日本列島で稲作を主とする食料生産に基礎を置く生活が始まった最初の文化。鉄器,青銅器が出現して石器が消滅し,紡織が始まり,階級の成立,国家の誕生に向かって社会が胎動し始めた。弥生文化の時代,すなわち弥生時代は,縄文時代に後続して古墳時代に先行し,およそ前4世紀中ごろから後3世紀後半までを占める。弥生文化は,基本的に食料採集(食用植物・貝の採取,狩猟,漁労)に依存する縄文文化と根本的に性格を異にする一方,後続する古墳文化以降の社会とは経済的基盤を等しくする。つまり水稲耕作を主として食用家畜を欠く農業,米を主食とする食生活は弥生文化に始まり,現代に至る日本文化を基本的に特色づけることになったのである。弥生文化の領域は,南は薩南諸島から北は東北地方までに及び,縄文文化の領域であった屋久島以南から沖縄諸島にかけてと北海道においては,弥生時代以降も食料採集に基礎を置く生活が続いた。それぞれ沖縄先史時代後期文化,続縄文文化と呼ぶが,最近では沖縄に弥生文化の存在を認める考えも生まれている。
冒頭に掲げた定義は,今日の学界に共通のものではない。学史を振り返ると,19世紀末に〈弥生式土器〉が認識されて縄文土器と識別されるようになり,しだいに両者の前後関係,弥生土器と金属器・米との関係が判明して,縄文土器を用いた文化・時代を縄文文化・縄文時代,弥生土器を用いた文化・時代を弥生文化・弥生時代と呼ぶことになった。しかし,土器の研究が詳細に行われるに従って,土器のうえで縄文土器・弥生土器を識別することが必ずしも容易でないことになった。両者の基本的な窯業技術が共通することから,これは当然でもあった。そこで筆者は1975年,学史に逆らって縄文文化・縄文時代,また弥生文化・弥生時代の概念を先に定義づけ,それぞれの文化・時代に用いた土器を縄文土器,弥生土器と呼ぶように提案した。現在この考えは,徐々に広まってきている。
弥生時代における北海道には続縄文文化が存在する。続縄文文化の領域は,東北地方北端部をも包括するという考えもあり,とくに青森県南津軽郡田舎館村垂柳(たれやなぎ)遺跡の土器は,1930年代以来,続縄文土器とみなされていた。北海道の続縄文土器と酷似する,というよりむしろ等しい土器だからである。これに対して,東北地方の北端部に至るまで,同時代の遺跡から炭化米や籾痕(もみあと)をとどめる土器が多数見いだされることによって,垂柳の土器をはじめとする東北地方の同時代の土器は,続縄文土器ではなく弥生土器であるとの反論が1950年代に掲げられた。そして83年以来,垂柳遺跡で大規模な水田遺構が見いだされた結果,この遺跡が弥生文化に属することが決定した。
一方,弥生文化が誕生した北部九州の情勢をみると,最古の弥生文化について異なった見解が対立している。福岡市板付遺跡では,従来最古の弥生土器と考えられてきた板付式土器よりさらに古い水田遺構が見いだされた。それまで〈縄文晩期末〉の夜臼(ゆうす)式土器は,板付式土器と常に共伴することが知られていたが,板付遺跡下層では夜臼式が単純に存在し,また石庖丁を伴っていた。佐賀県唐津市菜畑(なばたけ)遺跡においても,夜臼式単純,あるいはそれに先行する山ノ寺式の時期の水田遺構が見いだされた。さらにこの時期の集落遺跡が,福岡県糸島市の旧二丈町曲り田で発掘されている。これら3遺跡が示す文化では,水稲耕作が行われており,遺物としては縄文文化の伝統をひく土器(ただし壺が多いことは弥生土器的性格),石器,装身具(玉類)とともに,それまで弥生文化に特有とされてきた大陸系の磨製石斧3種類,石庖丁,朝鮮製の有柄式磨製石剣・磨製石鏃,装身具(管玉(くだたま))も存在している。したがって冒頭の定義を掲げる立場では,これらをためらうことなく弥生文化の遺跡と認定する。これに対して,板付式土器の時期の周囲に溝(環濠)をめぐらした農村の存在が明らかな,完成した農耕文化の成立をもって弥生文化と認定する考え方もある。この考えに立つ研究者は,板付下層や菜畑の水田を縄文水田と呼び,この土器を縄文土器と考えている。ただしこれらの研究者は,縄文文化・弥生文化,縄文土器・弥生土器をいかに定義するか,いまだ明らかにしていない。
なお弥生文化の時期は,弥生土器の研究によって細別されており,大別する際には前・中・後期に分ける。しかし,これと土器様式の対応は,地方によりまた研究者により一致せず,混乱を招いている。〈北九州第Ⅰ様式〉の出現は〈畿内第Ⅰ様式〉の成立に先行するとはいえ,幸い両地方の第Ⅰ~Ⅴ様式土器の時期は,それぞれほぼ対応する。本項では弥生文化の中心的役割を果たした両地方の各様式土器の時期によって,時期をⅠ~Ⅴ期に区分して記述を進める。
→弥生土器
弥生文化は,在来の縄文文化に大陸から稲作農耕,金属器文化が影響を与えることによって成立した新文化である。そのため最古の段階から縄文文化からの伝統的要素と大陸伝来の新要素との両者が認められ,やがて弥生文化固有の性格が形成されている。大陸系の要素には,中国系・朝鮮系の両者がみられ,前者は楽浪郡を通じて朝鮮から到来したものが多い。このうち最も問題とされるのは稲作伝来のルートである。現状の考古学的事実からすると,朝鮮半島から到来した可能性が最も大きい。しかし,高床倉庫のように,中国の長江(揚子江)流域やその以南にしか源流が求められないものもあり,中国から直接到来した文物があったことも認めなければならない。大陸系の要素は,当然ながら北九州に濃厚で,東北地方に最も希薄であり,逆に縄文系の要素は東日本に濃く西日本に薄い。
