前野良沢(読み)マエノリョウタク

デジタル大辞泉 「前野良沢」の意味・読み・例文・類語

まえの‐りょうたく〔まへのリヤウタク〕【前野良沢】

[1723~1803]江戸中期の蘭学者・医者。名は達。豊前ぶぜん中津藩医。青木昆陽に師事してオランダ語を学ぶ。杉田玄白らとのオランダ語版「ターヘル‐アナトミア」(解体新書)の翻訳で指導的役割を果たした。

出典 小学館デジタル大辞泉について 情報 | 凡例

精選版 日本国語大辞典 「前野良沢」の意味・読み・例文・類語

まえの‐りょうたく【前野良沢】

  1. 江戸中期の蘭方医豊前国大分県)の人。本名熹(よみす)、字(あざな)は子悦、号は楽山。良沢は通称。中津藩の医官。青木昆陽にオランダ語を学び、「ターヘル‐アナトミア(解体新書)」の翻訳に際し、杉田玄白とともに指導的役割を果たした。著「和蘭訳筌」「魯西亜大統略記」など。享保八~享和三年(一七二三‐一八〇三

出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報 | 凡例

日本大百科全書(ニッポニカ) 「前野良沢」の意味・わかりやすい解説

前野良沢
まえのりょうたく
(1723―1803)

日本洋(蘭(らん))学の開祖。中津藩医。名は達、諱(いみな)は熹(よみす)(余美寿)、字(あざな)は子悦・子章、通称を良沢、号は楽山。なお別号蘭化は、藩侯が良沢のオランダ語研究の熱心さを庇護(ひご)し戯れに和蘭の化け物と称したことによるもの。1723年(享保8)筑前(ちくぜん)藩士谷口新介の子として江戸牛込矢来(うしごめやらい)に生まれた。幼時、父を亡くし母に去られ孤児となり、山城(やましろ)国(京都府)淀(よど)藩医官で伯父の宮田全沢(『医学知律』の著者)に育てられた。宮田は「他人が捨てて顧みないようなことに愛情をもち、世に残すよう心がけよ」と説き聞かせた。良沢はやがて中津藩医前野東元の養子となり、吉益東洞(よしますとうどう)流医学を修めた。一方宮田の訓育方針に従い、当時すでに廃れかかっていた一節切(ひとよぎり)の竹管器に習熟し、さらに猿若狂言(中村座の家狂言)の稽古(けいこ)にも通っていた。オランダ語の学習も当時では珍奇に属することであったが、同藩の坂江鴎(さかこうおう)に蘭書の残編を見せられたがわからず、同じ人間のすることがわからぬことはないと志をたてたのが始まりという。1769年(明和6)『和蘭文字略考』の著をもつ青木昆陽の手ほどきを受け、翌1770年長崎へ赴きオランダ通詞吉雄幸左衛門(よしおこうざえもん)(耕牛)・楢林栄左衛門(ならばやしえいざえもん)(1773―1837)・小川悦之進らについて学び、『マーリン字書』や解剖書『ターヘル・アナトミア』などを購求し江戸に帰った。江戸参府のカピタンや商館医を宿舎長崎屋に訪ねもした。1771年3月4日江戸千住小塚原(こづかっぱら)での死刑囚の腑分(ふわ)けを杉田玄白(げんぱく)・中川淳庵(じゅんあん)らと参観、ヨーロッパ人の解剖書の図の正確さを認め翻訳を決意、翌日から築地(つきじ)鉄砲州の中津藩邸内の良沢役宅で開始。知識・年齢に先行する良沢が盟主に推され、自作の『蘭訳筌(せん)』を同志に示しながら推進、1774年(安永3)8月『解体新書』全5冊を公刊した。しかし良沢は自分の名を出すことを拒否。訳後、同志と離れオランダ語学研究とオランダ書翻訳に専念した。語学書『蘭語随筆』『字学小成』『和蘭訳文略』『和蘭訳筌』などのほか、天文書『翻訳運動法』『測曜璣(ぎ)図説』、カムチャツカについて『東砂葛記』、ロシアの歴史『魯西亜(ロシア)本紀』『魯西亜大統略記』、『和蘭築城法』、良沢の識見を随所にみせるヨーロッパの諸事項の評書『管蠡秘言(かんれいひげん)』など、諸学啓蒙(けいもう)訳書を著した。また、高山彦九郎や最上徳内(もがみとくない)と交流し、大槻玄沢(おおつきげんたく)、江馬蘭斎(えまらんさい)(1747―1838)、小石元俊らの指導にもあたった。享和(きょうわ)3年10月17日没。墓は東京都中野区の慶安寺。1893年(明治26)正四位を贈られた。

[末中哲夫]

