う共同体社会であったと考えられている。

[服藤早苗]

女帝の時代

6世紀末の推古(すいこ)天皇から8世紀後期の称徳(しょうとく)天皇までの200年間は、女帝の世紀ともよばれ、天皇は男女同代数で、ほぼ同年限であった。女帝は中継ぎで不執政であったとされていたが、律令制を完成させた持統(じとう)天皇や強い権力を行使した孝謙(こうけん)天皇の事例などから、権限は男女同等に行使可能であったことが定説になっている。また、8世紀の光明(こうみょう)皇后は内裏(だいり)外に皇后宮を営むなど独自の権限を保持し、後(しりえ)の政(まつりごと)を行っていた。しかし、称徳天皇以後、女帝は回避され、以後近世に2人の女帝がたてられたのみである。王権内でまず男性優位の家父長制が始まったのである。このころ貴族層で父系制が実態的に確立したとされている。

[服藤早苗]

上層貴族の女性たち

律令後宮職員令(ごくうしきいんりょう)に規定された宮人(くにん)(女官(にょかん))は、天皇に常侍し奉請などの秘書官役を分担したり、国政にかかわる文書を発給したりするなど重要な役割も担い、位階や役職に応じた俸禄(ほうろく)を受け、家政機関を設置されていた。上層貴族の妻たちが女官として出仕し、位階を上昇させ、朝廷の公的行事にも、男女ともに列席していた。ところが、9世紀になると、尚侍(ないしのかみ)藤原薬子(くすこ)の変(810)に際して蔵人所(くろうどどころ)が設置され、後宮宮人は天皇の日常的私的奉仕役割へと変容していき、しだいに公的行事にも役務女官以外は不参加となった。皇后宮も内裏の後宮殿舎に吸収され独自性を喪失した。しかし、10世紀以降は、天皇の母である国母が天皇を補佐する権限をもち、一条(いちじょう)天皇の生母藤原詮子(せんし)が「東三条院」の院号を得て(991)発言権を増していった。天皇の寵愛(ちょうあい)を得、国母になるために后(きさき)周辺には才能ある女性が女房として集められた。清少納言(せいしょうなごん)の『枕草子(まくらのそうし)』、紫式部(むらさきしきぶ)の『源氏物語』、和泉(いずみ)式部の和歌、赤染衛門(あかぞめえもん)の『栄花(えいが)物語』など、どれも女房たちによって著された新しいジャンル創設という画期的な作品であり、王朝文化を築き上げた。

 貴族層では、9世紀後期から11世紀中ごろまでの結婚は、妻の父が婚姻決定権をもち、婿取り儀式をして婿を取る「婿取り婚」であった。夫婦は当初妻方同居し、一定期間後別居した。上層貴族層は一夫多妻妾(さいしょう)制で、妻は夫以外の男性との性愛関係が基本的には禁止され、違反すると離婚された。同居の妻が北方(きたのかた)で「家」を管理運営する役割を担った。女性相続権があったが、莫大(ばくだい)な夫の収入には及ばず、貴族層には家父長制的家が成立していた。

[服藤早苗]

上層貴族層の台頭と売春の始まり

班田農民の没落と有力豪族層の台頭のもと、律令的班田制や租税制度が変容し、土地に基づく租税制が10世紀に成立すると、男性田堵(たと)(平安時代の公領や荘園(しょうえん)の請作(うけさく)者)は土地を請負い、没落農民を隷属させ、農業経営を行った。農村にも未熟ながらも家父長制的「家」が経営単位として成立し、家妻は家財や隷属民、女性労働を管理した。女性の財産権、経営権もあり、既墾田畠(たはた)は男女均分相続で、夫婦別財であったが、郡司(ぐんじ)などの職掌に基づく所領は男子相続であり、土地売買の買主女性は1割程度しかなく、経済活動は男性が主になっていった。一方、平安京では女商人も多く経済活動を行っていた。また、都鄙(とひ)間交通が活発になると、交通の要衝では遊女(当時は「あそびめ」とよばれた)が歌舞芸能とともに売春を行い、平安京では強姦(ごうかん)が処罰されるなど、10世紀以降になると性愛の男女不平等も確実に始まっていった。

[服藤早苗]

中世
政治を支えた妻たち

天皇家の家長である「院」が治天の君となる院政期には、家父長制が社会規範として確立し、中世末までにしだいに下層まで浸透度を強めていったが、さまざまな局面で女性の役割は大きかった。院政期には天皇を養育した乳母(めのと)が政治的発言権を強めていた。鎌倉時代には、将軍源頼朝(よりとも)没後、後家北条政子(まさこ)は息子の頼家(よりいえ)・実朝(さねとも)を補佐し、実朝暗殺後は「尼(あま)将軍」として権限を発揮し、承久(じょうきゅう)の乱(1221)にも鎌倉御家人(ごけにん)たちを結集し朝廷に勝利した。後家による政治掌握である。

 中世後期の室町期になると、将軍足利義政(あしかがよしまさ)の妻日野富子(とみこ)は、朝廷からの武家伝奏(てんそう)を義政に取り次ぐ役割をもち、小事は自分で決済し決断力薄弱の夫にかわって実質的な采配(さいはい)を振るった。富子は「御台所(みだいどころ)御料所」という独自の所領や、大名などからの進上物もあり、将軍家の経済も差配し、物心両面で夫の補佐役として権限を掌握していた。

 この伝統は戦国期まで続き、豊臣秀吉(ひでよし)の妻おね(北政所(きたのまんどころ)。1548―1624)ら戦国大名の妻は、夫が戦場に出ている間、家臣に命令を出すなど留守を預かっていた。天皇家や公家(くげ)でも妻役割は重要で、夫から託された金子(きんす)を管理運営していた。天台座主(ざす)慈円(じえん)は『愚管抄(ぐかんしょう)』で「女人入眼ノ日本国」と記し、女性が政治的権限を行使することをむしろ日本的特色と評価しているが、中世末までその伝統は確実に継続していたのである。

[服藤早苗]

中世時代の婚姻

院政期以降、貴族層でも婚姻儀式は妻方で主催し妻方で用意した邸宅で行うが、独立居住になり妻方両親宅で同居することはなくなり、鎌倉時代になると当初から夫方で主催し、夫方提供の邸宅で居住する嫁入り婚が始まった。在地領主層では、少し早く嫁入り婚が浸透した。しかし、夫の両親と同一屋敷で同居するのは、南北朝以降である。貴族も武士層も院政期以降一夫一妻妾(さいしょう)制となり、妻は家内の統括権をもった。

 武士層の妻は、実家と婚家先の結合の要(かなめ)となり婚姻関係を基盤にした武士団が形成された。また、13世紀中ごろまでは僅少(きんしょう)ながらも女性の相続権があり、軍役も奉仕する所領所有と実家の勢力を背景に妻の立場は強いものであった。以後、女性は主として一期相続となっていき、しだいに相続権がなくなるが、自己労働などによる財産所有権は中世後期まであり、妻の発言権を支えていた。

 庶民層でも鎌倉期には嫁入り婚が定着するが、儀式は中世後期まで婿入り儀式であった。農民層では、鎌倉期以降、夫を家主とする家で、妻は家財の管理運営を行い、神社造営や仏事などに自己財産で寄進も行った。村落共同体の祭礼では、女房座をもっており、神事の一部に直接タッチしていた。

[服藤早苗]

村落の女性と都市の女性

南北朝以降、中世村落は自治的性格の強い惣村(そうそん)へと進展し、土一揆(つちいっき)や逃散(ちょうさん)などの戦いを行ったが、女性は、男性とは行動をともにしないものの、家に残り家を守るなどの役割を果たしたり、非公式な寄合(よりあい)には参加したり、あるときには領主側に殺害される場合さえあった。

 一方、女性を罪業深重(ざいごうじんじゅう)とみる罪業観と、けがれた存在とする女性不浄観の浸透を背景に、仏教では院政期ごろから女人禁制の結界(けっかい)設定が多くなり、女性の宗教者を忌避する傾向が増加した。

 都市では女商人が活躍した。鎌倉時代につくられた『病草紙(やまいのそうし)』には、女性の肥満借上(高利貸)が描かれており、金融業に従事する女性は多かった。室町期の『七十一番職人歌合(うたあわせ)』には100余の商工業者中、3割が女性であり、酒・餅(もち)・米・麹(こうじ)・豆腐・魚など食料品や絹や布などの繊維製品などの商工業者が女性であるとされている。また、塩座・紺灰座(こんばいざ)・扇本座(おうぎほんざ)などの「座」にも女性がおり、帯座(おびざ)の責任者、座頭(ざとう)職を所持している女性もいた。しかし、商いが広域化し市場が広がると、座は政治権力と結合し、領主との関係が強化されると公式文書には男性が登場し、女性の商工業者は、夫を主(あるじ)とする「家」に包摂されていく。さらに、酒やしょうゆなどの醸造業や土器の製造販売は古代から中世末まで女性であったが、近世になると女性不浄観が庶民層にまで浸透し、排除されることになる。

[服藤早苗]

京都の遊女

12世紀後半から遊女は京・鎌倉などの都市に居住し、歌舞の芸能を披露しつつも、より売春的側面を強めていく。室町時代には路地に軒を連ねる辻子君(ずしぎみ)が現れ、客をとるようになる。さらに、中世後期の京都には男性亭主に管理された傾城(けいせい)屋が現れ、16世紀末には二条柳町1か所に集められ、遊廓(ゆうかく)の原形が形成された。女芸能の白拍子(しらびょうし)や女曲舞(くせまい)なども同様な傾向をたどった。

[服藤早苗]

近世

かつて近世は、女性にとってその地位がもっとも低下した暗黒の時代と考えられていた。井上清(きよし)、高群逸枝(たかむれいつえ)らの研究では、家父長制的家族制度や儒教主義の『女大学』をあげて、女性抑圧の事実が強調された。しかしその後の近世女性史研究の進展により、このような一面的な理解は克服され、近世社会の基本的枠組みは認めながらも女性が生産労働や家政などに多くの役割を果たし、そのなかで成長し多様な活動をしていたことが明らかにされつつある。

[永原和子]

家と女性の地位

幕藩制社会は兵農分離を実現したうえで、武士は石高(こくだか)制による知行(ちぎょう)とそれに対する軍役負担を、農民は村請(むらうけ)制の年貢(ねんぐ)、夫役(ぶやく)を負担することとなった。いずれも「家」を単位として行われ、家の維持・継続がもっとも重要とされ、家を代表する家長の責任と権限は大きかった。

 武士の家は、嫡男子の単独相続をたてまえとし、二男以下の男子と女性は相続から除かれ、女性は家の維持・存続に協力することが役目とされた。しかし、幕藩制の初期には嫡男子のない場合には女性の跡目相続が認められ、また大奥の女中や公家(くげ)の女官(にょかん)が役職により知行を受け養子をとって家筋をたてることもあった。また、将軍・大名家の女性が結婚に際し化粧料を受けたり、後家が後家分として一代限りの財産をもったりすることもあった。女性は政治からまったく排除されたが、将軍の生母や乳母(うば)が政治に発言することもあった。

 農民の家の場合には、地方により末子相続や姉家督の慣行もあったが一般には長男子相続が行われ、女性は村共同体の正式メンバーになることはできなかった。

[永原和子]

婚姻

武士の婚姻は、将軍・藩主の許可を必要とし、上級武家では血筋の継承を理由に妻のほかに複数の妾(めかけ)の存在が認められた。妾は身分上家族ではなく奉公人とされた(大竹秀男(ひでお)著『「家」と女性の歴史』1977)が、妻と同様の貞操を求められた。江戸中期には、商人・地主などにも妾をもつ者が現れ、しだいに下層にまでその風習は拡(ひろ)がった。江戸時代には武士階級でも離婚・再婚がかなり多かった(『日本女性史 第3巻 近世』所収の脇田修(わきたおさむ)「幕藩体制と女性」1982)。庶民の場合は離婚に際して離縁状、いわゆる三行り半(みくだりはん)を夫側が出すことが慣例であった。これは、かならずしも夫が専権的に離婚の権利をもつことを意味するのではなく、妻の再婚の自由を保障するもので、実質的には協議離婚が多かったとする説もある(高木侃(ただし)著『縁切寺満徳寺の研究』1990)。また、離婚を求める女性のためには鎌倉の東慶寺(とうけいじ)など縁切寺(えんきりでら)、駆込寺(かけこみでら)が存在した。

[永原和子]

公娼制

江戸幕府が開かれると同時に、公娼(こうしょう)制が確立された。吉原(よしわら)に公認の遊廓(ゆうかく)が設けられ、これに準じて京・大坂・長崎にも遊廓が置かれた。幕府はそこから冥加金(みょうがきん)を上納させ、これ以外は私娼として取り締まった。また、五街道の宿駅の旅籠(はたご)には飯盛女(めしもりおんな)が置かれた。商品経済の発展した享保(きょうほう)期以降、遊女や私娼は増加の一途をたどった。

[永原和子]

女性の労働

近世初期には、一部の上層農民を除いて一般には直系親族を中心とした小農経営が成立していた。そこでは「男は作をかせぎ、女房は苧機(おはた)をかせぎ夕なべをする」ことが生活のあるべき姿であった。女が男と同様に農作業に従事することはなかった。近世中期以降になると、広汎(こうはん)な農作業や農間(のうかん)稼ぎとしての糸取り、機(はた)織りに女性が働くことになった。また、この時期には零細農家の女性は奉公人や日雇いとして家の外に出て働くようになった。幕末になると各地に起こった綿織物・絹織物の家内工業に雇われる者も現れた。しかし女性の賃金は男性の約3分の1にすぎなかった。

[永原和子]