弥生人には,大陸から渡来し,縄文人と交流して新文化を形成した人びと(大陸系弥生人),縄文人が新文化を受け入れて弥生人となった人びと(縄文系弥生人),そして両者の混血で生まれた人びとおよびその子孫たち(混血系弥生人)が含まれるだろう。不幸にして初期の弥生人骨が見いだされておらず,詳しくは将来を待たなければならない。しかし,弥生文化の大陸系要素を伝えた主役は大陸系弥生人であって,彼らは朝鮮半島南部から渡来したと思われる。北部九州から山口県響灘沿岸にかけてのⅠ~Ⅲ期(前期末~中期)の人骨は,朝鮮半島南部の先史時代人骨に共通して背が高く(男163.23cm),西日本の縄文人(男160.24cm),古墳時代人(男161.45cm)よりも高い。この事実は,大陸系弥生人の背の高い形質が,しばらく混血系弥生人に残った後,再び消えてしまった結果と考えられており,同時に大陸系弥生人の絶対数が決して多くなく,しかも継続的に何波も到来したものでないことをも示すものと考えられている。おそらく,弥生文化成立にかかわった大陸系弥生人はせいぜい数百ていどの人数だったのであろう。大陸系弥生人が初期農耕文化を伝えたのは,中国・四国地方,近畿地方および太平洋岸では名古屋付近,すなわちⅠ期(前期)の土器が主体的に分布する地域とみられ,島根県古浦遺跡や大阪府国府(こう)遺跡では,背の高い弥生人骨が見いだされている。
弥生時代の稲は,日本型と呼ばれる丸い籾を結ぶもので,長い芒(のぎ)をもっていた。炭化米として,土器に偶然籾が付着した痕跡として,あるいは土器に混入したままで多数見いだされている。弥生時代の水田遺構といえば,近年まで静岡市登呂遺跡のものが唯一の実例であった。しかし現在では,九州地方から東北地方に至る各地方で弥生時代の水田遺構が明らかとなっている。これには大別して,低湿地の平坦面に立地し,杭や矢板で補強した畦(あぜ)で囲む50m×30m前後の大区画水田(板付遺跡,登呂遺跡)と,沖積地の緩い傾斜面や段丘面に立地し,大きな畦で囲んだ大区画の中を,さらに小規模な区画(1辺2~5mのものもある)を作って,少量の水で湛水を効果的にしたもの(菜畑遺跡,滋賀県服部遺跡)とがあり,弥生時代の始まり以来,利用する土地に適して作田したことがわかる。弥生時代前半の水田には,地下水位の高い湿田が多い。しかし,後半には小規模の灌漑を行った半乾田も出現している。ただこれらが田植をしたか直播き(じかまき)であったかはわからない。また,陸田も当然存在したであろう。
農具には各種の鋤,鍬(くわ)があり,刃の先までカシなどの硬い木材で作ってある。Ⅳ期(中期末)以降,九州では青銅および鉄の刃先を使い始めたが,弥生時代末期に至るまでこれはなかなか普及しなかった。なお,田下駄・大足など深田における農具や,水田の表面を整えるえぶりは,もっぱら前述の大区画水田と結びついて発達した。弥生時代の稲は,なお品種改良が進んでおらず,一枚の田の中でも結実期はまちまちであった。したがって一度に収穫するのではなく,熟した穂から順次収穫する方法がとられ,石庖丁によって穂摘みされた。これは現在,東南アジアで一枚の田に数週間を要して穂摘みによる収穫がなされるのと比較できる。収穫した稲をどう乾燥したかはわからない。稲は初期には貯蔵穴に,後には,高床倉庫に蓄えられ,必要分だけ取り出し,臼と杵で脱穀した。そして米は直接,甕で炊いて食べるのが一般であった。農耕の開始は,明らかに食生活を一新した。しかし,救荒食として植物の堅果はなお重要な役割を果たしたとみえ,貯蔵穴からシイ,トチなどの発見例もある。狩りと魚とりも続けられた。イヌを使ったイノシシ狩りの状況は,銅鐸の絵画にも描かれている。タコ壺を使う漁法も発達し,また大型の錘(おもり)がみられることは,網漁法の進展を思わせる。瀬戸内海沿岸地方を中心として,本格的な製塩が始まったことも特筆すべきである。
弥生時代の大規模な集落は,100~200m×70~100mていどの規模が普通で,特例としては400m×300m(大阪府池上遺跡)のものもある。ムラの周囲には濠をめぐらしており,環濠集落の名にふさわしい。濠を二重にめぐらすものもあるが,一重の場合濠の内側ではなく外側に土塁,すなわち土を盛り上げた垣をめぐらしている。弥生時代の集落は,規模のうえで縄文時代の大集落とそう変わらないが,防御的性格をもつことで大きく違っている。また,集落に接して共同墓地を備える点も大きな特徴である。家そのものが竪穴住居によって代表される点も縄文時代と変わらない。しかしⅣ期以降,普通の規模の竪穴住居以外に,一集落内に1~2軒ていど大規模な竪穴住居も出現している。西日本では,竪穴式の半地下構造ではなく,地上に立つ掘立柱建物(ほつたてばしらたてもの)も登場している。ほかに貯蔵穴か高床倉庫があり,また井戸が出現している。
弥生時代の集落は最も小さいものでも2~3軒の家から成り立っており,この血縁関係で結ばれていたとみられる人びとの一群は,世帯共同体,あるいは単位集団と呼ばれている。小さな集落は単位集団一つ(岡山県沼遺跡),大きな集落は複数の単位集団から成る。例えば福岡県立岩遺跡は単位集団五つから成り立っている。弥生時代の一地域には,多数の単位集団から成る〈大きなムラ〉一つと,少数あるいは一つの単位集団から成る〈小さなムラ〉複数とが存在していた。この大きなムラを中核として,一地域社会が形成されている状況を,かなり明確にとらえることができる場合もある。
