中山平次郎(読み)ナカヤマ ヘイジロウ

20世紀日本人名事典 「中山平次郎」の解説

中山 平次郎
ナカヤマ ヘイジロウ

明治〜昭和期の病理学者,考古学者 九州帝大名誉教授



生年
明治4年6月3日(1871年)

没年
昭和31(1956)年4月29日

出生地
京都

出身地
静岡県

学歴〔年〕
東京帝大医科大学医学科〔明治33年〕卒

学位〔年〕
医学博士〔明治40年〕

主な受賞名〔年〕
西日本文化賞〔昭和25年〕

経歴
明治34年東京帝国大学助手となり、36年ドイツ、オーストリアへ留学、3年間病理学を修め、39年京都帝大福岡医科大学教授に就任。病理学を講じ、かたわら北九州を中心とする弥生式土器文化の研究に没頭。魚釣りの針から病原菌に侵され、医学を断念、昭和6年教授を辞任、名誉教授となった。この間、大正元年「福岡付近の史跡」を福岡日日新聞(西日本新聞の前身)に連載(30回)。考古学界では野の人であり、「考古学雑誌」に論文掲載は3年に実現、4年には同誌に鴻臚館平和台説を掲載するなど、九州考古学界が夜明け前のころから先見の明を発揮、「九州北部に於ける先史原史両時代中間期間の遺物に就いて(1)〜(4)」(考古学雑誌)など200余編の論文を残した。福岡県史蹟名勝天然記念物調査委員。著書に「古代乃博多」など。

出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報

改訂新版 世界大百科事典 「中山平次郎」の意味・わかりやすい解説

中山平次郎 (なかやまへいじろう)
生没年:1871-1956(明治4-昭和31)

考古学者。静岡県生れ。1900年,東京帝国大学医科大学を卒業,助手となる。02-06年に主としてドイツに留学し,06年京都帝国大学福岡医科大学(後の九州帝国大学医学部)の病理学の教授となる。考古学に関心もち,おもに《考古学雑誌》に寄稿する。銅剣銅矛をはじめ,〈漢倭奴国王金印など弥生時代の研究を重点とし,九州の古瓦,古陶磁にも論究がある。退官後も研究を続け,《博多の考古学的研究》は50年に西日本文化賞を受けた。彼は日本の弥生文化および九州考古学研究の開祖といわれる。
執筆者:

出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「中山平次郎」の意味・わかりやすい解説

中山平次郎
なかやまへいじろう

[生]明治4(1871).6. 京都
[没]1956.4.29. 福岡
病理学者,考古学研究家。東京帝国大学の医科を卒業し,九州大学医学部の前身である福岡医科大学の教授として病理学を担当,かたわら北九州の遺跡遺物の研究を通じて弥生文化の実態をきわめた。青銅器から遺跡の相対年代を算出,弥生時代に稲作農耕を基礎に社会が構成され,青銅器や磨製石器が使われ,中国から前漢鏡や王莽の貨泉が輸入されたことを明らかにし,また中国との交流についての緻密な研究を行なった。

出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「中山平次郎」の解説

中山平次郎 なかやま-へいじろう

1871-1956 明治-昭和時代の病理学者,考古学者。
明治4年6月3日生まれ。39年京都帝大福岡医科大学(現九大)教授となる。考古学に関心をもち,「漢委奴(かんのわのなの)国王」金印など北九州の弥生(やよい)文化についておおくの論文をかいた。昭和31年4月29日死去。84歳。静岡県出身。東京帝大卒。著作に「博多の考古学的研究」。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

367日誕生日大事典 「中山平次郎」の解説

中山 平次郎 (なかやま へいじろう)

生年月日:1871年6月3日
明治時代-昭和時代の病理学者;考古学者
1956年没

出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報

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