教育・文化

近世には多くの女訓書がつくられ、女性の家への従属を教えた。しかし内容はさまざまで、その代表的なものとされる貝原益軒(かいばらえきけん)の『女子ニ教ユル法』では、女と男を同じように教育することを説いており、江戸などには女子のための寺子屋が数多くつくられた。18世紀なかばになると学問文芸の世界に活躍する女性が現れた。国学者で蘭学(らんがく)も学んだ只野真葛(ただのまくず)(1763―1825)は儒教的女性観を批判した。男性の教養であった漢詩の作家にも原采蘋(さいひん)(1798―1859)などが現れ、また、俳諧(はいかい)・和歌に優れた作品を残した女性も少なくない。各地を旅行してその見聞を記録した女性の旅日記も多く発見されている。幕末になると野村望東尼(もとに)や松尾多勢子(たせこ)など尊王攘夷(そんのうじょうい)運動に加わる女性も現れた。男性のなかにも男女の対等を説く安藤昌益(しょうえき)や増穂残口(ますほざんこう)などがあり、また女性の不浄観を否定する富士講(ふじこう)のような宗教もみられ、女性にとっての近代への展望が開けていった。

[永原和子]

近代
文明開化の女性政策

明治国家の女性政策の基本は女性を近代国家の国民として組織することであった。まず四民平等のたてまえで、士農工商間の結婚・職業の自由を認めた。1872年(明治5)には学制を発布、男女等しく教育を受けることとした。それに先だち津田梅子ら5人の少女を留学生としてアメリカに派遣、また官立女学校を開設し女子教育の振興を図った。これは次代の国民の育成にとって母性の力が大きいことに着目したためで、それまでにはない女性観であった。その反面、1871年制定の戸籍制度では戸主の下にすべての国民を把握し、戸主が納税・兵役・教育の義務を負う一方、家族に対しては大きな権限をもった。家族の結婚・職業選択には戸主の許可を必要とした。戸籍の記載は尊属・男子を優先し、妾(めかけ)を妻に次いで家族として記載するなど家理念の強いものであった(妾についてはのちに改正)。また1872年には娼妓(しょうぎ)解放令が発布されたが、これは人身売買による娼妓の解放を目的としたもので公娼制度そのものの廃止を意味しなかった。公娼は自由契約の名目で存続し、逆にその数は増加を続けた。このような政策に対して福沢諭吉(ゆきち)・森有礼(ありのり)など啓蒙(けいもう)思想家たちは『明六(めいろく)雑誌』などを拠点に、男女同等、一夫一婦制、廃妾・廃娼の主張を展開した。

[永原和子]

女性と政治

啓蒙思想家たちの主張は1880年代の自由民権運動に引き継がれ、楠瀬喜多(くすのせきた)(1836―1920)・岸田俊子(のち中島、湘煙(しょうえん))・景山英子(のち福田)らが天賦(てんぷ)人権・男女同権を主張、高知・岡山・神奈川などに女性の民権結社も生まれた。しかし、1889年(明治22)天皇主権の帝国憲法制定、翌年の帝国議会の発足と同時に集会および政社法が公布され、女性の政治活動は禁止された。これは1900年治安警察法に引き継がれ、女性は長く政治から排除された。

[永原和子]

民法と教育

1898年(明治31)には民法親族編・相続編が公布されたが、「家」重視のこの法によって女性の従属的地位、権利の制限が規定された。翌1899年公布の高等女学校令は民法の趣旨に沿って「女は結婚により家に入る」ことを前提とした良妻賢母教育をその目標とした。こののち女学校教育の発展によって良妻賢母思想は中産階級女性に広く浸透した。

[永原和子]

近代産業と女性労働

近代産業の発展にとっての女性の貢献も大きい。日本の近代産業は製糸業・紡績業を中心に1880年代なかばから1907年ごろにかけて急速に発展を遂げた。その労働力の80~95%は女性であった。女性労働者の多くは小作農民の娘で前借金と募集人制度、長時間労働と深夜業、低賃金、拘束的寄宿舎制度など劣悪な条件のもとで働き、日本の輸出と軍事費の調達を支えた。第一次世界大戦期、日本資本主義はさらに成長、女性の働く場は拡大した。教員・看護婦などすでにあった職業のほか会社事務員・店員・新聞雑誌記者・女給などの都市の新しい産業に女性が進出し、「職業婦人」ということばが生まれた。

[永原和子]

女性解放の思想と運動

1911年(明治44)平塚らいてうらにより『青鞜(せいとう)』が発刊され、女性の自我の解放、習俗の打破を叫ぶ。これを契機に女性問題がクローズアップされ、女性の経済的自立か、家を守って母性に生きるべきか、現代に通じる課題が提起された(母性保護論争)。1920年(大正9)には平塚・市川房枝(ふさえ)・奥むめおらが「新婦人協会」を結成、女性問題の解決にはまず女性参政権の獲得をと、その運動を開始した。1920年から1930年にかけては矢島楫子(かじこ)らの日本キリスト教婦人矯風会(きょうふうかい)の廃娼運動・女教員運動・女性労働者運動など多様な運動が展開された。

[永原和子]

第二次世界大戦時の女性

1931年(昭和6)満州事変を境に戦時体制が強まり、母性の名による主婦の統合を図る大日本連合婦人会や、軍事援護活動を通じて国防意識の強化を目ざす大日本国防婦人会が結成され、女性運動は方向転換を余儀なくされた。日中戦争開始以後は、国民精神総動員の掛け声と国家総動員令によって主婦は家庭を守り「生めよ増やせよ」に協力し、学生や女子青年は軍需産業に動員され総力戦の一端を担った。指導層の女性のなかには、積極的に戦争協力することで女性の存在を認めさせようとした者もあった。女性の動員は朝鮮・台湾にも及び、挺身(ていしん)隊の名目で、または強制的に連行され、慰安婦とされた女性は最低でも5万人に及ぶといわれる(吉見義明(よしみよしあき)著『従軍慰安婦』1995)。

[永原和子]

現代
戦後民主化と男女平等

1945年(昭和20)8月の第二次世界大戦敗戦後、日本の再建、民主化が急がれた。占領軍は、日本の軍国主義の根絶のために参政権の付与による女性の解放を五大改革の一つに掲げ、12月これが実現した。それに先だち市川房枝らは敗戦直後から参政権の要求を政府に提出していた。

 1947年には、基本的人権と男女平等を掲げた日本国憲法(1946制定)の精神に基づき教育基本法・労働基準法が制定され、六・三・三・四制と男女共学の教育、男女同一労働同一賃金と産前産後休暇など母性保護の諸制度が決まり、第二次世界大戦前の女性運動の課題は原則的には達成された。また、同年の民法改正では戦前の戸主制度の廃止・均分相続・結婚、離婚の平等などが、さらに刑法改正では女性にのみ適用されていた姦通罪(かんつうざい)が廃止され、法制度の面での男女平等が実現した。

 しかし、現実には男女の賃金の格差や母性保護の不徹底をはじめ、民主化政策はさまざまの限界を残し、その後の女性運動の課題となった。さらに、日本政府は敗戦直後に占領軍兵士のための性的慰安施設設置を指令、業者は特殊慰安施設協会(RAA)を設け、職や家を失った女性を募り、これにあてた。1946年、占領軍は公娼制度廃止を命じ、RAAも廃止されたが、戦後の混乱と貧困のなかで女性の性の商品化はいっそう進んだ。

[永原和子]

女性と平和

このような状況のなかで、第二次世界大戦後の女性運動は、戦前からの歴史をもつ女教師、看護婦、繊維産業労働者を中心とする労働組合と、新たに生まれた婦人民主クラブ、主婦連合会など市民女性団体によって担われ、生活と平和を守ることを掲げて活発な活動が続けられた。1949年社会主義中国の誕生、1950年朝鮮戦争の勃発(ぼっぱつ)で日本の再軍備が進められたのに対し、女性団体は非武装中立の姿勢を強く示した。1954年のアメリカの水爆実験に対しいち早く立ち上がったのは各地の主婦たちであった。1955年、暮らしと子供と平和を守ろうとの女性の決意を込めた「日本母親大会」が開かれた。

[永原和子]

高度成長と女性

1950年代からの高度経済成長は、女性の労働・生活・家族のあり方に大きな変化をもたらした。企業の技術革新、サービス産業の拡大により多数の若い女性が就業するとともに、パートタイマーという新しい形で中高年の女性が働くこととなった。1965年には雇用労働者のうち女性が30%を超え、1970年代なかばには働く女性のうち50%以上が有配偶者となった。

 高度成長期には、人口の都市集中と核家族の増加がみられ、企業戦士の夫と、家事、育児に専念する主婦による性別役割分担が一般化し、「専業主婦」ということばが生まれた。

[永原和子]

性別役割の克服

これらの主婦は、1960年代以後、PTA活動・消費者運動・平和運動などの働き手として大きな役割を果たした。しかしその反面、性別役割の強化は女性の生き方、家族のあり方への疑問を生んだ。1970年代のウーマン・リブの運動は、こうした問題に鋭いメスを入れ、性別役割の根底にある性差別を告発した。そこで提起された問題は、1975年の「国際婦人年」とこれに続く「国連婦人の10年」の運動、すなわち行政・女性団体あげての「あらゆる差別の撤廃」の運動のなかで改革が図られた。男女差別賃金や定年制の是正、民法における配偶者の相続分改正、国籍の父母両系制採用など第二次世界大戦後の法制度の見直しと、新たに育児休業法や男女雇用機会均等法など労働の分野の法制度の整備、また家庭生活の面でも真の男女平等の実現に向けての努力が続けられている。

[永原和子]

中国

前近代

秦(しん)代の書『呂氏春秋(りょししゅんじゅう)』(前3世紀)に「太古の昔、民は母を知っていても父を知らなかった」という記載がある。これは原始母権社会を示すものと考えられてきたが、新中国成立後に行われた数多い新石器時代の遺跡の発掘と研究は、この説を裏づけるものとされた。すなわち仰韶(ぎょうしょう)文化(ヤンシャオ文化)の遺跡では、母親を中心に葬ったと思われる合葬墓はあっても夫婦合葬墓はなく、一般の個体葬の場合にも女性の墓が比較的厚葬であって副葬品の多いこと、集落の形態が母権制をとる中国の少数民族のそれと類似していること、などがその理由である。しかし、これについては、日本の学者はかならずしも肯定的ではない。続く竜山(りゅうざん)文化(ロンシャン文化)の時期とそれに相当する地方文化では、女性の墓の副葬品が、男性に比して少なくなり、その種類についても、男性は狩猟や漁労、女性は紡織や農業といった、性別の分業を示す差異が顕著になる。生産力の発展とともに、父権がしだいに強化されていったと思われる。殷周(いんしゅう)(前17世紀~前3世紀)以降は、明らかに父系制の社会であるが、一方には、殷の婦好のように国家の政治や軍事に関与して相当の権力をもった女性が存在する。庶民の間では、男女の関係は比較的対等であり、恋愛も、同族でなければ自由であった。『詩経(しきょう)』(前600ごろ成立)に収録された数多い恋愛詩は、春の季節祭の際に、合唱やダンスに興じながら、恋愛の対象を求めてうたわれたものと考えられている。女性を歌い手とした挑発的な詩も多い。

 しかし、儒教が国教となり(前2世紀)、体制イデオロギーとして確立すると、事情は一変する。男性は社会、女性は家庭とする「男女内外の別」の思想が、女性を社会から分断し、家庭という小世界に閉鎖した。また妻の夫に対する服従の道徳が説かれ、女性は家族制度のヒエラルキー(階級秩序)の最底辺に位置づけられた。漢の劉向(りゅうきょう)の『列女伝』(前1世紀)、班昭(はんしょう)の『女誡(じょかい)』(後1世紀)は、このような封建社会における女性の、妻としての、また母としての生き方を教えるものであった。唐代にも同様な女訓書がある。この時代、女性はむろん結婚や離婚の自由をもたず、家の財産についても相続権を有しなかった。とくに宋(そう)(960~1279)の朱子学以後、「餓死することがあっても再婚してはいけない」というリゴリズムが主張されて、女性に対する抑圧はいっそう強化されている。各王朝の正史や地方志(史)をみても、「列女伝」には、貞操を守るために自殺したり、夫に殉じて死んだ妻たちの記録が、数多く収録されている。有名な纏足(てんそく)は、女児がまだ幼いときに足をきつく縛って変型し、成長させないようにするものだが、これこそ、この時代、夫の付属物となった妻たちの地位の悲しい象徴にほかならなかった。しかし、以上のような状況のなかで、女性は単に受け身にだけ生きたのではなかった。1990年代後半以降の研究によれば、女性は家庭のなかでそれなりの教養を身につけ、裁判のなかで堂々と自己を主張し、農業経営のなかでも一定の役割を果たしていたことが明らかになってきている。

[小野和子]

近代

19世紀のなかば、華南から起こった農民革命、太平天国は、中国ではむろんのこと世界史上でもかつて例のなかった女性解放政策を打ち出した。纏足は禁止され、首都防衛工作に女性が動員された。また厳重な一夫一婦制が主張され、中国で初めての登記婚が採用された。売春は当然、厳しい取締りの対象になった。このような政策は、太平天国の主力となった華南の貧しい農民社会における男女関係の一定の反映といってよい。一方、ヨーロッパの新思想の流入とともに、知識人を中心に、政治改革の運動(変法自強運動)が起こり、このなかでも、纏足の廃止や女子教育の振興が提唱された。譚嗣同(たんしどう)『仁学(じんがく)』(1896ごろ執筆)や康有為(こうゆうい)『大同書』などはかなり急進的な女性解放を主張している。

 20世紀初頭、清(しん)朝打倒の革命運動が起こると、女性のなかにも秋瑾(しゅうきん/チウチン)のような革命家が現れた。彼女は1907年、革命に殉じたが、これに刺激されて辛亥(しんがい)革命(1911)の際には、上海(シャンハイ)や広東(カントン)の女性たちが女性の軍隊をさえ組織している。革命後、女性たちは、臨時憲法における性差別廃止の明記と女性参政権獲得を目ざして激しい運動を展開するが、失敗に終わった。しかしこの革命によって2000年来の専制王朝が打倒され、それを支えてきた儒教イデオロギーを批判する条件ができたことの意義は大きかった。五・四運動(1919)と併行して起こった思想革命のなかでは、家族制度に対する鋭い批判が展開され、そのなかで女性解放が大きなテーマとなったからである。しかし、その後の女性解放運動はヨーロッパ諸国とはやや異なった過程をとった。半封建・半植民地中国では、性による抑圧以前に、民族的・階級的抑圧が強く存在し、それとの闘争なしには、男女を問わず人間そのものの解放がありえなかった。このため多くの女性たちが革命運動に加わり、地主の権力と対決していくなかで、封建的な農村社会の状況を変革し、あわせて女性自身の解放をも実現していくことになった。