弥生時代は,万単位の年数の間久しく行われた石器が終りを告げ,鉄器がこれに代わった時代である。北部九州においてはすでにⅠ期に一部の鉄器製作が始まっており,Ⅳ期にはその普及をみていた。これ以東の地方においても,基本的にⅤ期には鉄器が普及し,石器は若干が遺存したていどの所が多い。したがって弥生時代は,不完全な鉄器時代として始まり,その終末ころには完全な鉄器時代に入っていたといってよい。石器から鉄器への交代は,伐採斧に始まり加工斧に及んだ。鋸,錐の存否は不明だが,鉄製のナイフ(刀子(とうす)),鉇(やりがんな)が登場している。農具としては,鋤・鍬の刃先,石庖丁に代わる穂摘具としての手鎌,そして鎌が登場した。また鉄製武器としては,矛,剣,刀がある。これは大陸伝来のものである。日本製のものとしては,形を誇張した鉄戈(てつか)が北部九州で作られている。最も普遍的な武器は鉄鏃,すなわち矢の先端部であって,早くもⅠ期に北部九州で製作が始まり,Ⅴ期には広く西日本に普及している。このように弥生時代の鉄器は,もっぱら実用の利器・武器として発達した。
一方,青銅器はどうであったか。北部九州においては,朝鮮到来の青銅武器が実用にも供されたし,また銅鋤と呼ばれる青銅器が,鋤か鍬の刃先として使われた。Ⅴ期以降に普及する銅鏃も実用の武器であった。しかしこれらを除けば,日本で鋳造された青銅器の大多数は,銅鐸,武器形祭器(銅矛,銅戈,銅剣)のように集団が共同で行う祭祀とかかわるか,あるいは巴形(ともえがた)銅器(盾の飾りか)や腕輪(銅釧(どうくしろ))のように装いとかかわるものである。しかも使用された青銅器の量からみると,このうち共同祭器に最も多くが費やされている。このことは古墳時代の青銅製品が,もっぱら有力者とその馬とをきらびやかに飾る役割を果たしていることと対照的である。
北部九州ではⅠ~Ⅱ期に銅剣,銅戈や石戈などを用いた戦いが行われた。これらの武器の先端部が折れて,骨につきささったままの遺体が葬られており,人骨が腐朽して消滅している場合には,折れた先端部のみが棺内に遺存している。これらの武器は,一集団の中のごく少数が所有したに違いないから,ここで繰り広げられた戦いは,1対1の決闘的な性格のものであったと思われる。これに対して,中部瀬戸内海沿岸地方から大阪湾沿岸地方にかけてのⅢ~Ⅳ期には,集団戦の形跡が認められる。縄文時代初め以来,基本的に三角形で重量2g未満であった石鏃が,畿内地方では深くつきささるにふさわしい形態に変わり,重量も2g以上のものが過半数を占め,しかも量が非常に多くなっている。そしてこの傾向は,中部瀬戸内海沿岸にも及んでいる。これは狩りのための弓矢が,人を殺傷するための武器に変質したことを意味しよう。時を等しくして,この地帯では水田経営には不向きな比高200~300mの高い丘上に集落が営まれるようになる。石鏃を代表とする石製武器の発達と〈高地性集落〉の発達とは,地域社会が対決・連合しながらまとまっていく過程で繰り広げられた戦いを,如実に示している。なお畿内周辺では,〈高地性集落〉はⅤ期に入ってもあらためて発達しており,軍事的緊張が何度か繰り返されたことがわかる。南関東地方においても,環濠集落の住居が焼打ちされたように焼失している例が多く(Ⅳ期),軍事的緊張は関東にも及んでいたといえる。
食料生産に基礎を置く人びと,すなわち食料生産民の間には,専門技術者specialistが生まれる。これにはある時間,ある期間だけ専門的仕事に従事する定時専門技術者part-time specialistと,常時これに従う常勤専門技術者full-time specialistとが区別される。文献史学者は奈良時代においてさえ,常勤専門技術者の存在を否定するが,果たして正しいか。これが正しいとすれば,弥生時代には当然定時専門技術者の存在しか認めることはできない。北部九州では,石斧(福岡県今山遺跡),石庖丁(同立岩遺跡)が集中的に生産され,遠近の地に供給されたことで有名である。また地下水位が高く木器が豊富に遺存する遺跡には,多量の削り屑をとどめる例(大阪府恩智遺跡,愛知県瓜郷遺跡)と,それをもたず製品のみが出土する例(大阪府瓜生堂遺跡,愛知県篠束遺跡)とが識別できる。生産のムラと消費のみのムラとがあったのである。青銅器やガラスの生産は,北部九州,畿内ともに鋳造センターで最も集中的に行われた。現在知られるセンターは福岡県春日市の須玖(すぐ)丘陵の遺跡群と,大阪府茨木市東奈良遺跡であって,多数の鋳型が見いだされており,専門技術者が長期間常駐して鋳造にあたり,その製品が各地に配布されたことは明らかである。例えば東奈良で鋳造された銅鐸は,大阪府豊中市原田,香川県善通寺市我拝師山(がはいしやま),兵庫県豊岡市気比(けひ)で見いだされている。一方,北部九州,畿内の両地方では,以上のセンター以外の各地の遺跡から少数ずつの鋳型が見いだされている。これは注文に応じて専門技術者が現地に赴き,鋳造を終えるとまた他へ移動するという活動を示すものであろう。なお,総じて弥生時代の生産技術,とくに土器,木器の技術は,時代が下るとともに粗悪化する。これは日用の器をていねいに時間をかけて作ることをやめ,簡略に仕上げるようになったためである。ただし弥生時代の終りころには,特定の人物およびその人とかかわる墓や祭祀のための器は,ていねいに時間をかけて仕上げており,技術の分裂を認めることができる。
