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弥生文化 ヤヨイブンカ

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デジタル大辞泉の解説

やよい‐ぶんか〔やよひブンクワ〕【弥生文化】

日本で食料生産に基づく生活が始まった最初の文化。縄文文化の伝統のうえに大陸文化が到来して成立。稲作・米食、青銅器鉄器の製作・使用、紡織などが始まり、専門技術者が生まれ、支配・被支配の関係が生じ、地域社会が政治的にまとまりはじめた。

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世界大百科事典 第2版の解説

やよいぶんか【弥生文化】

日本列島で稲作を主とする食料生産に基礎を置く生活が始まった最初の文化。鉄器,青銅器が出現して石器が消滅し,紡織が始まり,階級の成立,国家の誕生に向かって社会が胎動し始めた。弥生文化の時代,すなわち弥生時代は,縄文時代に後続して古墳時代に先行し,およそ前4世紀中ごろから後3世紀後半までを占める。弥生文化は,基本的に食料採集(食用植物・貝の採取,狩猟,漁労)に依存する縄文文化と根本的に性格を異にする一方,後続する古墳文化以降の社会とは経済的基盤を等しくする。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

弥生文化
やよいぶんか

総説


定義
日本本土で、食料生産に基づく生活が始まった最初の文化。およそ、紀元前4、5世紀から紀元後3世紀に及ぶ600~700年間を占める。具体的には、稲作農耕が基盤となった最初の文化であって、先行する縄紋(縄文)文化が、多少の栽培を伴ったにせよ、あくまで食料採集を基盤としていたことと大きく異なる。一方、後続する古墳文化以降の日本文化とは、稲作農耕に基づく点では共通する。
 弥生文化の時代を弥生時代、この文化の担い手を弥生人、この文化の土器を弥生土器とよぶ。ただし、本来は、弥生土器を使った文化、時代を弥生文化、時代とよんできたのであって、現在なお、この旧案を尊重する人もいる。[佐原 真]
新来的要素・伝統的要素
弥生文化は、イネを主とし、ムギ、アワ、キビ、ダイズなどを伴う本格的な農耕のほか、鉄器や青銅器の使用・製作、紡織など、中国・朝鮮半島からの「新来的要素」によって特徴づけられている。しかし同時に、竪穴(たてあな)住居、土器、打製石器をはじめとする縄紋文化からの「伝統的要素」も色濃く認められ、また、ごく初めを除けば、青銅祭器の発達や、南海産巻き貝製の腕輪、およびその形を写した青銅製の腕輪に例をみるように、弥生文化に特有に発達した「固有的要素」も認められる。そして、このうち、新来的、伝統的両要素が、最古の弥生文化以来、ともに存在する事実は、大陸の某文化を担った人々が日本に渡来して弥生文化を形成したものではけっしてなく、外来文化を担って到来した人々が、在地の縄紋人と合体して形成した新文化が弥生文化であることを雄弁に物語っている。
 弥生文化には、人々の間に、青銅器鋳造技術者のような専門技術者が初めて出現した。また、支配する人・される人の分化、すなわち階級社会の成立や国家の誕生が用意され始めた。
 弥生文化は、大陸との交渉が恒常化し始めた最初の日本文化でもある。その後、大陸との交渉が久しくとだえることもあったとはいえ、中国、朝鮮半島は、絶えず人々の意識のなかにあった。したがって、弥生文化は、日本人が国際社会の一員であることを自覚した最初の文化であったといえよう。[佐原 真]

弥生文化の領域

 弥生文化が広まったのは、九州、四国、本州およびそれに伴う島々であった。北海道はその領域外にとどまり、縄紋文化におけると同様、食料採集に基づく生活が引き続き行われた。その文化を「続(ぞく)縄紋文化」とよんでいる。なお、本州の東北地方の北端部は、近年まで、むしろこの続縄紋文化の領域に属するとみられていた。しかし、青森県下で水田跡の存在が確認されたことによって、本州が北端に至るまで弥生文化の領域に属することは、いまや疑えない。
 一方、南西諸島においては、弥生時代に入っても、食料採集に基づく「後期貝塚文化」が行われた。沖縄本島には、九州の弥生土器がもたらされており、箱式石棺など弥生文化と共通する要素も認められることによって、弥生文化の領域に属した可能性も論じられている。しかし、現状では、稲作が沖縄で開始されたのは10何世紀以来であって、弥生時代における稲作の証拠はあがっていない。[佐原 真]