[小野和子]

現代

1949年、中国革命の勝利と中華人民共和国の成立は、女性の地位を大きく変えた。1950年には新婚姻法が施行され、婚姻における男女平等と婚姻の自由が宣言された。これによって女性は初めて結婚と離婚の自由を獲得したのである。それは、封建的な男尊女卑の社会に大きな打撃を与えるものであった。一方、土地改革と農業の協同化が進行するなかで、農村の女性は、土地の分配を受け、農業労働に参加した。また、都市部においても大躍進(1958)の時期に、女性が大挙して生産労働に加わった。このように女性のほとんどが社会的労働に参加するようになったことは、男=社会、女=家庭とする性別分業の観念を変え、女性の地位を著しく高めることになった。女性は「天の半分」であり、「男性にできることは女性にもできる」として、農業・工業・科学技術などの各分野で女性が活躍した。

 しかし1980年代になると、改革開放政策のもと、市場経済の進行、経済効率の重視によって、出産・育児などの不利な条件をもつ女性の就業が困難になり、リストラ(人員削減)の対象になるという問題も発生した。政府は「女性労働者保護規定」(1988)や「婦女権益保障法」(1992)を施行し、女性の政治・文化・教育・労働における権益の保護を図ったが、平等と保護の矛盾は十分解決されるに至っていない。また婚姻法の改正(1981)によって、計画出産が夫婦に義務づけられ、原則として1組の夫婦に子供1人という「一人っ子政策」が推進された結果、女性の育児に関する労働は軽減されたものの、農村では戸籍に登録されない「闇(やみ)っ子」が増えるなどの問題が生じた。1995年、北京(ペキン)における「国連婦人の20年」の総括会議(第4回世界女性会議)の開催は、中国が、国外の女性運動に目を向ける契機となり、中華全国婦女連合会や各地の運動にも女性問題に焦点をあわせた新たな動きがみられるようになった。

[小野和子]

朝鮮

前近代

朝鮮では夫婦別姓であり、女性は結婚後も姓は変わらない。これを結婚しても血のつながりがない女性を夫家のメンバーに入れないからだと解釈したのは17世紀以後のことである。夫婦別姓は中国の影響もあるが、庶民が姓をもつようになる高麗(こうらい)(918~1392)時代の婚姻制度や女性の社会的地位と無関係ではない。

 女性の男性への従属は、青銅器・鉄器が伝来し、武具・農具が飛躍的に発達した紀元前4世紀ごろに始まり、建国神話の檀君(だんくん)を始祖とする古朝鮮、高句麗(こうくり)(前37ごろ~668)、百済(くだら)(4世紀前半~660)では女性の貞淑が尊重され、妬忌(とき)(度をすぎたやきもち)が厳罰の対象となっていたことが史料に見られる。しかし高句麗の主要な婚姻形態は率婿(そつせい)制(婚姻の儀式を妻の家で行った後、夫は妻の家で寄留し、数年後に妻を伴い夫の家に戻る習俗。婿留婦家(せいりゅうふか))とよばれるもので、一定期間の母処婚(ぼしょこん)(妻方居住婚)の名残(なごり)とみられるが、妻の実家にとどまる期間が長いほど妻の諸権利は認められた。

 高句麗や百済より後進の農業地域でありながら、三国を統一した新羅(しらぎ)(356~935)は、男児褒賞などにみられるように父子相続に向かうが、王位継承順位では高句麗や百済と異なり、庶子より女子を重んじ、3人の女王を出現させている。庶民の女性にも土地所有が認められたようだが、妻が実家にとどまる期間の生活費として与えられたものとみられる。高麗では唐令に従い、男系嫡長子優先主義をとりながらも、新羅の女系相続の慣習も認めた。高麗時代の夫婦別姓は率婿制の伝統や家産の男女均分相続などから解釈するべきであり、高麗社会は父系制でありながら双系制も色濃くとどめていたといえよう。李成桂(りせいけい)が開いた朝鮮王朝(李氏朝鮮。1392~1910)では土地と奴婢(ぬひ)の子女均分相続を法制化し、祭祀(さいし)も長子と子女輪回奉祀が行われていたが、16世紀末から徐々に変化が現れ、18世紀後半になると長男優待・女子差別の相続方法が定着する。また儒教思想を定植するために、仏教と女性の離間を進め、寡婦の再嫁禁止法制化を出発点とした。守節寡婦の褒賞と再嫁子孫の登科阻止、男女差を置いた禁婚範囲の拡大、親迎婚(しんげいこん)(嫁入り婚)の奨励、嫡庶子の差別などを設け、嫡子確保のため、早婚、夫幼婦長、蓄妾(ちくしょう)も強く励行された。その結果、親迎婚、あるいは折衷の半親迎婚が庶民にまで浸透、遵守された。女児の命名に貞・順という文字が好んで使用され、壬辰倭乱(じんしんわらん)(文禄(ぶんろく)・慶長(けいちょう)の役。1592~1598)時の烈女の数は、忠臣・孝子をあわせた数の5倍にも上った。従来、農耕には女性も参与したが、内と外に隔てる儒教倫理は、女性を戸外労働からも退け、地方によってはもっぱら紡織などの戸内労働に従事させる所もあった。17世紀中葉を境に長男優待、男女差別の相続、長子奉祀が慣習として定着するようになる。

[宋 連 玉]

近代への幕開け

18世紀に入って進展した商品経済化の波は再嫁禁止に集約される儒教秩序を揺るがし、実学者のなかからも批判する声が出る。朴趾源(ぼくしげん/パクチウォン)は「烈女咸陽朴氏伝(れつじょかんようぼくしでん)」で女性が強いられる非人間的な抑圧を告発している。また、儒教道徳を教化する手段として使われたハングルが女性の読者人口の底辺拡大につながり、漢陽(または漢城、現ソウル)には貸本屋まで登場した。女性に人気のあった代表的作品『沈清伝(しんせいでん)』『春香伝(しゅんこうでん)』『薔花紅蓮伝(しょうかこうれんでん)』などには、身分を超えた愛の成就、威信を失う家長などが儒教道徳教化と織り交ぜて描かれている。時代の波にうまくのり、経済的に成功した女性の記録も史料に登場し始める。さらにキリスト教と東学(新興民族宗教)の平等思想が、女性の近代的自我への覚醒(かくせい)を促す。甲午(こうご)農民戦争の農民軍が弊政改革案に掲げた若い寡婦の再婚禁止解除は、甲午の改革で明文化された。儒教倫理の象徴はついに撤廃され、婚姻年齢も男20歳、女16歳に引き上げられた。しかし日露戦争に前後して朝鮮支配をイギリス、アメリカ、ロシア帝国に承認させた日本は1910年に「韓国併合」を果たし、禁婚範囲規定などの官製慣習のうえに、旧日本民法に準拠した朝鮮民事令を制定(1912)、戸主制度、戸主相続制度、家父長権強化をもって支配政策の根幹とした。また米中心のモノカルチュア(単一農作物栽培)政策は、綿紡織など多くは女性の手になる商業的農業を壊し、1930年まで女性の無業者は増加、実質的に女性の地位は低下した。近代教育を受けた女性は新女性とよばれたが、そのなかから民族解放、女性解放を求めるリーダーが登場した。これらの主張は槿友会(きんゆうかい/クヌヘ)結成(1927)へと発展、その後の朝鮮内外の女性運動に引き継がれた。朝鮮における総動員体制期(1937~1945)には、女子教育機関を守るという口実で、日本に戦争協力するエリート女性もいた。

[宋 連 玉]

解放と分断

1948年、解放まもない朝鮮は、米ソ冷戦により南(韓国)・北(北朝鮮)に分断される。南では男女平等権が憲法(1948)で保障されるが、父母の親権の内容差別などは、実質的に男女平等原則に背くものである。新民法(1958公布・1960施行)で男女差のある前近代的禁婚範囲が、李承晩(りしょうばん/イスンマン)政権の政治的要求により、拡大して規定されるが、韓国家庭法律相談所を中心に改正を求める女性運動が起こり、1962年に続いて1977年にも改正される。また1970年代以降、女性労働者の生活権と人権を要求する闘いが進む。

 北では土地改革、労働法令・封建遺習残滓(ざんし)清算の法令などの制定と同時に、男女平等権法令が解放直後に公布・実施された。土地改革では女性にも一定の土地が分与されたために女性の経済力が増し、労働法令により母性保護が確立した。同時期に戸籍制度廃止、公民の身分登録制への改定が行われ、18歳以上の全女性に公民証が交付される。女性の社会的参加と教化を目ざした大衆的組織として女性同盟が結成され、1946年に第一次大会を開催する。この時期に、以後50年間の女性政策のほとんどが規定されたといってもよいであろう。しかし、朝鮮戦争が勃発(ぼっぱつ)した1950年に、男女平等権法令および施行細則で認められた協議離婚の権利は早くも後退し、軍務者対象の離婚請求訴訟不許可の特例が設けられたのに続き、1956年には協議離婚が廃止され、裁判での離婚だけが認められるようになった。1961年には全国母親大会が開催され、伝統的な女性の役割が強調され、出産奨励策も推進されたが、1978年からは産児制限政策に変わる。女性の社会参加を支えるために1967年内閣に幼稚園指導局が設置され、1976年には児童保育教養法が制定されたが、社会的活動と家庭での伝統的な役割を期待される北の女性は、二重の負担を負っているといえるだろう。

[宋 連 玉]

現状と課題

1980年の光州事件を契機に南の民主化運動・女性運動は大きく前進した。大学での女性学科設置、女性学会の発足に続き、韓国女性団体連合の結成、政府機関としての韓国女性開発院の設立などにより、男女平等な家族法改正(1990)、嬰(えい)幼児保育法、男女雇用平等法、女性発展基本法、国籍法改正が実現し、性暴力特別法の制定も勝ち取る。それに対し、北においては金日成(きんにっせい/キムイルソン)・金正日(きんしょうにち/キムジョンイル)の父子世襲体制確立のために、金正日の生母である金貞淑(きんていしゅく/キムジョンスク)(1980年に金正淑(きんしょうしゅく/キムジョンスク)と国家によって改称、1917―1949)が理想的女性像として偶像化され、家父長的秩序が強調された。1990年の最高人民会議の女性代議員の比率は20%と高いが、党中央委員会の女性比率は平均4.5%で、実際の政治的地位は高いとはいえない。

 世界の女性人権の進展と韓国の民主化実現により、1990年に東京、1991年にソウル、1992年にピョンヤンで南北女性が一堂に会し、「アジアの平和と女性の役割」というシンポジウムを開催した。また、日本軍「慰安婦」問題の解決に向けても南北双方が協働する動きがみられた。2000年6月の南北首脳会談を受け、進展をみせた南北女性交流は、李明博(りめいはく/イミョンバク)政権(2008~2013)以降は頓挫(とんざ)しているが、脱北女性の救援をする女性団体も出現している。

 韓国では2001年の女性部(2005年に女性家族部に改編)創設に続き、性売買特別法(2004)、戸主制廃止(2008)と性差別を是正する法整備が進んでいる。

[宋 連 玉]

インド

紀元前

すでに「ベーダ神話」には、多夫婚や多妻婚が言及されるとともに、一夫一婦の単婚が理想とされ、夫婦相互の貞節が強調されている。また叙事詩『マハーバーラタ』には、5人の王子を夫とするドラウパディーの話が語られ、多夫婚制についての古典的な事例とされている。しかしむろん、これらの記述から、当時の女性の地位についてその実状を推し量ることはできない。

 紀元前一千年紀の前後、古代インド人は西方からガンジス川流域に移住し、新しい社会組織をつくりだしたが、それ以後、女性の社会的な役割や義務も細かく規定されるようになった。すなわち、アーリア民族系の移住民が土着のドラビダ民族と混血を繰り返し、等差を伴う階級社会が形成されるとともに、紀元前後になると後のカースト制の原型をなす社会ができあがったからである。古代インドにおける女性像は、この異民族間通婚とカースト社会の形成によって根本的に方向づけられたといってよい。

[山折哲雄]

マヌ法典の成立

紀元前後のころに現形ができあがった『マヌ法典』は、祭司制と家父長制に基づくバラモン文化の社会規範を定める法体系であったが、それによると、この時代に新しい性倫理が姿を現した。まず、女子における初経(初潮)期前の結婚が勧められ、結婚前の処女性と結婚期を通じての貞節が要求される反面、男子には多妻婚と妻取替えの特権が認められた。しかし4、5世紀になると、家族内における女性の地位に変化がみられるようになった。すなわち、家族財産の相続人のなかに男系親のほか妻と娘が加えられるとともに、宗教的にも祖霊祭において母方の祖先が供養の対象とされるようになったからである。その過程で女性財産(ストリーダナstrīdhana)の範囲もしだいに拡大し、夫の死後、妻は合同家族財産に対する夫の相続分に一定の権利を有するまでになった。

[山折哲雄]

合同家族制とカースト

こうして11~12世紀を境に、男女両系を含む合同家族の利益が強く主張されるようになった。たとえば娘の息子(プトリカー・プトラ)の相続順位に特別の配慮がなされ、姉妹の息子、父の姉妹の息子、父の父の姉妹の息子などの相続順位が男系の傍系親とともに重視されるようになった。

 しかし女性の社会的地位は、カースト制の成立とともに隷属と賤視(せんし)のなかに置かれた。それを象徴的に示すものが上位婚と下位婚の慣習である。上位婚(アヌローマanuloma)とは、上位身分(カースト)の男性と下位身分の女性の間に行われる婚姻形式で、これは社会的に認められた。これに対して下位婚(プラティローマpratiloma)は上位身分の女性と下位身分の男性との間に行われる婚姻形式で、これは社会的に忌避され、その間に生まれた子供は劣等身分(シュードラ、アンタッチャブル)に落とされた。この慣習は同一身分同士の結婚を制度化するためにつくられたものでもあったが、しかしその結果、最高身分のバラモンは原理的には同一身分の女性のみならず、それ以下のすべての身分の女性を妻とすることができるという観念を生み出し、それはやがてバラモン男子を中心とするクリニズムkulinism(ベンガル地方の超多妻婚)のような悪弊を引き起こすことになった。