水稲耕作を代表とする農業の開始は,技術の導入だけでなく,農耕祭祀の導入でもあった。弥生時代における最も重要な祭祀が,農耕祭祀であったことは疑うべくもない。銅鐸や銅鐸と共伴して見いだされる戈形祭器,剣形祭器は,農耕儀礼とかかわる可能性が高い。一方,矛形祭器は水田がないに等しい対馬から,九州本島に倍する数が見いだされており,外洋航路にかかわる祭祀との関連を想定させる。これらの祭器は,ムラあるいはムラの連合体が共同で行う祭りに用いられ,共有されたものであって,特定の個人に属するものではなかった。だからこそ墓に副葬されることはなかったし,また弥生土器と共通する文様,絵画で飾られることもあったのである。しかし,やがて個人の権威があがめられる時代を迎えようとする。そのとき,祭祀の形は変質する。こうして弥生時代の青銅祭器とその祭りは終りを告げることになる。
→銅鐸
弥生時代の墓は,共同墓地に営まれる。しかし,地方によって年代によって,その様相はさまざまである。北部九州では墓の構造がよく変化している。初め(Ⅰ期)には石棺墓,木棺墓を用い,次いで甕棺墓(甕棺)が盛んとなり(Ⅲ,Ⅳ期),後にまた石棺墓が主流となる(Ⅴ期)。なお西北九州から北部九州にかけては,弥生時代前半に石を組んで墓の標識とする支石墓が発達した。東九州(宮崎県)では,弥生時代の終り近くに後述する方形周溝墓が出現した。これは古墳時代に福岡・熊本県下に及んでいる。北部九州では,同時代の朝鮮半島の風習の影響をうけて,銅鏡や青銅製・鉄製の武器などを死者にそえて埋めることが盛んであった。とくにこれらが集中的に一つの墓に入っている場合があり(Ⅱ~Ⅳ期),それらの墓は〈王墓〉と呼ばれている。しかし,これら〈王墓〉もまた共同墓地の一画を占めており,しかも棺そのものは,副葬品をもたない墓の棺と変わらない。この事実は,この墓に葬られた人物が,その共同墓地に葬られた人びとの一員であったことを明示している。吉備(岡山県)もまた,墓の構造が次々と変化した地域である。長手の坑墓(墓穴のみが検出される墓。いわゆる土壙墓)と短い坑墓とを併せ用いた時期(Ⅲ期)を経て,丘陵の土を方形に削り出して整えた方形台状墓の内外に長手の坑墓を作り(Ⅳ期),そして弥生時代の末(Ⅴ期)には,丘陵を利用して部分的に形を整え,石を敷き,また立てて,ていねいな作りの特殊壺・特殊器台と呼ぶ土器を並べた大規模な〈墳丘墓〉が出現している。
北部九州,吉備と対照的なのは畿内地方である。畿内では一貫して,木棺墓,坑墓,小児用の土器棺(壺,甕)墓を用いた。またこれらのみの墓と並んで,周囲に溝をめぐらした方形の土盛り(方10m前後のものが多い)の中に,木棺墓,坑墓,土器棺墓などを設けた方形周溝墓がある。南関東から東北地方南部にかけては,いったん土葬か風葬にして骨だけとし,その骨を集めて壺に収め埋葬する再葬墓が行われた(Ⅲ期)。しかし続くⅣ期には方形周溝墓が伝わり,これを採用している。畿内を中心に発達した方形周溝墓は,しだいに東西の地に及んで在地の墓制を変貌させている。そして古墳時代初期には,西は北部九州,北は仙台平野に達している。この事実は,弥生時代から古墳時代にかけての北部九州と畿内とを評価する際に見のがせない。そして同時に,吉備が一貫して独自の墓をもち,方形周溝墓を受け入れない点も注意をひく。
中国の史書によると,前1世紀の倭(西日本)は〈百余国〉に分かれていた(《漢書》)。紀元57年(後漢の中元2)には倭の奴国(なこく)の王が光武帝に朝貢した(《後漢書》)。そして2世紀後半に相争っていた倭の30余国は,卑弥呼(ひみこ)の出現によって邪馬台国に従うところとなった(《魏志倭人伝》)。これらの文献にいうところの〈国〉は,先に〈ムラ〉の記述で触れた〈大きなムラ〉一つと,〈小さなムラ〉複数からなる地域社会に相当するのであろう。北部九州では,弥生時代中ごろ(Ⅲ期)の甕棺墓地は少ないもので20~30基,多いもので200~300基から成っており,大多数の甕棺墓地には,鏡や青銅製武器などの目だった副葬品はみられない。このように墓地に副葬するものももたない一般の小さなムラを統合する大きなムラのカシラこそ,その地域社会を代表する〈国王〉だったのであろう。その死に際しては多くの副葬品が墓にそえられた。しかしこの段階では,なお〈国王〉がムラあるいはムラの連合体の成員の一員であったことは先述した。
弥生時代末期には〈国〉の性格も変わり,カシラの墓が一般の成員の墓とは別の所に立地して作られ始めている。邪馬台国はその時期の〈国〉であった。そして支配する人とされる人の別が,さらに明確になったときの墓を,われわれは前方後円墳として知っている。古墳時代の到来である。