弥生時代の時期区分


土器様式と時期
佐賀県唐津(からつ)市菜畑(なばたけ)遺跡、福岡市板付(いたづけ)遺跡の下層では、近年までだれもが縄紋時代晩期の後半と認めてきた時期の水田跡が、福岡県曲リ田(まがりだ)遺跡では、この時期の村跡の一部が発掘されている。この「菜畑・曲リ田段階」を弥生時代早期(あるいは先期)とよぶ。ただし、この段階を従来どおり縄紋時代晩期と理解する研究者もいる。
 これに続いて、だれもが弥生時代と認める前期(期)がくる。これに続く中期、後期が問題であって、九州地方の研究者は、「北九州第および第様式土器」の時期を中期とよび、「北九州第および第様式土器」の時期を後期とよぶのに対して、他の地方の研究者は、「畿内(きない)~第様式土器」の時期を中期、「畿内第様式土器」の時期を後期とよんでいる。したがって、中期末とか後期初めとかいう表現は、研究者によって異なる時期を示すという混乱を招いている。しかし、幸いにして北九州第~第様式土器と畿内第~第様式土器とはそれぞれ時期的にほぼ並行するとみられるので、それぞれの時期を期とよぶことによって混乱を防ぐ方法がとられている。
 また、畿内地方の第様式土器に後続する「庄内(しょうない)式土器」を弥生土器とする考え、二つに分けて前半を弥生土器、後半を土師器(はじき)とする考えが分かれており、弥生土器と土師器との区別、ひいては弥生時代と古墳時代との境界も、また将来の解決を待たなければならない。[佐原 真]
鉄器時代
かつて、弥生時代は青銅器時代とよばれたこともある。また、新石器時代と扱われたこともある。大陸新来の要素のなかに伐採斧(ふ)(太形蛤刃石斧(ふとがたはまぐりばせきふ))や加工斧(柱状片刃(ちゅうじょうかたば)石斧、扁平(へんぺい)片刃石斧)、穂摘(ほつ)み貝(石庖丁(いしぼうちょう))など新式の磨製石斧が含まれている事実も、弥生時代を新石器時代と理解する考えを支えていた。しかし、現在では弥生時代をむしろ鉄器時代として扱う考えが強い。早期の菜畑遺跡では鉄器が出土していない。しかし、杭(くい)には鉄器による加工の跡が指摘されている。総じて、弥生時代の前半は、石器をなお多用する不完全な鉄器時代と考えてよい。後半ないし終わりころには、石器が消滅している事実によって完全な鉄器時代に入っていると理解できる。[佐原 真]

弥生人

 弥生人には、渡来系の人々、彼らと縄紋人が混血した人々、その子孫たちなどの弥生人(渡来系)と、縄紋人が弥生文化を受け入れることによって弥生人となった人々(縄紋系)とが区別できる。[佐原 真]
渡来系
蒙古人類(モンゴロイド)としては新しい形質を備え、顔の扁平な背の高い人々であって、朝鮮半島南部の古代人と形質が共通し、同地からの渡来は確実である。彼らの原郷土をさらにアジア大陸東北部だろうとみる形質人類学研究者もいる。渡来系の弥生人は、北部九州から山口県、鳥取県の海岸部、瀬戸内海沿岸から近畿地方にまで及んだらしい。弥生時代期の土器(遠賀川(おんががわ)式土器)の分布する名古屋にまで達した可能性がある。それどころか、彼らの少数が一部、日本海沿いに青森県下まで達した可能性もいまや考えねばならない。[佐原 真]
縄紋系
しかし、北西九州、南九州、四国の一部、東日本の大部分においては、蒙古人種としては古い形質を備え、顔の彫り深くやや背の低い縄紋人たちが、新文化を摂取して弥生人に衣替えした。ところが、南関東では、その縄紋系の弥生人、縄紋人とは異なった形質が認められており、生活環境や労働の変化が身体の形質に変化を与えた結果と理解されている。[佐原 真]