 以上、大局的にみると、合同家族制は女性の権利に道を開き、これに対してカースト制は女性の差別を促進してきたといえるが、インドにおける女性の地位は上記の二つの方向の危ないバランスのうえで右に揺れ左に揺れてきた。またこれと並んで無視できないのは、『マヌ法典』以来、女性に対する初経期前の結婚が勧められた結果、長い期間にわたって幼児婚と幼女寡婦の習慣ができあがったということである。そのうえ、早期の結婚をさせるため両親は幼い娘のために必要以上の持参金(ダウリ)を用意しなければならず、そこから女子の出産を重荷と考える心情が育ったことも否定できない。一方、一度寡婦になった女性には再婚を許さないという社会理想は、その極端な形においてサティー(妻の殉死)という悪習を生み、先のクリニズムの慣習と並んで、インドにおける女性の悲劇的な状況を浮き彫りにするものとなった。

[山折哲雄]

社会改革と女性

こうしたなかにあって、女性の地位向上のための社会改革運動が起こったのはやっと19世紀初頭になってからであり、その指導者がラージャ・ラーム・モーハン・ローイであった。彼は女性の逆境・犠牲を改良するため活発な運動を展開したが、なかでも寡婦の再婚を法的に認めさせることに努力を注いだ。そしてついに1856年、その協力者のイーシュバルチャンドラ・ビディヤサーガルの尽力によって「寡婦再婚法」が制定されることになったが、これはインド女性の解放運動のなかで画期的な事件であったといわなければならない。以後、女子教育のための機関が少しずつ設立され、各種の立法措置によって女性の経済的自立への道が開かれていった。すなわち、婚姻年齢の引き上げ、寡婦殉死の禁止、カースト制下の女性隔離の排除などの施策がそれであった。また20世紀初頭以降、マハートマー・ガンディーによって開始された民族独立運動は、女性を家庭から社会へと立ち向かわせる契機となり、国民会議派の政治・文化活動に加わった者のなかから、教育、医療、芸術や政界に活躍する多くの女性が輩出した。しかし全体としてみれば、伝統的な因習を多く残すカースト社会では、女性の社会的進出に限界があり、また合同家族に基づく閉鎖的な生活環境は、女性の個人としての自立を心理的に抑制する働きをなしているのも否めない。

[山折哲雄 2018年5月21日]

その後の動き

第二次世界大戦後、独立後の初代首相ネルーのもとで新しいインド憲法が制定された。それによって、不可触民制の廃止とともに女性の権利擁護の施策が打ち出された。しかし、それにもかかわらず最下層の女性に対する差別と抑圧、性暴力による被害は後を絶たなかった。それを象徴するのが、インド盗賊団(ダコイツ)の元女性首領であったプーラン・デビPhoolan Devi(1963―2001)が、1996年に社会党の下院議員に選出された事件であった。彼女は被差別カーストの極貧家庭に育った。今日インドの人口は10億を数えるが、そのうち2億以上が彼女と同様の虐げられた低層カーストに属する。1979年、彼女は村を襲ったダコイツに誘拐されレイプされた。のち、彼女自身が新たなダコイツの首領になり、かつての加害者集団を装って関係者を射殺した。その後捕らえられ8年の刑に服したが、1994年に司法取引によって出獄、さらに被抑圧民救済のスローガンを掲げて選挙に打って出たのであった。出獄後、彼女はカースト制を容認するヒンドゥー教に絶望して仏教に改宗した。インドにおける女性解放の運動がいかに困難な道であるかが、ここからもわかる。しかし不幸にも、2001年7月25日、彼女はニュー・デリーの自宅前で射殺された。

[山折哲雄]

イスラム

2001年時点のイスラム教徒の人口はほぼ14億と推定され、中東のみならず、東南アジア、アフリカ、ヨーロッパ、アメリカにも広がっている。したがって、当然、それぞれのイスラム社会の様相は異なり、イスラムの女性とひと口にいうことはできない。本項では、イスラムの発祥地である現在のサウジアラビアを中心とするアラビア半島の女性について述べる。

[片倉もとこ]

母系的傾向

女性隔離、一夫多妻などの一面から、イスラム社会では女性の地位が極端に低いとみなされがちであるが、かならずしもそうとはいえない。アラビアでは、古来母系的傾向が強かったという記録がある。現今でも部分的にはそうである。妻の実家のほうで新居を営む母方居住が一般的であり、女性が自分の家、部屋、テントの所有権をもっており、イスラムが興る前、6、7世紀までは妻問い婚も盛んであった。また、財産所有も母方の共同体によるものであった。イスラム初期7世紀ごろの史料には、このような経済力を背景に、大商人、詩人、医者などとして活躍した女性たちが描写されている。イスラムの創始者ムハンマド(マホメット)の最初の妻ハディージャも、シリア方面との隊商交易を牛耳(ぎゅうじ)る実業家であった。

 このような活発な女性たちが存在した当時のアラビアには、同時に女児殺しの慣習も存在していた。この事情を理解するには、次のような社会的・文化的背景が考えられねばならない。すなわち、部族戦争が多く、男児の死亡率が高かったために、男女の人口比がアンバランスになりがちであったこと、さらに、母系的傾向の強いアラブ社会で親族の女性を守ることが男性たちの義務であり名誉とされる慣習があったこと、当時は他部族による女性の略奪も盛んに行われていたこと、などの状況があったため、女性人口の過剰をコントロールする必要が生じたのであった。

[片倉もとこ]

ムハンマドの改革

7世紀に入ると、それまでの遊牧経済の多くが定住経済に移行し、メッカにみられるように、都市的商業社会が飛躍的に膨張した。これに伴って母系的な部族財産共有体は崩壊し、私有財産観念がみられるようになった。母系集団の共有財産管理権は私有財産の所有権となり、相続権は父系をたどることになった。また、商業利潤の追求が激しくなるにつれ、妊娠、出産などの女性の身体的生理条件がハンディキャップとみなされ、女性商人の後退がみられるようになった。こうして、メッカなどの都市では父系社会への移行が急速に進み、貧富の格差も増大した。

 社会不安がもっとも募った7世紀初頭に出たムハンマドは、ウンマ(イスラム共同体)の建設によって、社会を改革しようとした。イスラムの布教のために男性たちの協力を必要としたこともあり、男性の相続を女性の2倍とし、私有財産を認め、一方、女性側の不満を解決するためには、結婚の際に男性が女性に結納(ゆいのう)金を支払い、離婚の際の保証金も男性が払うこと、家族の経済生活は男性が受け持つよう定めたと考えられる。四人妻の奨励は、それまでの無制限な多妻を規制するものであったという説もあるが、布教戦争により急増した未亡人や孤児に対する「社会保障」的救済策であったとみるほうが、史実に近い。

[片倉もとこ]

イスラム法の成立

コーランとムハンマドの言行録などを法源として、13世紀にイスラム法が完成した。イスラム法においては、結婚は当事者双方の意思に基づく契約によって成立する。契約式には双方から証人が出席し、男性からの結納金の額や結婚後の居住条件などが書き込まれた契約書を取り交わす。結納金はマハルとよばれ、契約の際に、結婚時と離婚時に男性が支払う額が取り決められる。現実社会においては地域差もあるが、マハルは、原則として妻個人に支払われるものであり妻の財産となる。離婚時のマハルは、結婚時のマハルよりも多いのが通常であり、マハルが支払えないために結婚または離婚できない男性も少なくない。夫婦は別産制であり、女性のほうが男性より収入が多い場合でも、家族の生活は男性が保障する。これは男性の宗教的義務とされているので、妻を養ってやる、あるいは夫に扶養されている、といった意識はこの社会には存在しない。こういった状況のなかで実際に一夫多妻の生活を送っている者の数は、非常に限られている。

[片倉もとこ]

現代アラビアの女性

アラビア半島諸国では、男女隔離が行われている地域が多いが、男性の世界のほうが上であるという観念は存在しない。女性の世界のほうが重視されることも多い。また男女隔離のゆえに、女性が高度な専門職に進出する道が開かれている面がある。女性は女性医師に診てもらうほうがよいという考え方から、女性医師の養成が盛んである。女子教育のための女性教員も増加している。アラブ首長国連邦やサウジアラビアには女性専用の銀行ができ、店長以下すべて女性である。男女隔離の象徴として知られるベールは、日よけ、砂よけといった実用のほか、外見などによって女性が商品化されるというような傾向を阻止している面もある。

 1960年代から、アラビア半島では教育熱が高まり、女子教育にも力が入れられている。サウジアラビアのリヤド大学、アブドゥル・アジズ大学などには女子の入学が急増し、女子教員学校、看護婦養成学校、女子医学部などが設置されている。高等教育を受けた女性の割合はまだ少数であるが、これらの女性は教員、医者、ジャーナリストなど、かならず社会的労働に参加し、結婚後も仕事を続けているのが普通である。

 ほかのイスラム諸国と違い、イスラム法を遵守するサウジアラビアでは、女性の相続分が男性の半分であったり、法制上、多妻が許されている。このことは、女性にマイナスのイメージを与えるものであろう。しかし、イスラムのなかに存在する契約精神は、女性の地位を支える面もあり、おおむね自立意識の強い女性たちは、教育・経済界等で活発に活躍しており、その社会貢献度には、侮りがたいものがある。

 サウジアラビアの非識字率は、1974年には67%であったが、1992年には28%、1995年には25%と着実に低下しており、女子教育、成人教育を含めた教育の普及は目覚ましい。ちなみにこのような非識字者撲滅教育運動の成果に対して、1996年サウジアラビアはユネスコ(国連教育科学文化機関)より表彰された。さらに2001年には、サウジアラビア人女性、ソラヤ・オベイドThoraya Ahmed Obeid(1945― )が、国連人口基金(UNFPA)事務局長に就任し国際的に活躍している。

[片倉もとこ]

イギリス

イギリス史において、為政者のような公的な立場でその名をとどめた例外的な女性は数多くいたものの、アングロ・サクソン時代から近代に至るまでの女性の歴史は、概していうならば、従属の歴史であった。

[河村貞枝]

工業化前

アングロ・サクソン時代でも中世でも、妻は夫に仕えるものとみなされ、妻は夫に対して温順であるべく期待された。中世の立法者やモラリストは、女性は男性より本質的に劣ったものとみなしたが、この見解はなによりも聖書に基づくものとして強化され、19世紀までの女性観の主流をつくりあげたのである。キリスト教的女性観は、とりわけ、女性が男性のために造られ、原罪の源は女性にあるとするパウロの教義によって武装された。それでも、中世の女性は家族のなかで彼女自身の権威を有していた。富裕階級の女性ですら、菜園の管理や食事の準備、家事全般をつかさどらなければならなかったし、召使いの監督や育児に従事した。中世の女性の主たる仕事は糸紡ぎや刺しゅうであったが、15世紀ごろには若干の女性は、商人としてまたギルドの成員として行動したり、居酒屋の女主人であったりした。また地主貴族の女性は所領や爵位を相続することができたし、教区委員として行動することもできたので、チューダー朝時代(1485~1603)には、イギリス女性の享受する自由が外国人に羨望(せんぼう)視されたりもした。だが、スチュアート朝時代(1603~1649)、またピューリタン革命の共和政下(1649~1660)に、女性の隷属はふたたび強化されたのである。

 中世以降、女性は主として社会的・経済的理由のために結婚し、彼女らの結婚は両親によって取り決められた。富裕な女相続人は、財産であり、投資の対象とみなされた。法律上、未婚女性あるいは寡婦は男性と同じ地位を有していたのに対して、既婚女性は婚姻期間を通じて法的人格を夫の人格のなかに併呑(へいどん)されて、財産権も子供に対する後見権ももたなかった。女子の学校教育は17世紀に始まり、次の世紀にはブルー・ストッキング(モンタギュー夫人らの主宰する文学サロンに出入りしたインテリ女性たち)の出現をみた。だが、結婚が女性にとっての唯一の前途とみなされたがゆえに、女子教育は、たしなみ(音楽、ダンス、手芸、のちに外国語と算数が加わる)と礼儀作法の訓練に大いに強調が置かれていた。

[河村貞枝]

工業化後

18世紀後半に始まった産業革命後の諸変化は、イギリス女性の生活の諸条件を大幅に変えた。下層階級においては、工場労働や家事奉公に従事する女性の賃金労働者が多数創出されたが、中産階級においては、家庭が生産の場から消費の場に移行することによって、経済的役割を喪失し、もっぱら男性の経済的・社会的地位のシンボルとして機能する有閑女性が生み出された。したがって、工業化以降の女性史は、労働者階級では、不熟練労働者としての女性労働者の組織化への歩み、中産階級では、遊惰・無為の従属的立場からの解放の歴史であるといえる。

 男性の支配からの女性の解放の要求すなわちフェミニズムの思想的先駆は、メアリ・ウルストンクラフトの『女性の権利の擁護』(1792)であった。だが、彼女の提起した思想が具体的運動となるにはビクトリア時代(1837~1901)中期まで待たねばならなかった。フェミニズムの具体的課題としては、経済的自立、法の前の平等、教育の機会均等、職業選択の自由、売春問題、政治的権利の獲得などがあげられる。19世紀後半における女子教育の発展は、女性の解放への道を開いた。そして遊惰な状態に満足していられなくなった女性は、社会的に有用な役割を演じうるように、専門職業の開放を要求した。その要求実現に向けての一つのスタートは、1874年のロンドン女子医学校の開校であった。1870年以後の初等学校の急速な増加は、教育職という女性の職業を提供した。19世紀末には電話交換手や事務員、店員といった女性の新しい職業領域が生じてきた。女性がより活動的になるにつれて、服装のスタイルにおいて急激な変化が生じた。女性がだんだん自立するにつれて、彼女らは平等な法的・政治的権利を要求するようになった。最大の不満は財産権にあり、1882年の既婚女性財産法がついに妻たる女性に新しい法的地位を与えた。また、フェミニズムの諸要求の実現の決定的手掛りとして女性参政権がフェミニズムの至上目標とみなされるようになり、1897年にミリスント・G・フォーセットMillicent Garrett Fawcett(1847―1929)を会長に「女性参政権協会全国同盟」が結成され、さらに20世紀に入ると、エメリン・パンクハーストを中心とする戦闘的な女性参政権団体「女性社会政治同盟」が現れた。第一次世界大戦(1914~1918)の勃発(ぼっぱつ)ののち、女性は銃後の活動に積極的に従事し、戦争終結直後1918年の国民代表法で、戸主あるいは戸主の妻である30歳以上の女性に選挙権が与えられた。ついで1928年に男女平等の普通選挙の実現をみる。