世界の多くの地域では,食料採集段階から食料生産段階への飛躍的な発展は石器時代に実現した。〈新石器革命〉あるいは〈農業革命〉と呼ばれている(新石器時代)。日本ではこれが弥生時代に実現した。文明の中心部では,その発展は石器時代,青銅器時代,鉄器時代の順にたどっている。しかし文明の周辺部にあって,これを受容した日本では,大陸の新石器文化,青銅器文化,鉄器文化を同時に受容し,独特の発展を遂げている。弥生文化の成立,すなわち農耕の開始から,平面積ではピラミッドに数倍する大古墳(応神・仁徳陵古墳)が出現するまでに要した期間はおよそ800年。これを世界各地の農業開始から大王墓の成立までに要した期間と比較すると,きわめて短い(西アジア,中国は数千年,エジプト千数百年)。これは,一つには米の生産力の偉大さによるものであろう。試行錯誤を繰り返して進展する文明の中心と,その成果を受容する周辺とを安易に比較できないとはいえ,異常な速さといえる。これは明治以来の近代化の速度に比較できるかもしれない。
→古墳文化 →縄文文化
執筆者:佐原 眞
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
日本本土で、食料生産に基づく生活が始まった最初の文化。およそ、紀元前4、5世紀から紀元後3世紀に及ぶ600~700年間を占める。具体的には、稲作農耕が基盤となった最初の文化であって、先行する縄紋(縄文)文化が、多少の栽培を伴ったにせよ、あくまで食料採集を基盤としていたことと大きく異なる。一方、後続する古墳文化以降の日本文化とは、稲作農耕に基づく点では共通する。
弥生文化の時代を弥生時代、この文化の担い手を弥生人、この文化の土器を弥生土器とよぶ。ただし、本来は、弥生土器を使った文化、時代を弥生文化、時代とよんできたのであって、現在なお、この旧案を尊重する人もいる。
[佐原 真]
弥生文化は、イネを主とし、ムギ、アワ、キビ、ダイズなどを伴う本格的な農耕のほか、鉄器や青銅器の使用・製作、紡織など、中国・朝鮮半島からの「新来的要素」によって特徴づけられている。しかし同時に、竪穴(たてあな)住居、土器、打製石器をはじめとする縄紋文化からの「伝統的要素」も色濃く認められ、また、ごく初めを除けば、青銅祭器の発達や、南海産巻き貝製の腕輪、およびその形を写した青銅製の腕輪に例をみるように、弥生文化に特有に発達した「固有的要素」も認められる。そして、このうち、新来的、伝統的両要素が、最古の弥生文化以来、ともに存在する事実は、大陸の某文化を担った人々が日本に渡来して弥生文化を形成したものではけっしてなく、外来文化を担って到来した人々が、在地の縄紋人と合体して形成した新文化が弥生文化であることを雄弁に物語っている。
弥生文化には、人々の間に、青銅器鋳造技術者のような専門技術者が初めて出現した。また、支配する人・される人の分化、すなわち階級社会の成立や国家の誕生が用意され始めた。
弥生文化は、大陸との交渉が恒常化し始めた最初の日本文化でもある。その後、大陸との交渉が久しくとだえることもあったとはいえ、中国、朝鮮半島は、絶えず人々の意識のなかにあった。したがって、弥生文化は、日本人が国際社会の一員であることを自覚した最初の文化であったといえよう。
[佐原 真]
弥生文化が広まったのは、九州、四国、本州およびそれに伴う島々であった。北海道はその領域外にとどまり、縄紋文化におけると同様、食料採集に基づく生活が引き続き行われた。その文化を「続(ぞく)縄紋文化」とよんでいる。なお、本州の東北地方の北端部は、近年まで、むしろこの続縄紋文化の領域に属するとみられていた。しかし、青森県下で水田跡の存在が確認されたことによって、本州が北端に至るまで弥生文化の領域に属することは、いまや疑えない。
一方、南西諸島においては、弥生時代に入っても、食料採集に基づく「後期貝塚文化」が行われた。沖縄本島には、九州の弥生土器がもたらされており、箱式石棺など弥生文化と共通する要素も認められることによって、弥生文化の領域に属した可能性も論じられている。しかし、現状では、稲作が沖縄で開始されたのは10何世紀以来であって、弥生時代における稲作の証拠はあがっていない。
[佐原 真]
佐賀県唐津(からつ)市菜畑(なばたけ)遺跡、福岡市板付(いたづけ)遺跡の下層では、近年までだれもが縄紋時代晩期の後半と認めてきた時期の水田跡が、福岡県曲リ田(まがりだ)遺跡では、この時期の村跡の一部が発掘されている。この「菜畑・曲リ田段階」を弥生時代早期(あるいは先Ⅰ期)とよぶ。ただし、この段階を従来どおり縄紋時代晩期と理解する研究者もいる。
これに続いて、だれもが弥生時代と認める前期(Ⅰ期)がくる。これに続く中期、後期が問題であって、九州地方の研究者は、「北九州第Ⅱおよび第Ⅲ様式土器」の時期を中期とよび、「北九州第Ⅳおよび第Ⅴ様式土器」の時期を後期とよぶのに対して、他の地方の研究者は、「畿内(きない)第Ⅱ~第Ⅳ様式土器」の時期を中期、「畿内第Ⅴ様式土器」の時期を後期とよんでいる。したがって、中期末とか後期初めとかいう表現は、研究者によって異なる時期を示すという混乱を招いている。しかし、幸いにして北九州第Ⅱ~第Ⅴ様式土器と畿内第Ⅱ~第Ⅴ様式土器とはそれぞれ時期的にほぼ並行するとみられるので、それぞれの時期をⅡ~Ⅴ期とよぶことによって混乱を防ぐ方法がとられている。
また、畿内地方の第Ⅴ様式土器に後続する「庄内(しょうない)式土器」を弥生土器とする考え、二つに分けて前半を弥生土器、後半を土師器(はじき)とする考えが分かれており、弥生土器と土師器との区別、ひいては弥生時代と古墳時代との境界も、また将来の解決を待たなければならない。
[佐原 真]
