日本大百科全書(ニッポニカ) 「世紀末思潮」の意味・わかりやすい解説
世紀末思潮
せいきまつしちょう
フランスに始まり1890年代のヨーロッパ各国に広まった人間精神の退廃的傾向、すなわち懐疑主義、唯物主義、厭世(えんせい)主義、刹那(せつな)的享楽主義などをいう。世紀末とは、100年周期で巡ってくる地球上の時間のくぎりにすぎないが、思想史的、芸術史的に重要視されるのは19世紀末のことである。フランス語のla fin du siècleは、単に世紀の終わりを意味するが、いまでは19世紀末をさす固有名詞として使われることが多い。なぜなら、19世紀末のパリには近代文明の精華があって、その影響が現在にまで及んでいるからである。1889年竣工(しゅんこう)のエッフェル塔を例にとれば、万国博覧会の開催とあわせて建造され、当時は突飛な構想だとしてごうごうたる非難を浴びせられたが、100年もたたぬうちに、パリに欠かせぬ建造物となった。パリのメトロ(地下鉄)が着工されたのも、曲線を多用した「アール・ヌーボー」(「近代の芸術」の意)の装飾が一世を風靡(ふうび)したのもそのころである。科学上の新しい発見や発明が広く実用化されたのは、ブルジョア社会の成熟を意味したものの、ビリエ・ド・リラダンやユイスマンスは、唯物思想の源たる物質文明の開花と俗物の横行に猛然と反対した。前者は『アクセル』(1890)で金銭万能の世界を呪詛(じゅそ)し、後者は『さかしま』(1884)のなかで中世の美的生活の復活を夢みた。彼らと同様に反時代的だった一群の詩人もいた。ボードレールに始まり、ランボー、ベルレーヌを経てマラルメに至る広義の象徴主義者たちで、彼らは透徹した精神をもちながらも、その先覚性のゆえに世に受け入れられず、不遇な生涯を過ごした。
パリは美術の中心としてヨーロッパの多くの芸術家を集めたが、モローの描く退廃的な一連の『サロメ』(1876)は彼らに衝撃を与えた。ヨハネの首を所望した王妃へロディアとその娘サロメとが混同されてしまったのは、若い女の官能的な裸身の踊りと、血の滴る聖者の生首との対照をねらったためであろうが、ルドン、ビアズリー、シュトゥック、クリムト、ムンクたちの描く女は、サロメであろうがなかろうが、「宿命の女」とよばれた、人を破滅させずにはおかない魅力の持ち主なのであり、性愛と死との類似性が強調された。一方、ハイネは長編叙事詩『アッタ・トロル』(1843)で、マラルメは叙情詩『エロディヤード』(1868)で、フロベールは短編『エロディアス』(1877)で、さらにまたラフォルグは短編『サロメ』(1882)で、ワイルドは戯曲『サロメ』(1893)で、それぞれ「宿命の女」を描き、美の裏に潜む悪魔的なものを剔抉(てっけつ)した。精神分析やマルクス主義が20世紀思想に与えた影響は計り知れないが、フロイトの『夢判断』(1900)やマルクスの『資本論』第一巻(1867)は世紀末の所産であり、ベルクソンの「生の哲学」、ニーチェの「神は死んだ」も世紀末の言説であった。
なお、内的独白という小説技法を取り入れたフランスの作家エドゥワール・デュジャルダンÉdouard Dujardin(1861―1949)の『月桂樹は切られた』は1887年に発表された。ジョイスの『ユリシーズ』(1922)をはじめ、この技法を用いた作家や作品はその後、数限りなく多い。
[白井浩司]