 女性の地位の改善をもたらしたもう一つの局面は、19世紀末の産児制限の普及による家族の大きさの縮小である。絶え間ない出産ほど女性の自由を制限するものはないから、出産率の急激な低下は明らかにキャリア・ウーマンの道を舗装したのである。さらに、第二次世界大戦後に同一賃金を強力に要求し続けてきた女性労働者の、主体的で粘り強い運動と、1960年代後半の新しいフェミニズム運動の高まりによって、1970年代前半に同一賃金法および性差別禁止法の2法が議会を通過し、1975年末に完全実施された。

[河村貞枝]

1970年代なかば以降

20世紀末のイギリスにおいて、公的分野への女性の進出でもっとも顕著なできごとは、1975年にマーガレット・サッチャーが保守党の党首に選出されて、イギリスで初めて主要政党を率いる女性となったことであろう。さらに彼女は1979年に首相に就任し、1990年まで20世紀の首相としては最長の任期を務め、彼女が推進した厳しい経済政策(公金支出事業削減など)や軍事政策(フォークランド紛争など)から、「鉄の女」という異名をとった。彼女の政権下では、女性の議会進出は伸び悩んだが、その後1997年総選挙における労働党の圧勝のなかで、120名もの女性下院議員が誕生するとともに、5名の女性が入閣することになった。

 他方、国際婦人年(1975)以降のイギリス女性の草の根的な運動も目覚ましかった。たとえば、女性の妊娠中絶の権利を求める全国中絶運動が展開された。また、もっとも成功したフェミニスト的活動として、1975年にグレート・ブリテン各地の暴力反対の団体とシェルター(暴力からの女性の避難所)を結ぶために階層序列をもたない連合体、「全国女性援助連盟」が結成された。連盟は会員組織の支援に加えて、「殴打される女性」への法の下でのサービスと処遇を全国的、地方的に改善するために活動してきた。その一つの成果として、殴打される女性に殴打禁止命令を付与した1976年の家庭内暴力法がある。また、グリーナム・コモンにあるアメリカ空軍基地に巡航ミサイルが配置されることに抗議するために、1981年に結成された3万人以上の女性からなる平和キャンプは、ミリタリズム(軍国主義)に対する非暴力の直接行動と市民の不服従とをフェミニスト的精神に結び付けた運動として、国内外の反響をよび、幅広い支援網をつくりあげた。

[河村貞枝]

フランス

中世からフランス革命前まで

6~15世紀まで約1000年にわたる中世を通じて「女というもの」についての言説を握り、処女、寡婦、結婚している女性という女性の三つのカテゴリーを中心に、その模範像をつくったのはおもに聖職者と学者たちであった。カトリック教会は、生涯添い遂げる「キリスト教的結婚モデル」を広めていった。まだ統一的法体系はなかったが、ローマ法以来規定されてきた女性の「劣等性」は後見制度として現れ、未婚の場合には父が、既婚の場合には夫が後見の権利をもち、夫の支配に妻は無条件で従った。結婚しない女性、または寡婦の場合は修道女になることが多かった。10世紀ごろの女性の平均寿命は36歳と推定されている。封建貴族階層の女性は家系の上昇・維持の役割を担い、民衆階層の女性は繊維・食品製造業などの部門で、労働力として中世都市の経済発達に決定的役割を果たしたが、大部分は農業労働に従事していた。男性たちが規範を統制するなか、15世紀に、最初のフェミニストにして子供を抱える寡婦、クリスチーヌ・ド・ピザンが例外的に作家としてペンで生活を支え、『女の都』などの書物を書き、女性擁護論を唱えた。

 絶対王政の確立から崩壊に向かう16~18世紀は、プロテスタントの宗教改革とカトリックの対抗宗教改革による宗教紛争の時代でもあった。カトリックの改革者たちは伝統を伝える母親の役割に注目し、宗教上の道徳、読み書きを中心とした女子教育を民衆階層にまで広める。一方では、貴族層を中心に中世からの男女の優劣をめぐる「女性論争」が延々と続いていた。これらの時代には医学、科学、哲学の言説が「女の本性」を論じ、妻や母としての女性の役割を定義するようになった。こうした本性・役割論に対して、17世紀に、最初の男性フェミニスト、プーラン・ド・ラ・バールFrançois Poullain de la Barre(1647―1725)は男女平等を唱え『両性の平等について』(1673)を書いた。結婚が女性の人生の中心であったが、貴族・中産階層では持参金制度が重荷になり、民衆階層より結婚率は低かった。貴族階層の女性たちはサロンを主催し、政治・文化面で実力を発揮し、ラファイエット夫人が『クレーブの奥方』(1678)を、セビニェ夫人が書簡文学を書いた。服飾産業などの新興産業の拡大とともに、民衆女性の職域は広がったが、女性専用の仕事とみなされると、低賃金に固定された。18世紀になると、女性新聞の発行、種々の暴動に加わる女性たちなど、社会的場面に女性たちの活動的姿がみられるようになる。

[中嶋公子]

フランス大革命から第四共和政まで

1789年、ブルジョア市民革命により共和政が成立。ルソーなど啓蒙(けいもう)思想による、自然権を基礎にした「人間および市民の権利宣言」(人権宣言)が出された。革命期、女性たちは政治クラブを組織し、離婚や政治的諸権利を要求して戦った。なかでもオランプ・ド・グージュは、「人権宣言」の人間・市民は男性であって女性は含まれない、女性にも人権・市民権を与えよと、1791年に『女性と女性市民の権利宣言』(女権宣言)を起草した。しかし、フランス革命は、グージュの主張するあらゆる不平等の根本原因である女性に対する専制支配を問題にすることなく、逆に1793年、彼女は敵対する革命派(山岳派)によって処刑された。唯一、『女性の市民権の承認について』(1790)を書いたコンドルセを例外として、啓蒙思想は領域論と役割論を結び付け、女性の役割は妻・母であるとして、女性を私領域に閉じ込め、公領域である政治から排除した。領域論は以後、教育、労働などあらゆる分野で女性の地位に決定的影響を及ぼす。とはいえ革命期には、女性は身分登録や離婚の権利など民事上の諸権利を獲得した。女性の市民権が構想されたこと、女性に民法上の法人格を認めた意味は大きく、これらはフェミニズム、とくに女性の参政権獲得の理論的基盤をなすことになる。

 しかし、ナポレオンが皇帝となり、ブルジョア階級の理念である家族秩序の維持、権威の強化を図る民法典(ナポレオン法典)が1804年に発布され、妻は人格、財産、生活のすべてにおいて夫に管理されるという夫権の絶対性が明文化され、女性は革命前の旧体制下より徹底して男性の所有物となった。1816年には離婚も禁止され、女性は民法上の法人格を完全に失った。

 大革命以後19世紀の近代国家形成を通じて、女子教育は教会と国家の権限争いの対象となるが、漸次修道院中心の教育から公的な非宗教的女子教育へと移行する。教育内容は男女別学で、女子には家庭を守る「教育者としての母」の役割を重視する教育が行われた。1860年代~1880年代に、公立女子小学校、女子中学校教育、女子師範学校の設立・整備が行われたが、中学校以上は中産階層が対象であった。教育内容の男女統一は1925年以降であった。

 一方、産業化の進展は繊維産業などに女性労働者を層として生み出したが、その大半は若い独身の女性であった。未婚既婚を問わず、民衆階層の女性の多くは農業など家内労働に従事するか、または家内奉公人、衣服の裁断など伝統的部門で働いていた。19世紀後半には労働人口の30%を、20世紀に入ると、事務員、教員、店員などの40%以上を女性が占めた。しかし、領域論により女性の役割は家庭にあるとされ、労働市場の性別分離が進み、女性労働は劣悪な労働条件のもと低賃金に押さえられた。

 こうした女性の位置づけと現実に対して、革命期にその萌芽(ほうが)をみせたフェミニズムは、とくに政治的に比較的安定する1870年の第三共和政の成立以後、社会的・政治的行動体として自らを構築する。ブルジョア改良主義的傾向または社会主義的傾向などフェミニズムは諸潮流に分かれていたが、1878~1914年まで、11回にわたる国際フェミニスト大会の開催、女性による女性の日刊紙『ラ・フロンド』の発行(1897創刊)、また1890年ごろより労働時間・賃金の改善を掲げた女性独自のストライキなど女性の権利獲得のためにさまざまな具体的行動を起こした。フェミニズムはまだマイノリティ(少数派)の運動ではあったが、民主主義の進展と相まって、法改正を着実に実現させていく。

 時代を通じて、医学、心理学、精神分析、経済学など諸学の発達は領域理論を補強するが、他方では女性の民法上の地位、労働権、教育権にかかわる法改正が獲得された。まず、協議離婚を除く離婚が復活(1884)し、1938年にはナポレオン法典以来の夫権が廃止されたが、夫の居住選定権、妻の職業への異議申立て権、父権、夫婦共有財産管理権は依然として残された。労働に関しては、女性の夜間労働の禁止(1892)、1日10時間労働(1904)、8週間の無給出産休暇(1909)、8週間の有給出産休暇(1928)など保護措置がとられた。教育では、大学教育までの道が開かれ、女性初の文学士、法学士、医学博士が誕生し、キュリー夫人が女性で初めてソルボンヌ大学の正教授(1906)となる。以後、男性の職域とされた弁護士、医師など各分野へ確実に進出していった。女性の政治的権利獲得要求は第三共和政以降、ユベルチーヌ・オークレールHubertine Auclert(1848―1914)らによってもっとも盛んになった。第一次世界大戦直前には、女性の参政権獲得のためにフェミニスト・グループが大連合し、獲得寸前まで行ったが、戦争によって中断された。結局、女性の参政権は1944年に獲得される。二度の大戦期、フェミニズムは自らを愛国主義的と規定し活動した。1940年以降、ドイツによる占領下では、対独レジスタンスに女性たちも参加した。第二次世界大戦終了後、第四共和政下の1946年に、初めて憲法に男女平等の理念が掲げられた。

[中嶋公子]

第五共和政以降

第二次世界大戦後の経済復興、産業化、都市化の進行のなかで、サラリーマンの夫、専業主婦の妻、子供たちという核家族の中間階層が大量に都市部に誕生する。家族政策はこうした単一賃金の核家族をモデルに展開されるが、1960年代には、高度成長、市場の拡大に伴い、女性雇用政策がとられる。1970年代に入ると、都市中間階層の女性たちに深い影響を与えた1968年の五月革命を起点とした急進的女性解放運動が中絶合法化を最大要求として高揚期に入る。運動の理論的基礎となったのは、シモーヌ・ド・ボーボアールの『第二の性』(1949刊行)である。この本によって、初めて哲学思想のレベルで、「女の本性」に基づく役割論が分析批判され、個々の女性が主体的に生きる可能性が理論的に拓(ひら)かれた。今日のジェンダー論の先駆である。やがて運動は理論的に、社会学系を中心にした男女平等を最優先に考える派と精神分析系を中心にした男女の差異を考慮する派に二大分裂する。そして、フランスでは前者のみがフェミニズムを名のる。前者からは性社会関係論が、フェミニズムに批判的な後者からは母性論や母娘関係論、女性のセクシュアリティ論が生み出された。大学でも女性研究、フェミニスト研究の講座が組まれ、ジェンダーの視点から男性が創(つく)ってきた思想、学問の問い直しが始まった。1980年代初めには、女性の権利省の後押しで公式に女性研究がスタートする。

 こうした背景のなか、国連の女性差別撤廃条約の動き、1981年の社会党政権による女性の権利省設置等により男女平等政策はさらに本格的に展開され、1970年代~1990年代で法律上の男女平等は基本的に保障された。まず、民法上の権利については、1965年の夫婦別財産制の創設、妻の職業選択権の承認、1970年代に入ると、夫婦の親権の共同行使の承認、「家長」としての夫の地位の廃止、協議離婚の承認。また、家族政策は単一賃金世帯優遇策を廃止、家族形態に中立的となる。労働については、「男女混在」原則を掲げ、「男女職業平等法」(1983)、出産休暇の改善(産前6週間、産後10週間、85%の給与保障)、育児親休暇の延長(期間は24か月。両親のどちらでもとれる)、刑法上、労働法上にセクシュアル・ハラスメント罪の規定(1992)がなされる。教育については、男女共学は1957年から中等教育で段階的に進められたが、高等師範学校では1980年代からであった。大学入学資格試験の合格者は女子が男子を上回っている。そのほか、1975年に人工妊娠中絶が合法化され、避妊法と人工妊娠中絶費にも社会保障が適用されることになった。女性に対する暴力については、1992年の新刑法でレイプ、夫婦間暴力(DV=ドメスティック・バイオレンス)はより重罪となった。売買春については、歴史的に公認娼家(しょうか)制度がとられてきたが、1946年に廃止された。新法は売春行為は罰しないが、売春斡旋(あっせん)業者の取締りは強化された。1980年代、女性の権利省は売春予防と売春婦の社会復帰のための措置を展開した。

 1990年代後半のフランス女性についてみてみると、女性の労働力率は45%で、30~40歳でも77%が就労し、結婚、出産・育児で職業を中断せず働き続けるのが普通になっている。女性の初婚年齢は26.1歳と晩婚化し、また、法律婚は減り、事実婚が増え、離婚は3組に1組、離婚の際、子供を引き取るのは母親が85%、合計特殊出生率は1.7前後、婚外子は10人に4人。産む産まないの自由を獲得した女性の生き方は仕事と家庭を両立させる方向へと大きく変化した。しかし、女性の賃金は男性の75%と、なお格差があり、育児休暇をとるのは母親が多く、男性の家事参加率もまだ低く、女性の方が仕事と家事・育児の二重労働を負っているのが実情である。こうした女性の状況と家族形態の多様化に伴い、父親の位置と役割についての議論と模索が続いている。