稲作の伝播


朝鮮半島から
日本の稲作の郷土は、中国の長江(ちょうこう)(揚子江(ようすこう))下流付近と考えられている。そこから日本への到来の道はけっして一つではなく、また1回限りの到来ではけっしてなく、各方面から何回もの伝播(でんぱ)があった、とみられている。しかし、弥生文化の成立に決定的な動機を与えた主要な伝播の最終仲継地が朝鮮半島南部にあったことは確実であって、早期弥生文化には同地と共通する数々の要素が認められるだけではなく、同地の製品そのものももたらされている。
 また、北部九州や山口県下における前期弥生文化の貯蔵穴は、寒く乾いた中国北部の貯蔵穴の系譜をひくものとみられるから、朝鮮半島に至る前の仲継地が中国北部にあった可能性も大きい。一方、弥生文化には、高床(たかゆか)倉庫のように長江下流域以南の暑く湿った地帯から伝わったものも含まれる。しかし、長江下流域のイネに円粒の日本型と長粒のインド型があるのにかかわらず、弥生米はすべて日本型である点、長江下流域の農業はブタを伴う点からして、同地からの稲作農耕の伝播は支流だったと考えられる。弥生文化と豊富に共通する文物を共有し、かつ食用家畜をもたなかった朝鮮半島からの伝播こそ主流だったに違いない。[佐原 真]
東北地方も前期に稲作
日本本土における稲作については、従来の見解が一新された。期の土器(遠賀川式土器)をつくり使った村の分布は、太平洋岸では名古屋、日本海岸では京都府の丹後(たんご)半島までと、最近まで認められてきた。それ以東では、運ばれた土器として、地元の土器に伴って少数みられるにすぎなかった。こうして、本格的な稲作文化がまず栄えたのは西日本であって、東日本ではさらに数十年あるいは100年以上も後れて稲作が始まったともいわれていた。そして、食料採集で十分暮らせたとか、縄紋文化の抵抗があったとか、あるいは寒冷地でイネが栽培できるよう品種改良を加えるための期間を要したとか、説明されてきた。
 ところが近年、日本海沿岸の岩手、秋田、青森県、および青森県の太平洋岸で、西日本の期の土器と細部の点まで一致する「遠賀川系土器」が豊富にみいだされるようになり、そして青森県砂沢(すなざわ)でこの時期の水田跡が発掘された。こうして現在では、東北地方に至るまで、前期に稲作が開始されたことが確認されたのである。[佐原 真]