かつて、弥生時代は青銅器時代とよばれたこともある。また、新石器時代と扱われたこともある。大陸新来の要素のなかに伐採斧(ふ)(太形蛤刃石斧(ふとがたはまぐりばせきふ))や加工斧(柱状片刃(ちゅうじょうかたば)石斧、扁平(へんぺい)片刃石斧)、穂摘(ほつ)み貝(石庖丁(いしぼうちょう))など新式の磨製石斧が含まれている事実も、弥生時代を新石器時代と理解する考えを支えていた。しかし、現在では弥生時代をむしろ鉄器時代として扱う考えが強い。早期の菜畑遺跡では鉄器が出土していない。しかし、杭(くい)には鉄器による加工の跡が指摘されている。総じて、弥生時代の前半は、石器をなお多用する不完全な鉄器時代と考えてよい。後半ないし終わりころには、石器が消滅している事実によって完全な鉄器時代に入っていると理解できる。
[佐原 真]
弥生人には、渡来系の人々、彼らと縄紋人が混血した人々、その子孫たちなどの弥生人(渡来系)と、縄紋人が弥生文化を受け入れることによって弥生人となった人々(縄紋系)とが区別できる。
[佐原 真]
蒙古人類(モンゴロイド)としては新しい形質を備え、顔の扁平な背の高い人々であって、朝鮮半島南部の古代人と形質が共通し、同地からの渡来は確実である。彼らの原郷土をさらにアジア大陸東北部だろうとみる形質人類学研究者もいる。渡来系の弥生人は、北部九州から山口県、鳥取県の海岸部、瀬戸内海沿岸から近畿地方にまで及んだらしい。弥生時代Ⅰ期の土器(遠賀川(おんががわ)式土器)の分布する名古屋にまで達した可能性がある。それどころか、彼らの少数が一部、日本海沿いに青森県下まで達した可能性もいまや考えねばならない。
[佐原 真]
しかし、北西九州、南九州、四国の一部、東日本の大部分においては、蒙古人種としては古い形質を備え、顔の彫り深くやや背の低い縄紋人たちが、新文化を摂取して弥生人に衣替えした。ところが、南関東では、その縄紋系の弥生人、縄紋人とは異なった形質が認められており、生活環境や労働の変化が身体の形質に変化を与えた結果と理解されている。
[佐原 真]
日本の稲作の郷土は、中国の長江(ちょうこう)(揚子江(ようすこう))下流付近と考えられている。そこから日本への到来の道はけっして一つではなく、また1回限りの到来ではけっしてなく、各方面から何回もの伝播(でんぱ)があった、とみられている。しかし、弥生文化の成立に決定的な動機を与えた主要な伝播の最終仲継地が朝鮮半島南部にあったことは確実であって、早期弥生文化には同地と共通する数々の要素が認められるだけではなく、同地の製品そのものももたらされている。
また、北部九州や山口県下における前期弥生文化の貯蔵穴は、寒く乾いた中国北部の貯蔵穴の系譜をひくものとみられるから、朝鮮半島に至る前の仲継地が中国北部にあった可能性も大きい。一方、弥生文化には、高床(たかゆか)倉庫のように長江下流域以南の暑く湿った地帯から伝わったものも含まれる。しかし、長江下流域のイネに円粒の日本型と長粒のインド型があるのにかかわらず、弥生米はすべて日本型である点、長江下流域の農業はブタを伴う点からして、同地からの稲作農耕の伝播は支流だったと考えられる。弥生文化と豊富に共通する文物を共有し、かつ食用家畜をもたなかった朝鮮半島からの伝播こそ主流だったに違いない。
[佐原 真]
日本本土における稲作については、従来の見解が一新された。Ⅰ期の土器(遠賀川式土器)をつくり使った村の分布は、太平洋岸では名古屋、日本海岸では京都府の丹後(たんご)半島までと、最近まで認められてきた。それ以東では、運ばれた土器として、地元の土器に伴って少数みられるにすぎなかった。こうして、本格的な稲作文化がまず栄えたのは西日本であって、東日本ではさらに数十年あるいは100年以上も後れて稲作が始まったともいわれていた。そして、食料採集で十分暮らせたとか、縄紋文化の抵抗があったとか、あるいは寒冷地でイネが栽培できるよう品種改良を加えるための期間を要したとか、説明されてきた。
ところが近年、日本海沿岸の岩手、秋田、青森県、および青森県の太平洋岸で、西日本のⅠ期の土器と細部の点まで一致する「遠賀川系土器」が豊富にみいだされるようになり、そして青森県砂沢(すなざわ)でこの時期の水田跡が発掘された。こうして現在では、東北地方に至るまで、前期に稲作が開始されたことが確認されたのである。
[佐原 真]
1884年(明治17)東京都文京区弥生町の向ヶ丘貝塚から口の欠けた土器が1個採集された。それがその後、縄紋土器とは違うものと認識されるようになり、1890年代には「弥生式土器」とよばれるようになった。これを「弥生土器」とよぶのは1975年(昭和50)の提案以来であって縄紋式土器でなくて縄紋土器とよぶことにそろえ、また、それぞれをさらに細別するときに限って「式」を用いることにしたものである。
弥生土器は、ろくろを使わずにつくり、窯を利用せずに、酸素を十分与えた状況(酸化炎)の600~800℃程度で野焼きしたものであって、先行する縄紋土器、および後続する土師器と基本的な窯業技術を共有する赤焼きの軟質土器である。弥生土器にみる形、紋様、技術の多くは、かつてどこかの縄紋土器で試みられており、また土師器にも共通している。したがって、ある土器が縄紋土器か弥生土器か、弥生土器か土師器かを判別することがむずかしいのは当然であって、この現実が、弥生文化の新しい定義を生むことになった。