 以上、女性たちはあらゆる公領域に進出するようになったが、唯一まだ厚い壁が男性最後の牙城(がじょう)といわれる政治である。女性国会議員の割合は5~6%で推移し、ヨーロッパ連合(EU)中最下位であったが、1990年代に入り、パリテ(男女同数原則)の運動を女性政治家たちが中心になって起こした。積極的差別改善策であるクオータ制(女性の参画を促すために男女比率を定める強制的割当制)の選挙への導入は憲法の男女平等原則に抵触すると違憲判決が出たからである。運動が実り、1999年にパリテ導入のための憲法改正案が通り、パリテ法(男女同数候補者法)が2001年の地方選から適用となった。同法により、市区町村議会のほとんどで、女性議員は48%に達した。フランス革命時の性別をもたない「普遍的市民」から、いまなお論争の対象となっているとはいえ、性別をもつ「普遍的市民」へ変更した意味は大きく、パリテは今後職業などすべての領域に影響を及ぼすであろう。もう一つ、同性愛者にも結婚に近い民事的権利を認めようとするパクス法(市民民事契約法)が1999年に成立し、実施された。母子家庭の貧困化など、まだまだ女性差別の解決すべき問題は多いが、女性の既得権の擁護や権利獲得のために、女性たちが万単位のデモが組めるのは、女性の権利意識の高さであり、強みであろう。

[中嶋公子]

アメリカ

植民地時代

17、18世紀のアメリカは自給自足の農耕社会であり、家族は生産の単位として機能し、女性も家事・育児のほか、生産活動の一翼を担ったが、女は男に従属するものというヨーロッパから持ち込まれた伝統的な考え方が男女関係を支配していた。そして、植民地では労働力は不足し、女性の数も少ないため、女性は貴重な存在であったが、伝統的な慣習法の下で、結婚した女性は、財産所有権、訴訟を起こす権利、契約の権利などを失い、法律上は夫の保護下に置かれ無人格になった。寡婦には一個の個人としてこれらの権利が認められたが、女性はいかなる者も政治や宗教の公の場において男性と対等に発言し、行動することは許されなかった。この禁を犯した有名な例では、ピューリタン教会を批判し、マサチューセッツ植民地を追放されたアン・ハッチンソンAnne Hutchinson(1591―1643)がいる。

[有賀夏紀]

19世紀

植民地時代の家父長的な男女の関係は、18世紀末の独立革命、19世紀初めの産業革命および宗教復興運動の影響を受けて変わっていった。まず独立革命期には、共和国を維持する市民を生み育てる母としての女性の役割が重視され、糸を紡ぐなどの女性の伝統的な仕事も独立戦争を遂行するために重要なものとみられた。次に産業革命は、夫は家の外で生産活動に従事し、妻は家庭を守るという性別分業を促し、男女の領域を公と私とに二分することになった。その結果、女性は家事・育児を一任され、家庭内では実権を握った。宗教復興運動においては、経済発展のなかで信仰心の薄れた男性に対して、女性は重要な役割を期待され、特別に敬虔(けいけん)で純潔であるとしてその高い道徳性がたたえられた。こうして、19世紀には、女性の地位が高まったのであるが、妻の家庭における発言権の強化も反映して、白人女性が生涯に出産する子供の数は、1800年から100年の間に、7人から3.6人に下がった。

 家事・育児といった伝統的な女性の役割に新たな価値が与えられ、優れた道徳性を自他ともに認められた女性は、家庭の擁護者としての女性の役割の延長から、社会の浄化に乗り出していった。最初は宗教復興運動のなかで、さらに禁酒、奴隷制廃止などの改革運動を行いながら、女性としての連帯意識を強め、権利の問題にも目覚めていった。既婚女性の法律上の権利の要求も起こり、1840年代には財産権を認める州も出てきた。そして1848年には、ニューヨーク州セネカ・フォールズにおいて、最初の女性の権利のための大会が開かれた。同大会では、女性の平等な権利が要求されたが、とくに、女性参政権は多くの反対のあるなかで採択され、以後の女性参政権運動の端緒を開くことになった。女性参政権の要求は、禁酒や奴隷制廃止運動などのように女性の役割の延長とみられる社会の浄化活動と異なり、男性の領域とされる公の政治のなかに踏み込むことを意味していたので、一般の支持はなかなか得られなかった。1920年の合衆国における女性参政権成立までに70余年かかることになる。以上のように産業革命後、女性の役割に専念しながらもこれを越えようとしたのは中産階級の女性であった。主として移民からなる下層の女性は家計を助けるために低賃金労働者となって働いた。女性労働者のほとんどは未婚者で、主婦は家庭を守りながら、下宿人を置いたり、内職をして収入の道を得た。このような現実において、女性の役割への専念が理想にすぎない彼女たちにとって、女性参政権は不可解なものであった。

[有賀夏紀]

1920年から1960年まで

1920年における女性参政権成立後も、女性は政治参加の権利を得た以外は、従来からの役割を果たし続け、女性の就業率の増加も1920年代にはほとんどなかった。そしてフェミニスト(女性の地位向上を目ざす人々)の運動は参政権を獲得後衰退した。従来のフェミニストが女性の特性を認めたうえで平等な権利を要求していたのに対し、男女の生物学的相違以外の同一性を主張する動きも強くなり、女性の特性を前提に発展してきた女性運動は分解した。そのなかで、1923年に初めて議会に提出されたERA(平等権修正)は、後者を代表するものであり、1960年代まで一部のフェミニスト以外の支持を得ることはできなかった。女性の地位と役割に大きな変化をもたらしたのは大恐慌(1930年代)と第二次世界大戦であった。家計を維持するため、あるいは国家の戦争遂行に協力するために、1930年代、1940年代、女性の職場進出が進み、なかでも第二次世界大戦下の既婚女性の進出は著しかった。既婚女性の就労は、伝統的な女性の役割から外れるものであった。戦後も、インフレと消費景気のなかで既婚女性の就労は増加していった。

[有賀夏紀]

1960年以降

こうした女性の職場進出を背景に、1960年代末には、公民権運動や反戦運動のなかから、伝統的な性役割の観念を打ち破ろうとする女性解放運動(ウーマン・リブ)が起こった。なかでも、男性支配=家父長制を女性抑圧の根源とし、女性中心の文化を強調するラディカル・フェミニズム(レズビアン・フェミニズム)は、従来の資本制批判に加えて性の支配体制=異性愛中心の性規範をまっこうから批判した点で画期的であった。女性たちは私的な悩みや不満を語りあい、女性が共有してきた差別の存在、すなわち「個人的なことは政治的なこと」The Personal is Politicalであることを学びとっていった。このような意識高揚運動は、1970年代には両性の平等を支持する社会気風をつくりだし、雇用、教育、財産をめぐる差別撤廃法が制定された。また全米女性機構(NOW(ナウ):National Organization for Women)、全米女性政治会議、労働組合女性連盟、女性の避難所、24時間無料託児所など、多様な女性の活動基盤もつくられた。さらには法学や医学など新しい専攻分野で高等教育を受ける女性も多くなり、専門職や管理職へと進出していった。こうして1980年代には既婚で働く母親が多数派になっていったものの、最低賃金で働く者の3分の2は女性であり、1970年代からの離婚や女性世帯主家族の増加は「貧困の女性化」、とくに黒人やヒスパニックの間で貧困を深刻化させていった。この階級と人種差別の問題は、1980年代からのブラック・フェミニズムによって告発されていくことになる。今日、アメリカ女性の管理職比率は世界をリードしてはいるものの、賃金額は依然として男性の7割台で、非正規雇用や有色人種の女性ではさらに低い。

 離婚・非婚女性、シングルマザー、子供のいない世帯が増加し、また生殖技術の進展で、「伝統的な」家族は根幹から揺らいでいる。1970年代初めに、男女平等を掲げたアメリカ合衆国憲法修正案(ERA:Equal Rights Amendment)が議会を通過し、また女性の中絶権も連邦最高裁判所で認められ、セクシュアリティをも含む性役割が根本的に問われだしたが、巻き返しもそれだけ強くなった。1980年代のレーガン政権の誕生は反ERAおよび伝統的な家族信奉者の根強い存在を示している。1970年代後半から中絶反対派のテロもみられるようになり、1982年にはERAも廃案となった。1980年代から積極的差別是正政策も後退、各州の中絶規制も増加した。1990年代のなかばまでには連邦議会においても、伝統的な家族形態が党派を超えて礼賛され、未婚のシングルマザーをターゲットにして援助受給を制限する福祉改革や、同性婚を容認しない連邦法が成立した。1993年の中絶を支持するクリントン民主党政権の発足は、反中絶テロをいっそう過激化させ、1990年代後半からは妊娠中期・後期の中絶禁止を求める動きも加速した。そしてブッシュ共和党政権下の2003年に妊娠後期の中絶禁止法が成立し、2007年にはその合憲性も認められ、中絶をめぐる大きな転換期を迎えた。

 2008年の大統領選挙では、アメリカ史上初めて白人女性と黒人男性が民主党候補の座を競った。弁護士、元大統領夫人、また上院議員としてキャリアの豊かなヒラリー・クリントンには女性大統領誕生への期待も大きかったが、結局、黒人のバラク・オバマが勝利した。またこのときの共和党の副大統領候補はサラ・ペイリンSarah Louise Palin(1964― )であった。1984年にジェラルディン・フェラーロGeraldine Ferraro(1935―2011)が女性として初めて副大統領候補になって以来、四半世紀が経っていたが、黒人男性が白人女性に先行する歴史は変わらなかった。またペイリンの登場は、女性の政治進出がかならずしもジェンダー秩序の打破にはつながらないことも露呈した。

[大辻千恵子 2016年8月19日]

ロシア・ソ連

ロシア建国以後

ロシア最初の統一国家キエフ・ロシア(キエフ大公国)のオリガOl'ga(890ころ―969)公妃やノブゴロドの女性市長官マルファのように亡夫にかわって権力の座についた女性もいたが、9世紀の建国当初よりロシア社会は男性優位の社会であった。ギリシア正教の受容によって、民衆の間にあったかなり自由な男女間の風習もしだいに排され、女は不浄なものだという女性観が浸透した。しかしその聖母信仰のため母親への尊敬は深く、未亡人の地位は社会的にも認められていた。13世紀なかばからのモンゴル支配によって確立された専制と家父長制は女性たちの生活を閉鎖的なものとした。

[和田あき子]

16~17世紀

16、17世紀には隷属的状態はもっともひどかった。16世紀に編まれた『家庭訓』は、日本の『女大学』に酷似し、朝は暗いうちから起きて家事を切り盛りし、子供をりっぱに育て、夜通し灯明を絶やさないよう教え、貞淑・従順・忍耐をもって夫と神に仕えるよう説いている。女性たちはほとんど外出せず、客の前に顔を出すのもはばかって暮らした。人口のほとんど95%を占める農民や農奴の生活は重労働と貧困が加わってまったく悲惨であった。平均10人近い子供を産んだが、育つのは半数であった。

[和田あき子]

18~19世紀中ごろ

ピョートル1世(大帝)によってヨーロッパ化が行われた18世紀になると、貴族社会では女性たちの立場も変化した。18世紀の「家庭訓」とされるタチシチェフの『遺訓』では、「妻はおまえの奴隷ではなく、同志であり、協力者であることを忘れるな」となっている。ドイツ風の服装で女性も夜会に出るようになった。この世紀には4人の女帝が66年間統治し、ロシア人ではなかったが、エカチェリーナ2世は高い教養と政治的手腕をもった専制君主であった。もとより女性の隷属的立場はその後も変わらず、1832年の民法典にも規定されたように、「家長としての夫に服従し、愛と尊敬と無限の従順さをもって夫に対し、一家の主婦として喜ばせ、愛情を示す」妻の義務は生き続けた。親の許可なく結婚することはできず、妻は夫から身分を与えられ、夫の許可なしに雇用労働につくことはできなかった。19世紀のロシア文学には、『アンナ・カレーニナ』など、そうしたなかで人間らしく生きようとした女性たちの魂が描かれている。

 ちなみに、ロシアでは女子の相続権は『ルースカヤ・プラウダ(ロシア法典)』(11世紀)でも認められており、1832年の民法典では夫の死後妻は不動産の7分の1と動産の4分の1、娘は14分の1と8分の1の相続権が規定されていた。夫婦別産制も古くから存在し、農村でも牛は妻の財産で、賃仕事で妻が稼いだものは妻の財布に入った。持参金は妻の財産で、自分の財産の自由な管理、処分権も認められていた。

[和田あき子]

農奴解放前後

1861年の農奴解放前後の大改革期には従来の封建的女性観が鋭く批判され、「女性問題」は大きな社会問題となった。男性にも参政権のなかったロシアでは、女性解放運動は、日常生活のなかでの男女平等の徹底化と、女子にも経済的自立を保障する女子教育機関設立運動という方向をとった。男性の女性賛美、平等原理に基づく家庭生活、女ばかりの共同仕事場などを描いたチェルヌィシェフスキーの小説『なにをなすべきか』(1863)は、この時代の進歩的知識人たちの理想を表しており、大きな影響を若者に与えた。1860年代の初め、一部の帝国大学や医科大学が女子にも門戸を開放すると入学し、最初の女性医師となったスースロバのような女性もおり、その後大学が門戸を閉ざすと、向学心に燃える娘たちはスイスに留学した。1870年代初めにはその数は100人を超えた。父親から自由になる手段として名目結婚をした者も多かった。母親は娘たちの支持者であった。世界的数学者となったコワレフスカヤ、1881年の皇帝アレクサンドル2世暗殺を指揮して死刑になったペロフスカヤSof'ya L'vovna Perovskaya(1853―1881)をはじめとする多数のナロードニキ女性革命家たちは、こうした気運のなかで育った女性たちであった。

 19世紀後半には資本主義の発達に伴って工場労働者が増大した。1900年の統計では女性労働者数400万人、全労働人口の28%を占めた。大都市では40%に上っている。低賃金で労働条件は劣悪であった。農村でも重労働と忍従の生活が続いた。19世紀末になっても就学率は男子の4分の1で、識字率は男子29%に対して、女子は13%にすぎなかった。

[和田あき子]

