中地村(読み)なかじむら

日本歴史地名大系 「中地村」の解説

中地村
なかじむら

[現在地名]郡山市湖南町こなんまち中野なかの

安佐野あざの村の南、中地川中流域の山間に立地。会津からの道は南境のにわとり峠越で中通りに通じる。応永一一年(一四〇四)七月日の仙道諸家一揆傘連判(有造館本結城古文書写)に「中地 沙弥性久」とみえる。永享一一年(一四三九)頃のものと推定される安積三郷田地注文(相殿八幡文書)南郷のうちとして「中地 五丁半」とみえる。大永三年(一五二三)四月二三日の金上盛貞等連署証状(松藩捜古)に、「柳の内南は河かきりに中地へ相付候」とみえ、横沢よこさわとの境相論を蘆名氏家臣が裁決している。


中地村
ちゆうじむら

[現在地名]京北町大字中地

宇津うつ七ヵ村の一。大堰おおい川流域の山間集落で、北は明石あけし村、川の上流(東)栃本とちもと村、下流(西)粟生谷おうだん村。集落の裏山に宇津遺跡があり古くより開かれた地と思われる。古代は「和名抄」に記す有頭うつ郷に属し、のち宇都うつ(吉富本庄)に含まれる。

慶長七年(一六〇二)幕府領、寛文四年(一六六四)以降園部藩領となる。元禄一三年(一七〇〇)丹波国郷帳によると、村高五九石余。明和七年(一七七〇)には本年貢の免率四割二分というが定免でない。小物成として茶役米二斗、藪役銀一四匁、山役銀四貫二七五匁、網役銀五〇匁、松茸銀〇・七八匁、糠藁銀二七匁六〇分が課されている(大正一二年「京都府北桑田郡誌」)


中地村
なかじむら

[現在地名]会津若松市町北町まちきたまち中沢なかざわ

川東岸にあり、西の対岸高瀬たかせ村、南東平沢ひらさわ村。古くから洪水の影響を受けた地域と思われ、村名は広い川原にできた土地か、川の中洲からできた地名と思われる。水田が広がり、中地堰や吉田よしだ堰により灌漑される。文禄三年(一五九四)の蒲生領高目録では大沼郡に村名があり、高二二〇石余。高久組に属し、文化一五年(一八一八)の村日記では高四六〇石余。化政期の家数三六(新編会津風土記)。明治四年(一八七一)の家数三五(社一・寺一)・人数一七七(人員録)。同八年平沢村と合併して中沢村となる。


中地村
なかじむら

[現在地名]佐久市上塚原かみつかばら

浅間山南麓火山泥流地の最南西端に近く、北は市村新田いちむらしんでん、東は上塚原、南は下塚原、段丘を下って塩名田しおなだ宿(現北佐久郡浅科村塩名田)などの村に接する。

元和年中(一六一五―二四)小諸こもろ城主仙石秀久の旧家臣佐藤佐左衛門が上塚原村の荒地を開発、寛永六年(一六二九)検地を受けて佐左衛門新田と称した。一方、同じ頃今井太郎左衛門父子の開発した耕地と佐左衛門新田とを併せて中地村とした(水田水路志・北佐久郡志)。「旧版北佐久郡志」には寛永六年の検地高八〇石八斗五升八合、戸数六とある。


中地村
ちゆうじむら

[現在地名]姫路市中地中地南町ちゆうじみなみのちよう

飾西しきさい郡に所属。手柄てがら山の南西に位置し、東は飯田いいだ村など。天正三年(一五七五)の近村めぐり一歩記(智恵袋)に「中地村、家五十ばかり見ゆ、中元灯籠を掛けた辻堂あり、念仏が辻の名が残る」とある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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