『岩崎克己著『前野蘭化』(1938・私家版/全3巻・平凡社・東洋文庫)』


出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

朝日日本歴史人物事典 「前野良沢」の解説

前野良沢

没年:享和3.10.17(1803.11.30)
生年:享保8(1723)
江戸中期の蘭学者,蘭方医。名は熹,字は子悦,号は楽山,蘭化で良沢は通称。本姓谷口氏。中津藩(中津市)藩医前野東元の養子となり,人のしないことをせよという伯父の淀藩医宮田全沢の感化を受けて育つ。のちのオランダ語学習もこの性癖によるものであろう。小柄で若いころはおとなしく平凡だったとも伝えられるが,43歳(一説に46歳)で青木昆陽に入門,オランダ語を学び,明和7(1770)年長崎で百日間通詞に就き,研鑽を積んだ。長崎で購入した『ターヘル・アナトミア』を携えて,明和8年3月4日杉田玄白らと江戸小塚原の腑分を実見。西洋解剖学の精確さに感嘆,翌日から江戸中津藩邸で同書の訳読を開始した。良沢は唯一オランダ語を解したので,実質的指導者として一同に教授しつつ,試行錯誤の翻訳を進めた。4年近い苦労の末,西洋医学書の初の邦訳で蘭学の記念碑たる『解体新書』が刊行された(1774)。良沢の名がそこにみられないのは,潔癖で学者肌の良沢が訳書の出来ばえを不満としたためとも,かつて太宰府で己れの功名を決して求めないことを誓ったためともいわれる。 『解体新書』公刊後は杉田玄白らとも疎遠になり,医学,語学,物理,地理,歴史,築城など多方面の蘭書の訳述に打ち込んだ。『和蘭訳文略』『和蘭訳筌』『翻訳運動法』『柬砂葛記』『魯西亜本紀』『和蘭築城書』などの著訳書は生前1冊も刊行されず,写本で流布し,30種余が現存する。なかでも西洋自然科学を「本然学」の名で紹介した『管蠡秘言』は,良沢の学問観,西洋観を表明して興味深い。また漢文訓読法を用いた「蘭化亭訳文式」を含む語学書は,オランダ語学を一応整理,体系化したもので,後世への影響が大きい。当時の良沢の名声は諸史料からうかがい知れるが,学問に没頭する「天然の奇士」良沢を,「和蘭の化物」(号蘭化の由来)「元来異人」と呼んで扶助した藩主奥平昌鹿の存在もまた忘れられない。良沢は交際ぎらいで門弟の教授も好まなかったが,代表的門人に大槻玄沢,江馬蘭斎がおり,高山彦九郎などとは焼酎を酌み交わして談じたという。<参考文献>岩崎克己『前野蘭化』

(鳥井裕美子)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

百科事典マイペディア 「前野良沢」の意味・わかりやすい解説

前野良沢【まえのりょうたく】

江戸中期の医学者,蘭学者。名は熹(よみす),号は蘭化。豊前中津藩医。初め古医方を学んだが,1769年青木昆陽から,翌年長崎に行き通詞からオランダ語を学び,杉田玄白らと協力,《解体新書》訳業の中心となった。弟子に大槻玄沢らがある。著訳書《和蘭訳筌》《字学小成》など多数。
→関連項目青木昆陽朽木昌綱工藤平助ターヘル・アナトミア中津藩吉雄耕牛蘭学

出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報

改訂新版 世界大百科事典 「前野良沢」の意味・わかりやすい解説

前野良沢 (まえのりょうたく)
生没年:1723-1803(享保8-享和3)

江戸中期の蘭学者,蘭方医。杉田玄白ら江戸蘭学グループの《解体新書》翻訳事業の顧問格として,江戸蘭学勃興期に指導的役割を果たした。名は熹(よみす),字は子悦,号を楽山また蘭化といい,良沢は通称。本姓は谷口氏。幼くして孤児となり,伯父の淀藩医宮田全沢に養育され吉益東洞流の古医方を修め,縁続きの豊前中津藩医前野家の養嗣子となって江戸に住んだ。オランダ語の手ほどきを青木昆陽に受けたが,その時期には数説(46歳,43歳,あるいはそれ以前)があって確定をみていない。長崎に遊学して吉雄幸左衛門,楢林栄左衛門,小川悦之進らにつき蘭語学を修め,《蘭訳筌》《和蘭訳筌》《和蘭訳文略》《字学小成》などの語学書のほか世界地理,築城書などの著訳書を著作したが,いずれも未刊。社交ぎらいで江戸蘭学グループとも晩年は疎遠であった。高山彦九郎とは親交があり,最上徳内とも交遊があり,門弟は数少ないが,大槻玄沢,江馬蘭斎ら次代を担った蘭学者を出している。
執筆者:

出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「前野良沢」の意味・わかりやすい解説

前野良沢
まえのりょうたく

[生]享保8(1723)
[没]享和3(1803).10.17. 江戸
江戸時代中期の蘭学者,医学者。名は熹,字は子悦,号は楽山,蘭化。良沢は通称。幼くして父母と死別し,叔父宮田全沢に育てられた。 47歳にして蘭学を志し,青木昆陽についてオランダ語を学び,さらに翌年長崎に遊学。明和8 (1771) 年骨ケ原 (小塚原) で,杉田玄白らと刑死体の解剖を見学したのがきっかけで J.クルムスの解剖書『ターヘル・アナトミア』を同志とともに翻訳,3年半で『解体新書』を完成したが,みずからは名前を出さなかった。著訳書に『管蠡秘言』『和蘭訳筌』『和蘭築城書』『輿地図編小解』『西洋画賛訳文稿』『仁言私説』『和蘭訳文略』『蘭語随筆』『魯西亜本紀』などがあり,洋学の普及に力を尽した。

出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「前野良沢」の解説

前野良沢 まえの-りょうたく

1723-1803 江戸時代中期-後期の蘭学者,蘭方医。
享保(きょうほう)8年生まれ。豊前(ぶぜん)中津藩(大分県)藩医前野東元の養子。青木昆陽(こんよう),吉雄耕牛(よしお-こうぎゅう)らにオランダ語をまなぶ。明和8年杉田玄白(げんぱく)らと刑死者の解剖を参観して「ターヘル-アナトミア」の翻訳を決意し,「解体新書」を刊行にみちびいた。門弟に大槻玄沢(おおつき-げんたく),江馬蘭斎(えま-らんさい)ら。享和3年10月17日死去。81歳。本姓は谷口。名は熹(よみす)。字(あざな)は子悦。号は楽山,蘭化。著作に「和蘭訳筌(オランダやくせん)」など。
【格言など】経営漫費人間力,大業全依造化功(経営みだりについやす人間の力,大業はすべて造化の功による)(自画像の賛)

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

山川 日本史小辞典 改訂新版 「前野良沢」の解説

前野良沢
まえのりょうたく

1723~1803.10.17

江戸中期の蘭学者・蘭方医。名は熹(よみす),号は楽山また蘭化。古方医の伯父宮田全沢に感化をうけた。青木昆陽(こんよう)にオランダ語を学び長崎へ遊学,オランダ通詞に学び蘭書を購入して帰府。1771年(明和8)3月4日江戸千住小塚原で腑分(ふわけ)を観察,「ターヘル・アナトミア」の正確さに驚嘆,翌日から築地鉄砲洲の中津藩邸内良沢の宿所で,杉田玄白(げんぱく)・中川淳庵らと会読を開始。オランダ語の教授と翻訳の主力となった。その成果が74年(安永3)に公刊された「解体新書」だが,良沢は自分の名の掲載を拒絶した。訳著に「蘭語随筆」「字学小成」「和蘭訳文略」「和蘭訳筌」「和蘭点画例考補」など語学書をはじめ,世界地理・築城書がある。

出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報

旺文社日本史事典 三訂版 「前野良沢」の解説

前野良沢
まえのりょうたく

1723〜1803
江戸中期の蘭学者
豊前(大分県)中津藩医。青木昆陽に蘭学を学んだ。1771年杉田玄白らと江戸小塚原で死刑囚の解剖を見て,『ターヘル‐アナトミア』の正確さに驚き,玄白らと翻訳,1774年『解体新書』として刊行した。

出典 旺文社日本史事典 三訂版旺文社日本史事典 三訂版について 情報

世界大百科事典(旧版)内の前野良沢の言及

【解体新書】より

…1774年(安永3)刊。1771年(明和8)の骨ヶ原(小塚原)の腑分けがきっかけとなって,当時《ターヘル・アナトミア》と俗称されたドイツ人クルムスJ.Kulmusの解剖書の蘭訳本(1734刊)を日本訳したもので,江戸の杉田玄白,前野良沢ら蘭学グループが参画したが,良沢の名前は記されていない。これは幕府の出版取締りをおしはかって,もし幕府のとがめを受けたとき,先輩で盟主格の良沢に累を及ぼさないための配慮とみられる。…

【大名屋敷】より

…また諸藩の江戸藩邸の維持経営に関する支出は,個々の藩財政の過半を占めてその迫(ひつぱく)をもたらすことともなった。なお,例えば築地鉄砲洲にあった豊前中津藩の中屋敷において,同藩医前野良沢が同志とともに《解体新書》の翻訳を進め1774年(安永3)に刊行したこと,また1858年(安政5)に同じ中屋敷内に福沢諭吉が蘭学塾を開いたことなどに見られるような,諸藩の江戸屋敷が果たした文化史的役割も見落とすことができない。幕末・維新期には荒廃したものもあったが,1870年(明治3)大名の藩邸と私邸を各1ヵ所に限るとされたほか,上地を命ぜられて新政府の役所や用地になったものや,新宿御苑(信濃内藤家下屋敷),小石川後楽園(水戸徳川家上屋敷),本郷東京大学(金沢前田家上屋敷)など学校,公園,公共施設などに利用されて現在に至るものが多い。…

※「前野良沢」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

今日のキーワード

プラチナキャリア

年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...

プラチナキャリアの用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android