ロシア革命期とスターリン時代

1905年に始まるロシア第一革命期には全国女性同権同盟などの組織が結成されて男女平等を要求する運動を展開する。1917年の二月革命が首都ペトログラード(サンクト・ペテルブルグ)の女性労働者たちのストライキと「パンよこせ」デモから始まったことは周知だが、二月革命後、女性も参政権を得た。

 1917年10月(新暦11月)社会主義革命(十月革命)が成功すると、新政権はただちに完全な男女平等を宣言し、男女同一賃金などのほか、離婚や妊娠中絶の自由、母性保護などの諸方策をとった。ソビエト連邦が成立した1920年代には女性解放が著しく推し進められた。家族消滅論が時代の思想になっており、家事労働からの解放や真に自由な結婚の形態などについて真剣な討論があり、家事・育児の社会化の主張や性的関係は国家や法に規制されるべきものではないという発想にたつ事実婚の提唱がコロンタイらによって試みられた。しかし、こうした主張には農村からは大きな抵抗があった。

 1930年代以降、スターリン体制確立のなかで「家族は社会主義社会の細胞である」として家族強化論が打ち出され、妊娠中絶の禁止(1936)、離婚の制限(1944年の家族法では、新聞での離婚広告を義務化する離婚広告制と、多額の罰金制が制定された)、多子母への国家奨励金などの政策がとられた。社会主義ソ連では女性解放は達成され、女性問題は存在しないというのが公式見解となった。大粛清と第二次世界大戦のこの時代は女性たちにとってつらい時代であったが、過酷な労働に耐え、家族と国家を守るために力を発揮した。

[和田あき子]

スターリンの死以降

1953年のスターリンの死によって始まった自由化のなかで妊娠中絶が合法化され、離婚条件も緩和された。1968年の家族法では協議離婚、婚外子認知制度が認められた。以後ソ連はアメリカに次ぐ離婚大国となったが、女性の再婚率は高くない。戦争による男性人口の減少によって、第二次世界大戦後の労働力として女性の社会進出が進んだこともその一因であった。戦後40%台後半であった労働者・職員の女性比率は徐々に上がり、1970年代~1980年代にはつねに51%を維持した。病人などを除く成人女性はすべて就業し、専業主婦は存在しなかった。最高会議代議員の32%は女性であり、医師や教師は80%を占めた。教育の機会均等、男女同一賃金、母性保護と保育は保障されており、相変わらずソ連は世界でもっとも女性が解放された国だとされた。1963年テレシコワは女性では世界で初めて宇宙飛行をし、国際舞台でのスポーツ選手や芸術家の活躍は目だっていた。

 しかし1977年に国連が発表した世界の女性地位調査では、ソ連は11位であった。女性の職場は低賃金の職種が多いし、昇進が遅いこと、男性の家事分担が少なく、勤め・家事・育児の三役をこなす余裕のない生活、行列、不満の多い託児所、劣悪な中絶手術、非近代的な台所など女性の不満は社会の底流に蓄積されていた。政治や労働組合活動においても決定権をもつポストはほとんど男性が握っていた。1970年代~1980年代にはパート労働の奨励や育児休暇延長などによって女性の労働条件が向上したが、これは少子化対策のためであった。

[和田あき子]

ペレストロイカ期とソ連崩壊後

1986年のチェルノブイリ原子力発電所事故以後女性たちは活発に発言し始め、グラスノスチ(情報公開)の原動力となった。1989年に行われた選挙で女性議員が全体の13%に後退したときには「国の政治は女性の参加なしに形成されていることの確証だ」と断言する者もいた。また「家庭復帰こそ女性の解放である」という議論への支持も高く、始まった美人コンテストも性差別ではなく、女性の解放だと受け取られた。

 このころから欧米のラディカル・フェミニズムの影響が強くなり、ソ連科学アカデミー(現ロシア科学アカデミー)にジェンダー部会が新設され、1991年提言「女性の地位、家族、母性と子供の保護改善国家プログラム」をまとめた。官製でない、自主的な女性グループも多数誕生し、1991年から自力で女性フォーラムを開催する。

 しかしソ連崩壊によって事情は一変した。経済困難のなかで家庭復帰論は影を潜め、女性の失業が深刻化した。1995年末の国政選挙では女性議員は上院5.6%、下院13%にとどまった。性の商品化も進んだ。そうした女性の地位の低下を表現する「貧困の女性化」ということばが生まれた。それでも一般的には女性たちは特別自分たちが差別されているとは感じず、働いているのは自分の生きがいのためである、家事は負担ではない、とロシア女性の伝統的生き方を続けている。ただし広がる商業活動のなかで、ファッション、化粧品など世界のブランド品も並ぶ都市では、若い女性の生活感覚は変わってきている。社会主義崩壊後とられているのは国家からの家族の自立化政策であるが、社会進出と伝統的な家族のあり方を両立させてきたロシア女性たちが、今後どのような生き方を選択していくのか。それはポスト社会主義ロシアの行方を決めることにもなろう。

[和田あき子]

世界女性会議

国際婦人年の1975年に開催された第1回世界女性会議から、ニューヨークでの「女性2000年会議」までの5回にわたる世界女性会議は、1946年6月に発足した「国連女性の地位委員会」の設置に淵源(えんげん)をもつ。この委員会設置の背景には、女性への差別を戦争の一因ととらえ、“平和”の実現のためには女性の地位を向上させなければならないとする認識があった。国連憲章前文には男女“平等”がうたわれ、性別による差別の禁止が国連の目的となり、その活動は女性の地位委員会を中心に行われることになった。

 女性の地位委員会は、1952年「女性の参政権に関する条約」、1957年「既婚女性の国籍に関する条約」「婚姻の同意、婚姻の最低年齢および婚姻の登録に関する条約」を起草し、1967年には包括的な性差別撤廃の基準として「女性差別撤廃宣言」を策定した。女性差別撤廃宣言はまた、国の“開発”に女性の全面参加を求めた。国連総会は宣言を採択し、各国で差別撤廃の状況調査や女性問題のキャンペーンを展開したが、さらに法的拘束力をもった条約をつくるべく1972年には国際婦人年を設定することを決定したのである。

[石崎昇子]

第1回世界女性会議

国連は、1975年を「国際婦人年」とし、「平等・開発・平和」を実現するために、男は仕事、女は家庭という性別役割分業観念を変えようと、国際婦人年世界会議(第1回世界女性会議)をメキシコ・シティにおいて開催した。このとき、政府間会議に圧力をかけようと、当時ウーマン・リブ運動の燃え上がっていたアメリカのベティ・フリーダンを先鋒(せんぽう)とする女性たちが、同じメキシコ・シティで会合を開き、先進国での性別役割分業の改変、男女の平等を強調した。だがこれに対し、中南米の女性たちが、北の先進国の“開発”が南の貧困を拡大しているとして南北問題を訴えた。世界の草の根の女性運動家たちが顔を合わせ討論する場「NGO(非政府組織)フォーラム」の誕生であった。日本からのNGO参加者は約200人であったといわれる。政府間会議では、「男も女も、仕事と家庭」という男女平等実現の国際的共同行動として「世界行動計画」が決められ、さらに、翌1976年から1985年までを「国連婦人の10年」として、世界共通の目標に向かって各国内の諸制度、法律の整備が始められた。

 1979年12月、第34回国連総会は「女子に対するあらゆる形態の差別に関する条約」(通称「女性差別撤廃条約」)を採択した。この条約は、女性差別を定義するとともに、政治的・公的・国際的活動への参加、国籍、教育、雇用、保健、経済的・社会的活動、農村女性、法律、婚姻・家族関係などにおける、差別の撤廃について具体的に規定し、法制度だけでなく慣行や慣習も含めて、ジェンダー(社会的、文化的に形成された性差)による差別をなくし、男女ともに個性に応じて生きられる真の男女平等を実現しようとするものであった。

[石崎昇子]

第2回世界女性会議

「国連婦人の10年」中間年の1980年、デンマークのコペンハーゲンで「国連婦人の10年」中間年世界会議(第2回世界女性会議)が開かれ、女性差別撤廃条約への各国の署名が行われ、後半期の行動プログラムが策定された。日本では、1975年11月に全国組織をもつ41の女性団体によって国際婦人年日本大会が開かれ、大会を基礎につくられた「国際婦人年の決議を実現するための連絡会」(国際婦人年連絡会)の活動と努力もあり、当時デンマーク大使であった高橋展子(のぶこ)(1916―1990)による条約署名が行われた。署名後の1984年5月に父系血統国籍主義の国籍法改正、同年12月に中・高等学校家庭科男女必修を実現し、1985年5月、国内最大の法整備として男女雇用機会均等法を成立させて、女性差別撤廃条約批准の条件を整え、同年6月に日本は72番目の条約締結国となった。

[石崎昇子]

第3回世界女性会議

1985年7月26日から「国連婦人の10年」ナイロビ世界会議(第3回世界女性会議)がケニアのナイロビで開催された。会議は女性の地位向上のための「2000年にむけての将来戦略」を採択、各国での履行のための報告を義務づけた。この会議には、アフリカの女性たちがNGOフォーラムで活動し、第三世界の女性たちの貧困を解決するために開発や援助のあり方を変える「開発と女性」が問題とされた。日本からのNGO参加者は約1000人であった。

 国連関連の世界会議としては、1992年リオ・デ・ジャネイロ環境開発会議、1993年女性への性暴力問題を議論したウィーン人権会議、1994年リプロダクティブ・ヘルス/ライツ(性と生殖に関する健康と権利)が確認合意されたカイロ国際人口開発会議、1995年コペンハーゲン社会開発サミットなどが開かれたが、この間にNGOの女性団体などが変革の推進力として台頭し、その役割が重要視されるようになった。

 日本では、第1回世界女性会議の後の1975年(昭和50)9月、総理府(現内閣府)に「国際婦人年企画推進本部」と有識者による「婦人問題企画推進会議」(のち「婦人問題企画推進有識者会議」)が創設され、総理府婦人問題担当室が業務を担当して1977年に「国内行動計画」が策定された。また若干の拡充を経て、1994年(平成6)7月「婦人問題企画推進本部」は「男女共同参画推進本部」に、「有識者会議」は「男女共同参画審議会」に変更され、その業務も男女共同参画社会の推進が目的とされるようになった。

[石崎昇子]

第4回世界女性会議

ナイロビ会議から10年、1995年に北京(ペキン)で開かれた「国連婦人の20年」の総括会議(第4回世界女性会議)では、ナイロビでの「2000年にむけての将来戦略」を実現するための行動綱領が策定され、その綱領を実現するために女性が力をつけること(エンパワーメント)が強調された。綱領の戦略目標は貧困・教育・健康・女性への暴力・紛争・経済構造政策・権力・女性の進出・人権・メディア・環境・少女の12の分野に置かれた。

 政府間会議で紛糾したのは、生殖に関する女性の主体的選択確立を目ざすリプロダクティブ・ヘルス/ライツに関するもので、人為的避妊や人工妊娠中絶を認めないバチカンやイスラムの国々の反対はあったが、1994年カイロ国際人口開発会議の合意は確認された。日本政府に対して裁判を起こしている元「慰安婦」の訴えが女性への性暴力の極みとして大きな反響を巻き起こした。また、開発途上国の女性が貧困から脱却するためには、構造調整政策の見直し・対外債務の抹消についてジェンダーの視点からの分析が必要ということも議論された。さらに、女性たちが社会的な実力をつけ、男性と対等なパートナーとして責任ある行動をとること、政策決定の場に積極的、実質的に参画することが確認された。政府間会議には世界189か国1万7000人、NGOフォーラムには約3万人を集めた会議は、国連史上最大規模の世界会議となった。日本からのNGOフォーラムへの参加者は約6000人であったといわれる。

 日本国内では1999年(平成11)6月、男女共同参画社会基本法が制定された。

[石崎昇子]

女性2000年会議

北京(ペキン)行動綱領の実施における成果と障害を報告し、北京会議以降、新たに出現して女性に影響を与えている問題点を分析し対策を検討するために、「女性2000年会議」(国連特別会議)が、2000年6月にニューヨークの国連本部において開かれ、「北京宣言および行動計画実施のためのさらなる行動とイニシアティブ」(いわゆる「成果文書」)を採択した。新たな問題として検討されたおもなものは、グローバリゼーションと情報コミュニケーション技術(ICT)の女性に対する影響であった。経済と労働のグローバリゼーションは「貧困の女性化」を招いていること、ICTを活用した女性の人身売買などが問題となった。一方、人権概念や平等基準のグローバリゼーションにより、各国が行った性差別的法律の改正など、男女平等、人権概念の浸透もみられた。

 日本女性に関する問題では、女性労働への影響として対外的、とくにアジアへの視野をもつこと、日本女性の問題の多くはアジアなど海外の女性たちと共有できること、グローバルな視点で地域を変革し、世界を変えていくために、その能力を公的意志決定の場でさらに活用すべきことが課題とされた。

 NGOフォーラムは開かれなかったが、世界から4000人を超える人が集まって、ロビー活動や武力紛争の女性への影響を討論するNGOワーキングセッションを行い、その活動は、2000年(平成12)12月に日本で行われた、第二次世界大戦中の日本軍性奴隷制を裁いた「女性国際戦犯法廷」の成功にも影響を与えた。

[石崎昇子]