あえて弥生土器に縄紋土器と異なる新しさを求めるとすれば、割り板の木目を利用した表面仕上げ(刷毛目(はけめ))、線刻した叩板(たたきいた)でたたき仕上げる手法、紋様を刻んだ板によるスタンプ紋様、先を細かく割った工具による櫛描文(くしがきもん)等々、鉄器時代の土器にふさわしく、鉄器で加工した工具の利用が著しい点であろう。また、縄紋土器に特徴的な存在であった波状口縁の土器の激減・消滅、蓄えるための壺(つぼ)の激増などが指摘できる。
[佐原 真]
弥生土器を構成するおもな器種は、壺のほか、甕(かめ)とよばれる深鍋(なべ)(縄紋土器の深鉢に相当)、盛付け用の鉢・高杯(たかつき)であって、ほかに器(うつわ)をのせる台を独立させた器台(きだい)もある。なお、大形の甕は貯水用であり、北部九州では特大型の甕を成人の埋葬に用いた(甕棺(かめかん))。西日本の弥生土器は、紋様の少ない縄紋土器の伝統をひいてあっさりした装飾をもつ。とくに北部九州では、輪郭の美しさ、磨いた面の美しさが追求された。近畿を中心とする地方では、櫛描紋が発達した。一方、東日本の弥生土器は、にぎやかに飾る縄紋土器の伝統をひいて、縄紋・曲線紋を駆使している。弥生土器の作りも紋様も、初めから中ごろにかけては、概して時間をかけてていねいに行っており、「巧遅(こうち)」の技術とよんでよい。しかし、一般に新しい弥生土器の作りは粗略化して手早く仕上げており紋様も失う傾向にあって「拙速(せっそく)」の技術となる。これは、土器が日用の消耗品として扱われるようになったことを示しており、見かけのうえでは技術の低下とも判断される。
しかし、この巧遅から拙速への技術の転換は、社会の前進の反映である。そして、有力者の墓に並べる器、神に捧(ささ)げる器には、依然として巧遅の技術が発揮されていることも見逃せず、日用品には拙速、一部の人々のためには巧遅という技術の分裂が指摘されている。なお、西日本においては、弥生時代の終わりころに属する焼失した住居の跡から、小型の鉢、高杯が数個体ずつみつかることがあり、家族の成員のひとりひとりがめいめいの食器(銘々器)を用い始めていたことを物語っている。
[佐原 真]
弥生人は半地下式の竪穴住居からなる村に住んだ。北部九州などでは、初め貯蔵穴に穀物を蓄えたが、のちには高床倉庫を用いている。大きな村は、周りに堀を巡らし、その外に垣を回したらしく、土のかたまり(土塁)の痕跡(こんせき)が認められることもある。これら環濠(かんごう)集落のほかに、水田耕作の生活にとって不便な丘の斜面や頂上に村(高地性集落)を営むこともあった。これも環濠集落とともに防御的集落をなしている。弥生時代の水田跡は、各地ですでに20か所以上みいだされている。以前より有名な静岡市登呂(とろ)の水田は1枚が大きく(13アール前後と20アール前後)、畦道(あぜみち)も太い。しかし規模の小さな水田(1辺2~5メートルもある)が一般的だった。
耕作には、刃先まで木でできた鋤(すき)、鍬(くわ)を用いた。田植えか直播(じかま)きかは、久しく論じられてきた。現在では、田植え説が有力であって、水田跡から稲株の跡とみられるものもみつかっている。収穫は、石包丁とよばれる穂摘(ほつ)み具を用いた。稲の熟成期が不ぞろいだったため、熟した穂から摘んだのである。収穫した稲は、貯蔵穴か高床倉庫に蓄え、必要分ずつ臼(うす)に入れ杵(きね)で脱穀した。
[佐原 真]
弥生時代を含め、日本古代では米を蒸して食べたといわれてきた。しかし、弥生人は、米を深鍋で直接煮て食べた。焦げ付きがそのまま残ってみいだされることもある。稲作が始まったとはいえ、弥生人は食用植物にも大きく依存し、また、シカ、イノシシを狩り、魚貝類も愛好した。絵画資料は狩り用の弓を上に長く下に短く持ったことを示しており、『魏志倭人伝(ぎしわじんでん)』の記載と一致する。弥生時代の終わりに近く、瀬戸内海から大阪湾の沿岸にかけて、土器を用いた製塩が開始されている。
弥生時代は、衣服を布でつくり始めた時代でもある。野生のカラムシや栽培のタイマを材料として糸を紡ぎ、布を織り始めた。織機の部品も各地でみいだされている。それだけでなく、北部九州で出土した絹が大陸のものとは異なっている事実から、養蚕が始まっていたことも説かれている。弥生時代の衣服は、『魏志倭人伝』の記述から、布を二つに折って折った部分に孔(あな)をあけ、ここに首を通す貫頭衣(かんとうい)だったといわれている。しかし、出土した部品から復原される布幅は30センチメートルであった。1枚の布で身を覆うことはできず、むしろ二つ折りにした2枚を首の部分があくように重ね合わせたものとして復原できる。弥生時代には、縄紋時代と同様、各種の装身具がある。しかし、耳飾りだけは遺物として残っていない。貝製の腕輪のうち、注目をひくのは、南海産の巻き貝ゴホウラ製のものを男が右手に着用する風習が北部九州で広まった事実であって、特定の職能なり身分なりを示したものらしい。中四国から愛知県にかけての絵画資料によると、弥生人は額から頬(ほお)にかけて平行弧線のいれずみあるいは塗彩をしていたらしく、『魏志倭人伝』の記載を想起させる。
[佐原 真]