弥生土器


名称・特徴
1884年(明治17)東京都文京区弥生町の向ヶ丘貝塚から口の欠けた土器が1個採集された。それがその後、縄紋土器とは違うものと認識されるようになり、1890年代には「弥生式土器」とよばれるようになった。これを「弥生土器」とよぶのは1975年(昭和50)の提案以来であって縄紋式土器でなくて縄紋土器とよぶことにそろえ、また、それぞれをさらに細別するときに限って「式」を用いることにしたものである。
 弥生土器は、ろくろを使わずにつくり、窯を利用せずに、酸素を十分与えた状況(酸化炎)の600~800℃程度で野焼きしたものであって、先行する縄紋土器、および後続する土師器と基本的な窯業技術を共有する赤焼きの軟質土器である。弥生土器にみる形、紋様、技術の多くは、かつてどこかの縄紋土器で試みられており、また土師器にも共通している。したがって、ある土器が縄紋土器か弥生土器か、弥生土器か土師器かを判別することがむずかしいのは当然であって、この現実が、弥生文化の新しい定義を生むことになった。
 あえて弥生土器に縄紋土器と異なる新しさを求めるとすれば、割り板の木目を利用した表面仕上げ(刷毛目(はけめ))、線刻した叩板(たたきいた)でたたき仕上げる手法、紋様を刻んだ板によるスタンプ紋様、先を細かく割った工具による櫛描文(くしがきもん)等々、鉄器時代の土器にふさわしく、鉄器で加工した工具の利用が著しい点であろう。また、縄紋土器に特徴的な存在であった波状口縁の土器の激減・消滅、蓄えるための壺(つぼ)の激増などが指摘できる。[佐原 真]
器種
弥生土器を構成するおもな器種は、壺のほか、甕(かめ)とよばれる深鍋(なべ)(縄紋土器の深鉢に相当)、盛付け用の鉢・高杯(たかつき)であって、ほかに器(うつわ)をのせる台を独立させた器台(きだい)もある。なお、大形の甕は貯水用であり、北部九州では特大型の甕を成人の埋葬に用いた(甕棺(かめかん))。西日本の弥生土器は、紋様の少ない縄紋土器の伝統をひいてあっさりした装飾をもつ。とくに北部九州では、輪郭の美しさ、磨いた面の美しさが追求された。近畿を中心とする地方では、櫛描紋が発達した。一方、東日本の弥生土器は、にぎやかに飾る縄紋土器の伝統をひいて、縄紋・曲線紋を駆使している。弥生土器の作りも紋様も、初めから中ごろにかけては、概して時間をかけてていねいに行っており、「巧遅(こうち)」の技術とよんでよい。しかし、一般に新しい弥生土器の作りは粗略化して手早く仕上げており紋様も失う傾向にあって「拙速(せっそく)」の技術となる。これは、土器が日用の消耗品として扱われるようになったことを示しており、見かけのうえでは技術の低下とも判断される。
 しかし、この巧遅から拙速への技術の転換は、社会の前進の反映である。そして、有力者の墓に並べる器、神に捧(ささ)げる器には、依然として巧遅の技術が発揮されていることも見逃せず、日用品には拙速、一部の人々のためには巧遅という技術の分裂が指摘されている。なお、西日本においては、弥生時代の終わりころに属する焼失した住居の跡から、小型の鉢、高杯が数個体ずつみつかることがあり、家族の成員のひとりひとりがめいめいの食器(銘々器)を用い始めていたことを物語っている。[佐原 真]