『井上清著『日本女性史』(1949・三一書房)』『水田珠枝著『女性解放思想の歩み』(岩波新書)』『高群逸枝著『母系制の研究』上下(講談社文庫)』『女性史総合研究会編『日本女性生活史』全5巻(1992・東京大学出版会)』『総合女性史研究会編『日本女性の歴史』全3巻(1993・角川書店)』『河野信子編集代表『女と男の時空 日本女性史再考』全6巻・別巻1(1995~1998・藤原書店)』『総合女性史研究会編『論集日本女性史』全10巻(1996・吉川弘文館)』『石月静恵・藪田貫編『女性史を学ぶ人のために』(1999・世界思想社)』『阿部恒久・佐藤能丸著『通史と史料 日本近現代女性史』(2000・芙蓉書房出版)』『鹿野政直著『婦人・女性・おんな――女性史の問い』(岩波新書)』『岸辺成雄編『世界の女性史16・17 中国Ⅰ・Ⅱ』(1976、1977・評論社)』『小野和子著『中国女性史――太平天国から現代まで』(1978・平凡社)』『ジュリア・クリスティバ著、丸山静他訳『中国の女たち』(1981・せりか書房)』『夏暁虹著、藤井省三監修、清水賢一郎・星野幸代訳『纏足をほどいた女たち』(1998・朝日選書)』『中国女性史研究会編『論集中国女性史』(1999・吉川弘文館)』『李小江著、秋山洋子訳『女に向かって――中国女性学をひらく』(2000・インパクト出版会)』『白水紀子著『中国女性の20世紀――近現代家父長制研究』(2001・明石書店)』『李丙洙「朝鮮女性の50年」(『思想』3、4所収・1969・岩波書店)』『丁堯燮著、柳沢七郎訳『韓国女性運動史』(1975・高麗書林)』『ペキョンスク著『韓国女性私法史』(1988・仁荷大学校出版部)』『ユンミリャン著『北韓の女性政策』(1991・ハヌル)』『堀山明子「韓国家族法改正運動小史」(『国際関係学研究18』所収・1992・津田塾大学紀要委員会)』『井上和枝「朝鮮家族史序説」(『ホルモン文化4』所収・1993・新幹社)』『吉見義明・林博史編『共同研究 日本軍慰安婦』(1995・大月書店)』『林玲子・柳田節子監修、アジア女性史国際シンポジウム実行委員会編『アジア女性史――比較史の試み』(1997・明石書店)』『韓国女性研究所女性史研究室著『わが女性の歴史』(1999・青年社)』『金恵善「近年の韓国における離婚の動向」(『ジェンダー研究19』所収・1999・お茶の水女子大学ジェンダー研究センター)』『K・M・カパディア著、山折哲雄訳『インドの婚姻と家族』(1969・未来社)』『中根千枝著『家族の構造――社会人類学的分析』(1970・東京大学出版会)』『鳥居千代香著『インド女性学入門』(1996・新水社)』『マラ・セン著、鳥居千代香訳『インド盗賊の女王プーラン・デヴィの真実』(1998・未来社)』『田辺繁子訳『マヌ法典』(岩波文庫)』『タゴール暎子著『嫁してインドに生きる』(ちくま文庫)』『日本サウディアラビア協会・日本クウェート協会編・刊『アラビア研究論叢――民族と文化』(1976)』『板垣雄三編『世界の女性史14 中東・アフリカⅡ』(1977・評論社)』『片倉もとこ著『アラビア・ノート――アラブの原像を求めて』(1979・日本放送出版協会)』『片倉もとこ「アラビアの女」(綾部恒雄編『女の文化人類学』所収・1982・弘文堂)』『ナイラ・ミナイ著、久富木原睦美他訳『イスラームの女たち――ヴェールのかげの真実』(1992・BOC出版部)』『中西久枝著『イスラムとヴェール――現代イランに生きる女たち』(1996・晃洋書房)』『ライラ・アハメド著、林正雄他訳『イスラームにおける女性とジェンダー』(2000・法政大学出版局)』『Charis WaddyWomen in Muslim History(1980, Longman, London and New York)』『青山吉信編『世界の女性史6・7 イギリスⅠ・Ⅱ』(1976・評論社)』『バンクス夫妻著、河村貞枝訳『ヴィクトリア時代の女性たち』(1980・創文社)』『三好洋子「イギリス中世における結婚・相続・労働」(女性史総合研究会編『日本女性史2 中世』所収・1982・東京大学出版会)』『北条文緒、クレア・ヒューズ、川本静子編『遥かなる道のり イギリスの女たち1830―1910』(1989・国書刊行会)』『今井けい著『イギリス女性運動史――フェミニズムと女性労働運動の結合』(1992・日本経済評論社)』『ジル・リディントン著、白石瑞子・清水洋子訳『魔女とミサイル――イギリス女性平和運動史』(1996・新評論)』『河村貞枝著『イギリス近代フェミニズム運動の歴史像』(2001・明石書店)』『E・モラン他著、古田幸男訳『大いなる女性 フランスの婦人解放運動』(1977・法政大学出版局)』『アラン・ドゥコー著、川田靖子他訳『フランス女性の歴史』全4冊(1980・大修館書店)』『J・P・アロン編、片岡幸彦監訳『路地裏の女性史――19世紀フランス女性の栄光と悲惨』(1984・新評論)』『ジャン・ラボー著、加藤康子訳『フェミニズムの歴史』(1987・新評論)』『M・ペロー著、福井憲彦・金子春美訳『フランス現代史のなかの女たち』(1989・日本エディタースクール出版部)』『林瑞枝編著『いま女の権利は――女権先進国フランスとの比較から』(1989・学陽書房)』『アラン・コルバン著、杉村和子監訳『娼婦』(1991・藤原書店)』『M・ペロー編、杉村和子・志賀亮一監訳『女性史は可能か』(1992・藤原書店)』『M・デュリュ・ベラ著、中野知律訳『娘の学校――性差の社会的再生産』(1993・藤原書店)』『イヴォンヌ・クニビレール、カトリーヌ・フーケ著、中嶋公子・宮本由美他訳『母親の社会史――中世から現代まで』(1994・筑摩書房)』『G・デュビィ、M・ペロー監修、杉村和子・志賀亮一監訳『女の歴史』全5巻10分冊(1994~2001・藤原書店)』『G・デュビィ編、杉村和子・志賀亮一訳『女のイマージュ――図像が語る女の歴史』(『女の歴史』別冊Ⅰ・1994・藤原書店)』『オリヴィエ・ブラン著、辻村みよ子訳『女の人権宣言――フランス革命とオランプ・ドゥ・グージュの生涯』(1995・岩波書店)』『G・デュビィ編、M・ペロー編著、小倉和子訳『「女の歴史」を批判する』(『女の歴史』別冊Ⅱ・1996・藤原書店)』『棚沢直子編、塩川浩子他訳『女たちのフランス思想』(1998・勁草書房)』『シモーヌ・ド・ボーヴォワール著、「『第二の性』を原文で読み直す会」訳『第二の性』(新潮文庫)』『Maïté Albistur et Daniel ArmogatheHistoire du féminisme français du moyen âge à nos jours (1977, Édition des femmes)』『本間長世編『世界の女性史9・10 アメリカⅠ・Ⅱ』(1976、1977・評論社)』『バーバラ・シンクレア著、矢木公子・上野千鶴子訳『アメリカ女性学入門』(1982・勁草書房)』『有賀夏紀「アメリカ女性の十年」(『ジュリスト増刊 総合特集39 女性の現在と未来』所収・1985・有斐閣)』『有賀夏紀著『アメリカ・フェミニズムの社会史』(1988・勁草書房)』『ポーラ・ギディングズ著、河地和子訳『アメリカ黒人女性解放史』(1989・時事通信社)』『ベス・ミルステイン・カバ、ジーン・ボーディン著、宮城正枝・石田美栄訳『われらアメリカの女たち――ドキュメント・アメリカ女性史』(1992・花伝社)』『渡辺和子編『アメリカ研究とジェンダー』(1997・世界思想社)』『進藤久美子著『ジェンダー・ポリティックス――変革期アメリカの政治と女性』(1997・新評論)』『サラ・M・エヴァンズ著、小檜山ルイ・竹俣初美・矢口祐人訳『アメリカの女性の歴史――自由のために生まれて』(1997・明石書店)』『ジャクリーン・ジョーンズ著、風呂本惇子・高見恭子・寺山佳代子訳『愛と哀――アメリカ黒人女性労働史』(1997・学芸書林)』『リンダ・K・カーバー、ジェーン・シェロン・ドゥハート編著、有賀夏紀他訳『ウィメンズ・アメリカ 資料編』(2000・ドメス出版)』『荻野美穂著『中絶論争とアメリカ社会 身体をめぐる戦争』(2001・岩波書店)』『ホーン川嶋瑶子著『女たちが変えるアメリカ』(岩波新書)』『Nancy WolochWomen and the American Experience (1984, Alfred A. Knopf Inc.)』『米川哲夫編『世界の女性史11・12 ロシアⅠ・Ⅱ』(1976・評論社)』『マモーノヴァ他著、片岡みい子訳『女性とロシア』(1982・亜紀書房)』『森下敏男著『社会主義と婚姻形態――ソビエト事実婚主義の研究』(1988・有斐閣)』『井上洋子・古賀邦子・富永桂子・星乃治彦・松田昌子著『ジェンダーの西洋史』(1998・法律文化社)』『小野理子著『女帝のロシア』(岩波新書)』『辻村みよ子著『女性と人権――歴史と理論から学ぶ』(1997・日本評論社)』『国際女性の地位協会編『女性関連法』(1998・有斐閣)』『総合女性史研究会編『史料にみる日本女性のあゆみ』(2000・吉川弘文館)』『橋本ヒロ子「グローバル化とジェンダー」(『女も男も』86号所収・2001・労働教育センター)』


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改訂新版 世界大百科事典 「女性史」の意味・わかりやすい解説

女性史 (じょせいし)

女性を主体とした歴史。女性の歴史をあとづけようとする努力は,女性が抑圧された状況から解放される可能性を,歴史的に検証しようという要求から生まれる。したがってそれは,女性解放思想の歴史への投影であり,女性解放思想に多様な立場があるように,女性史についても多様な意見が存在する。女性の状態を歴史的時間のなかで検証しようとする発想は,19世紀の産物であった。フランスの空想的社会主義者フーリエは《四運動の理論》(1808)で,社会の進歩と女性の解放は比例するといい,イギリスの功利主義者ジョン・スチュアート・ミルは《女性の隷従》(1869)で,奴隷制から自由な社会へという人類史の延長線上に女性解放をおこうとした。《恋愛と結婚》(1903)を書いたスウェーデンのE.ケイは,歴史は恋愛と結婚の自由に向かって進んできたとする立場から女性解放の方向性を示した。マルクスとともに史的唯物論を樹立したエンゲルスは,ルイス・モーガンの《古代社会》(1877)の人類学的成果をとりいれ,《家族,私有財産,国家の起源》(1884)において,性差別の起源は人類初期の段階で母権制が私有財産に基礎をおく父権制に取って代わられたことにあるとし,私有財産が廃棄される未来社会で女性は解放されると説いた。ドイツのマルクス主義者ベーベルの《婦人論》(初版1879年,第50版1910年)も,ほぼこれを踏襲した。日本の高群逸枝の女性史研究も,エンゲルスの説を土台とした。そして女性史研究は,主としてマルクス主義の線にそって進められてきた。

 20世紀後半には,マルクス主義的進歩史観を批判する構造主義,実証を重視するアナール学派,個人の差異性に注目するポスト・モダンというフランスの諸思想が,女性史に持ち込まれた。日本でも1970年代には,従来の女性史研究は,女性解放と社会主義の実現とを短絡させ,傑出した女性の羅列や女性解放運動の歴史にしてしまったという批判がだされ,その結果普通の女性の生活史に目が向けられ,〈聞書き〉による個人史の発掘も行われた。

 1975年の国際婦人年に性別役割分業批判が提起されたのを契機に,性別役割分業の実体とそれを支えてきた〈男らしさ,女らしさ〉の意識の形成と分析が,女性史の課題とされた。また,身体的性差〈セックス〉と区別された社会的に構成された性差〈ジェンダー〉という概念が導入され,ジェンダー視点からの女性史研究が求められるようになった。さらに,女性史研究のグローバル化がすすむなかで,労働と家族,公と私,平等と差異という女性解放の二項対立をどう整理するのか,また女性史は,男性史から区別された独自の歴史研究なのか,あるいは総合的人類史の一環をめざすものなのかが,検討課題となっている。
女性解放
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百科事典マイペディア 「女性史」の意味・わかりやすい解説

女性史【じょせいし】

女性を主題とする歴史的考察の総称で,英語ではwomen's history。歴史においては少数の統治者について語られることが多く,一般の女性たちが何をしてきたかということについては,これまであまり語られてこなかった。しかし19世紀以降,社会における性役割,それもとくに女性役割への関心が一般に広がったことと関連して歴史学においても女性に目が向けられるようになり,バッハオーフェンの《母権論》(1861年)などが書かれた。日本では民衆史の一つの展開として,1930年代に柳田国男らが女性史学を提唱している。高群逸枝の《母系制の研究》(1938年)はその先駆的研究であるが,日本古代の母系制という仮説は論証の上で疑問を残すものであり,しかもそれが女性解放を性急に求めたあまりの結果であることが明らかになって,その後フェミニズムと歴史叙述の方法についての再考が求められている。やがて1960年代以降のウーマン・リブのなかで,女性が主体となって自分たちの歴史を取り戻そうという政治的な動きが高まり,女性史は女性学のなかでとくに重視されるようになった。それまでは女性解放に貢献した人々を伝記的に語るといったスタイルが中心だったが,それでは大多数の女性の存在を見落としてしまうという反省から,アナール学派の方法を取り入れて,長期にわたる女性の生活史に焦点を当てるなど,新しい歴史学の潮流に見合った新しい語り方について,さまざまな模索が続けられている。
→関連項目デュビー

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「女性史」の意味・わかりやすい解説

女性史
じょせいし
Women's history

かつての歴史学で顧みられずにいた女性の歴史的役割や,その主体的な意味や価値を再考する歴史学。従来,歴史書は権力者を中心とした記述が主流となることから,おのずと男性がその登場人物として名を連ねがちとなる。また,一般に政治的意思決定から学術や芸術的成果にいたるまで,相対的に高い社会的資源に近づきうるのはほとんどが男性であったことから,歴史はその大半が男性の果たした歴史的役割をたどったものであり,いわば歴史とは「男性史」と同義であったといえる。女性は希有な女性君主や著名人の妻,さらにはいわゆる傾国の美女のようなかたちで,ときに男性権力者の動向に影響を与えるような人物など特殊事例だけが取り上げられ,男性とともに人間の生活史の半面を担ってきたという事実は捨象されてきた。女性史は 20世紀初頭から提起されたが,1960年代の第2波フェミニズムの隆盛以降その重要性が指摘されるようになり,多様な階層,文化集団,コミュニティ,家族,家庭生活,就労,さらには政治参加などについて,旧来の男性中心史観では可視化しえなかった領域の検証に貢献している。

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