ベルレーヌ(読み)べるれーぬ(英語表記)Paul-Marie Verlaine

日本大百科全書(ニッポニカ) 「ベルレーヌ」の意味・わかりやすい解説

ベルレーヌ
べるれーぬ
Paul-Marie Verlaine
(1844―1896)

フランスの詩人。3月10日、父(工兵大尉)の任地フランス北東部メス市に誕生。裕福な旧家出身の両親から一粒種として溺愛(できあい)されて育つ。7歳のとき、父の退役を機にパリに移転。エレーヌ街の寄宿学校で初等教育を受け、9歳からランドリー学院の寄宿生となり、ここからリセ・ボナパルト(現在コンドルセ)に通学。教会にまじめに通う優等生は、思春期に及んで教師の顰蹙(ひんしゅく)を買う劣等生に変貌(へんぼう)する。一方、読書と詩作に没頭し、14歳にして自作の詩稿「死」をビクトル・ユゴーに送る。17歳の詩「熱望」にはボードレールの影響がみられる。1862年8月(18歳)大学入学資格試験に合格。法律学校に籍を置くがほとんど出席せず、詩と酒の日々を送る。父の勧めで2か月ほど保険会社で働いたのち、市役所の役人となる。66年『現代高踏詩集』に名を連ねる。同年10月、第一詩集『土星びとの歌』を自費出版し、高踏派詩人らの称賛を浴びる。音楽的韻律の独自な世界は、すでに時代を超えていた。上田敏訳の「よくみる夢」や「秋の歌」は日本でも愛唱されている。秘密出版の第二詩集『女友だち』(1867)の発禁事件を経て、第三詩集『なまめかしい宴(うたげ)』(1869)を発表。ロココ趣味の官能美をもって近代の倦怠(けんたい)を歌う。

 やがて、友人の作曲家シャルル・ド・シブリCharles de Sivryの義妹マチルド・モーテMathilde Mauté de Fleurville(1853―1914)と婚約。酒をやめ、プロイセン・フランス戦争下のパリでブルジョア的平穏な結婚生活に入る(1870)。マチルドに捧(ささ)げた詩は、『よい歌』(1872)にまとめられる。1871年秋、シャルルビルの少年ランボーから送られた詩と手紙に感動しパリに招く。その反社会的な詩法と行動に魅惑され、1子をもうけた家庭を破壊し、詩壇からも疎まれて、ランボーとともにベルギー逃亡、ロンドンに渡る。この激動の生活のなかで音楽的韻律の詩法はいっそうの醸成をみて『言葉のない恋歌』(1874)が生まれる。

 1873年7月、ブリュッセルで激しい口論と泥酔のすえ、ランボーに向かって拳銃(けんじゅう)を二発発射。左手首に傷を負わせたあげく、プチ・カルムの刑務所に収容され、禁固2年の極刑判決によりモンス監獄に移される。獄中、妻に離婚承認判決が下ったことを知り(1874)、衝撃を受ける。回心を体験。75年1月出所後、ランボーに信仰を説いて失敗するが、イギリスで教職につき、穏やかなカトリック的生活が続く。獄中とその後に生まれた信仰にかかわる詩は、『叡知(えいち)』(1881)、『愛の詩集』(1888)に、その他は主として『昔とちかごろ』(1885)、『雙心詩集』(1889)、『悪罵(あくば)詩集』に収録。77年、フランスに戻りレテルの中学に勤務。美少年の生徒レチノアLétinoisへの愛とその夭折(ようせつ)の悲嘆からふたたび生活が乱れる。母に危害を加え1か月間投獄される。だが、一方では『呪(のろ)われた詩人たち』(1884)などの優れた詩人論を書き、無名詩人ランボーの詩業の紹介、推輓(すいばん)に多大の貢献を果たした。

 晩年は、巨匠の名声を得、「詩王」に選ばれる一方、酒と梅毒性関節炎のため極度の貧困に陥り、自殺を企てたりし、文部大臣から救済金を贈られるなど、悲惨を極めた。1896年1月8日、気管支性肋膜(ろくまく)炎により、同棲(どうせい)中の娼婦(しょうふ)ウージェニーと画家コルチニーにみとられ、パリで波瀾(はらん)の生涯を閉じた。52歳であった。棺衣の綱は、コペー、バレス、マラルメらが持った。

[中安ちか子]

『堀口大学著『ヴェルレーヌ研究』(1947・昭森社)』『鈴木信太郎他訳『マラルメ、ヴェルレーヌ、ランボオ』(『筑摩世界文学大系48』1974・筑摩書房)』『ジャン・ピエール・リシャール著、有田忠郎訳『詩と深さ』(1969・思潮社)』

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ベルレーヌ」の意味・わかりやすい解説

ベルレーヌ
Verlaine, Paul Marie

[生]1844.3.30. メッス
[没]1896.1.8. パリ
フランスの詩人。パリ大学法学部を中退,市役所に勤めながら詩作,高踏派の詩集『現代高踏詩集』 (1866) に寄稿,『サチュルニアン詩集』 Poèmes saturniens (66) ,『艶なるうたげ』 Fêtes galantes (69) ,『よき歌』 La Bonne Chanson (70) によって名声を確立。 1872年家族を捨ててランボーとともにベルギー,ロンドンを放浪。翌年,感情のもつれからランボーを傷つけ入獄,カトリックに改宗,『言葉なき恋歌』 Romances sans paroles (74) を出版したあと,75年に釈放。再び飲酒と男色と放浪の生活に戻り,デカダン派の首領と称せられながら,晩年は詩藻も枯れ,貧窮のうちに生涯を終った。ほかにカトリックへの回心を歌った詩集『叡智』 Sagesse (80) ,ランボー,マラルメなど近代詩の鬼才たちを紹介したエッセー『呪われた詩人たち』 Les Poètes maudits (84) などがある。

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