弥生時代の生活


集落と農耕
弥生人は半地下式の竪穴住居からなる村に住んだ。北部九州などでは、初め貯蔵穴に穀物を蓄えたが、のちには高床倉庫を用いている。大きな村は、周りに堀を巡らし、その外に垣を回したらしく、土のかたまり(土塁)の痕跡(こんせき)が認められることもある。これら環濠(かんごう)集落のほかに、水田耕作の生活にとって不便な丘の斜面や頂上に村(高地性集落)を営むこともあった。これも環濠集落とともに防御的集落をなしている。弥生時代の水田跡は、各地ですでに20か所以上みいだされている。以前より有名な静岡市登呂(とろ)の水田は1枚が大きく(13アール前後と20アール前後)、畦道(あぜみち)も太い。しかし規模の小さな水田(1辺2~5メートルもある)が一般的だった。
 耕作には、刃先まで木でできた鋤(すき)、鍬(くわ)を用いた。田植えか直播(じかま)きかは、久しく論じられてきた。現在では、田植え説が有力であって、水田跡から稲株の跡とみられるものもみつかっている。収穫は、石包丁とよばれる穂摘(ほつ)み具を用いた。稲の熟成期が不ぞろいだったため、熟した穂から摘んだのである。収穫した稲は、貯蔵穴か高床倉庫に蓄え、必要分ずつ臼(うす)に入れ杵(きね)で脱穀した。[佐原 真]
食・衣
弥生時代を含め、日本古代では米を蒸して食べたといわれてきた。しかし、弥生人は、米を深鍋で直接煮て食べた。焦げ付きがそのまま残ってみいだされることもある。稲作が始まったとはいえ、弥生人は食用植物にも大きく依存し、また、シカ、イノシシを狩り、魚貝類も愛好した。絵画資料は狩り用の弓を上に長く下に短く持ったことを示しており、『魏志倭人伝(ぎしわじんでん)』の記載と一致する。弥生時代の終わりに近く、瀬戸内海から大阪湾の沿岸にかけて、土器を用いた製塩が開始されている。
 弥生時代は、衣服を布でつくり始めた時代でもある。野生のカラムシや栽培のタイマを材料として糸を紡ぎ、布を織り始めた。織機の部品も各地でみいだされている。それだけでなく、北部九州で出土した絹が大陸のものとは異なっている事実から、養蚕が始まっていたことも説かれている。弥生時代の衣服は、『魏志倭人伝』の記述から、布を二つに折って折った部分に孔(あな)をあけ、ここに首を通す貫頭衣(かんとうい)だったといわれている。しかし、出土した部品から復原される布幅は30センチメートルであった。1枚の布で身を覆うことはできず、むしろ二つ折りにした2枚を首の部分があくように重ね合わせたものとして復原できる。弥生時代には、縄紋時代と同様、各種の装身具がある。しかし、耳飾りだけは遺物として残っていない。貝製の腕輪のうち、注目をひくのは、南海産の巻き貝ゴホウラ製のものを男が右手に着用する風習が北部九州で広まった事実であって、特定の職能なり身分なりを示したものらしい。中四国から愛知県にかけての絵画資料によると、弥生人は額から頬(ほお)にかけて平行弧線のいれずみあるいは塗彩をしていたらしく、『魏志倭人伝』の記載を想起させる。[佐原 真]
祭祀と葬制
弥生時代は、骨占(ほねうらな)い(骨卜(こつぼく))や木の鳥を用いての祭儀など新来の精神生活が始まって、縄紋文化の呪術(じゅじゅつ)の多くを一掃した。抜歯の風習もしだいに衰えた。精神生活の中心になったのは、当然、稲作にかかわる祭りであったろう。青銅のベル、銅鐸(どうたく)は大陸で家畜の頸(くび)に下がっていたベルが、家畜を伴わずに到来して祭りのベルとして特異な発達を遂げたものであって、近畿地方を中心とした地域では稲作儀礼の中心的役割を果たしたらしい。北部九州から近畿地方にかけては、朝鮮製の3種の青銅武器(戈(か)、剣(けん)、矛(ほこ))の形に倣った武器形祭器が発達した。悪を払い寄せ付けない効果を期待して祭器としたものだろう。
 弥生時代の墓は、地方差、年代差が大きい。北部九州では、初め木棺墓・石棺墓、続いて甕棺墓、そしてさらにまた石棺墓へと移り変わった。畿内を中心とする地帯では、方形、長方形の墳丘墓(方形周溝墓(しゅうこうぼ)、台状墓)を採用した。関東、東北地方南部では、初め遺体を腐らせて骨を土器に収納した再葬墓を用いた。しかし、のちに墳丘墓を採用した。北部九州の甕棺墓、石棺墓には、大陸製の鏡、青銅器を多量に副葬したものがあり、福岡県志賀島(しかのしま)出土の漢委奴国王(かんのわのなのこくおう)の金印が示すような、村々を統轄する「小国家」の王が葬られた「王墓」の名にふさわしい、墳丘墓のなかにも特大型のものがある。とくに岡山県楯築(たてつき)の墳丘墓は規模も大きく、円筒埴輪(はにわ)の起源となった特殊器台を数多く配するなど、身分高い人の台頭を思わせる。人々共同・共有の青銅祭器の祭りも、このような個人の突出の前に過去のものとなり、古墳時代を迎える。[佐原 真]