弥生時代は、骨占(ほねうらな)い(骨卜(こつぼく))や木の鳥を用いての祭儀など新来の精神生活が始まって、縄紋文化の呪術(じゅじゅつ)の多くを一掃した。抜歯の風習もしだいに衰えた。精神生活の中心になったのは、当然、稲作にかかわる祭りであったろう。青銅のベル、銅鐸(どうたく)は大陸で家畜の頸(くび)に下がっていたベルが、家畜を伴わずに到来して祭りのベルとして特異な発達を遂げたものであって、近畿地方を中心とした地域では稲作儀礼の中心的役割を果たしたらしい。北部九州から近畿地方にかけては、朝鮮製の3種の青銅武器(戈(か)、剣(けん)、矛(ほこ))の形に倣った武器形祭器が発達した。悪を払い寄せ付けない効果を期待して祭器としたものだろう。
弥生時代の墓は、地方差、年代差が大きい。北部九州では、初め木棺墓・石棺墓、続いて甕棺墓、そしてさらにまた石棺墓へと移り変わった。畿内を中心とする地帯では、方形、長方形の墳丘墓(方形周溝墓(しゅうこうぼ)、台状墓)を採用した。関東、東北地方南部では、初め遺体を腐らせて骨を土器に収納した再葬墓を用いた。しかし、のちに墳丘墓を採用した。北部九州の甕棺墓、石棺墓には、大陸製の鏡、青銅器を多量に副葬したものがあり、福岡県志賀島(しかのしま)出土の漢委奴国王(かんのわのなのこくおう)の金印が示すような、村々を統轄する「小国家」の王が葬られた「王墓」の名にふさわしい、墳丘墓のなかにも特大型のものがある。とくに岡山県楯築(たてつき)の墳丘墓は規模も大きく、円筒埴輪(はにわ)の起源となった特殊器台を数多く配するなど、身分高い人の台頭を思わせる。人々共同・共有の青銅祭器の祭りも、このような個人の突出の前に過去のものとなり、古墳時代を迎える。
[佐原 真]
世界を見渡すと、日本は農耕を基盤とする生活を甚だ遅れて実現したし、青銅、鉄など金属器の使用・製作の開始も非常に遅れた。しかし、ひとたび農耕社会が形成されると、たかだか700~800年にして、世界的な規模の古墳の出現が示すように強力な王権が台頭している。その速度は非常に速い。この「古代化」の速さは、世界的にも注目されている近代化の速度と並んで注目されてよい。「古代化」がいち早く実現したのは、偉大な中国、朝鮮半島が近くに存在して手本とも脅威ともなったからでもあろう。しかし、また稲作のもたらした蓄えの前提なしにはそれは考えられない。弥生時代の稲の生産高を低く見積もる諸説はこの点からみると疑わざるをえなくなる。
中国、朝鮮半島北部、インド、西アジア、ヨーロッパなど世界の各地では、本格的な農耕開始にあたって、穀物の栽培と、食用(肉用あるいは乳用)家畜の飼育とが相並んで行われた。しかし、日本では、稲作を主とする農耕が、食用家畜を抜きにして始まり、唯一到来したニワトリも、神聖視されたためか、一般に食の対象とされずに近世に及んだ。5、6世紀に到来したウマ、ウシも騎乗、運搬、耕作用である。したがって、弥生文化に食用家畜が欠落したことは、その後の日本文化に大きく影響した。たとえば、多数の家畜を維持・管理するために不可欠の去勢の技術は、1725年(享保10)に至るまで到来しなかった。これは、去勢男子を宦官(かんがん)とする制が朝鮮半島(新羅(しらぎ)、高句麗(こうくり))にまで伝わりながら日本に到来しなかったことともかかわりをもつだろう。4~5世紀の渡来人たちは、家畜をいけにえにして「漢神」を祀(まつ)っている。しかし、食用家畜をもつ社会に共通するこの風習は日本に根づかなかった。天皇の即位式、初の収穫祭(大嘗祭(だいじょうさい))にいけにえは採用されず、儒教の儀式(釈奠(せきてん))でもこれは省略されるようになった。また食用家畜を飼う社会で広く行われる血(家畜か人間の)を用いての誓いも到来しなかった。食文化についてみれば、弥生時代に食用家畜を飼い始めなかったことがおもな原因となり、加えて仏教が肉食を禁じたことによって、そう頻繁には肉を食べない習慣が根づくことになった。そして、内臓や血を口にしない、という世界的には珍しい食習慣も形成された。
[佐原 真]
世界史のうえで農耕社会の成立は、防御的集団の出現、確実な武器の登場、武器を添えた戦士の墓の出現、武器の崇敬の始まりを促している。日本においても、弥生文化はこれらの特徴のすべてを備えており、弥生時代こそ日本史のうえで、武器、戦争が始まった時代としてとらえられる。最近まで、弥生文化といえば、とかく牧歌的な平和な農村生活を想像することが多かった。しかし、日本の文明への第一歩だった弥生時代は、同時に闘争と殺戮(さつりく)の世への歩を進めた時代でもあったのである。
[佐原 真]
『金関恕・佐原真編『弥生文化の研究』全10巻(1985~ ・雄山閣)』▽『樋口隆康編『図説日本文化の歴史1 先史・原始』(1979・小学館)』▽『佐原真著『大系日本の歴史1 日本人の誕生』(1987・小学館)』
出典 旺文社日本史事典 三訂版旺文社日本史事典 三訂版について 情報
…その過渡期の現象として縄文土器を使用した人々が同時に水田耕作を行うようになった場合があり,それらの遺跡も近年各地でみつかるようになった。
【弥生文化の社会】
この水田耕作を中心にする弥生時代への移行は,北九州にはじまり,やがて関東地方へ波及するが,それには200年ほどの時間の経過を必要としたらしい。この転換は日本の原始社会に,きわめて大きな変革をもたらした。…
※「弥生文化」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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