世界史・日本史のなかの弥生文化


「古代化」と近代化
世界を見渡すと、日本は農耕を基盤とする生活を甚だ遅れて実現したし、青銅、鉄など金属器の使用・製作の開始も非常に遅れた。しかし、ひとたび農耕社会が形成されると、たかだか700~800年にして、世界的な規模の古墳の出現が示すように強力な王権が台頭している。その速度は非常に速い。この「古代化」の速さは、世界的にも注目されている近代化の速度と並んで注目されてよい。「古代化」がいち早く実現したのは、偉大な中国、朝鮮半島が近くに存在して手本とも脅威ともなったからでもあろう。しかし、また稲作のもたらした蓄えの前提なしにはそれは考えられない。弥生時代の稲の生産高を低く見積もる諸説はこの点からみると疑わざるをえなくなる。
 中国、朝鮮半島北部、インド、西アジア、ヨーロッパなど世界の各地では、本格的な農耕開始にあたって、穀物の栽培と、食用(肉用あるいは乳用)家畜の飼育とが相並んで行われた。しかし、日本では、稲作を主とする農耕が、食用家畜を抜きにして始まり、唯一到来したニワトリも、神聖視されたためか、一般に食の対象とされずに近世に及んだ。5、6世紀に到来したウマ、ウシも騎乗、運搬、耕作用である。したがって、弥生文化に食用家畜が欠落したことは、その後の日本文化に大きく影響した。たとえば、多数の家畜を維持・管理するために不可欠の去勢の技術は、1725年(享保10)に至るまで到来しなかった。これは、去勢男子を宦官(かんがん)とする制が朝鮮半島(新羅(しらぎ)、高句麗(こうくり))にまで伝わりながら日本に到来しなかったことともかかわりをもつだろう。4~5世紀の渡来人たちは、家畜をいけにえにして「漢神」を祀(まつ)っている。しかし、食用家畜をもつ社会に共通するこの風習は日本に根づかなかった。天皇の即位式、初の収穫祭(大嘗祭(だいじょうさい))にいけにえは採用されず、儒教の儀式(釈奠(せきてん))でもこれは省略されるようになった。また食用家畜を飼う社会で広く行われる血(家畜か人間の)を用いての誓いも到来しなかった。食文化についてみれば、弥生時代に食用家畜を飼い始めなかったことがおもな原因となり、加えて仏教が肉食を禁じたことによって、そう頻繁には肉を食べない習慣が根づくことになった。そして、内臓や血を口にしない、という世界的には珍しい食習慣も形成された。[佐原 真]
闘争の世へ
世界史のうえで農耕社会の成立は、防御的集団の出現、確実な武器の登場、武器を添えた戦士の墓の出現、武器の崇敬の始まりを促している。日本においても、弥生文化はこれらの特徴のすべてを備えており、弥生時代こそ日本史のうえで、武器、戦争が始まった時代としてとらえられる。最近まで、弥生文化といえば、とかく牧歌的な平和な農村生活を想像することが多かった。しかし、日本の文明への第一歩だった弥生時代は、同時に闘争と殺戮(さつりく)の世への歩を進めた時代でもあったのである。[佐原 真]
『金関恕・佐原真編『弥生文化の研究』全10巻(1985~ ・雄山閣) ▽樋口隆康編『図説日本文化の歴史1 先史・原始』(1979・小学館) ▽佐原真著『大系日本の歴史1 日本人の誕生』(1987・小学館)』

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世界大百科事典内の弥生文化の言及

【古代社会】より

…その過渡期の現象として縄文土器を使用した人々が同時に水田耕作を行うようになった場合があり,それらの遺跡も近年各地でみつかるようになった。
【弥生文化の社会】
 この水田耕作を中心にする弥生時代への移行は,北九州にはじまり,やがて関東地方へ波及するが,それには200年ほどの時間の経過を必要としたらしい。この転換は日本の原始社会に,きわめて大きな変革をもたらした。…

【弥生土器】より

…弥生文化に用いられた軟質,赤焼きの土器。縄文土器に後続し,古墳時代の土師器(はじき)に先行する。…

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