日本洋(蘭(らん))学の開祖。中津藩医。名は達、諱(いみな)は熹(よみす)(余美寿)、字(あざな)は子悦・子章、通称を良沢、号は楽山。なお別号蘭化は、藩侯が良沢のオランダ語研究の熱心さを庇護(ひご)し戯れに和蘭の化け物と称したことによるもの。1723年(享保8)筑前(ちくぜん)藩士谷口新介の子として江戸牛込矢来(うしごめやらい)に生まれた。幼時、父を亡くし母に去られ孤児となり、山城(やましろ)国(京都府)淀(よど)藩医官で伯父の宮田全沢(『医学知律』の著者)に育てられた。宮田は「他人が捨てて顧みないようなことに愛情をもち、世に残すよう心がけよ」と説き聞かせた。良沢はやがて中津藩医前野東元の養子となり、吉益東洞(よしますとうどう)流医学を修めた。一方宮田の訓育方針に従い、当時すでに廃れかかっていた一節切(ひとよぎり)の竹管器に習熟し、さらに猿若狂言(中村座の家狂言)の稽古(けいこ)にも通っていた。オランダ語の学習も当時では珍奇に属することであったが、同藩の坂江鴎(さかこうおう)に蘭書の残編を見せられたがわからず、同じ人間のすることがわからぬことはないと志をたてたのが始まりという。1769年(明和6)『和蘭文字略考』の著をもつ青木昆陽の手ほどきを受け、翌1770年長崎へ赴きオランダ通詞吉雄幸左衛門(よしおこうざえもん)(耕牛)・楢林栄左衛門(ならばやしえいざえもん)(1773―1837)・小川悦之進らについて学び、『マーリン字書』や解剖書『ターヘル・アナトミア』などを購求し江戸に帰った。江戸参府のカピタンや商館医を宿舎長崎屋に訪ねもした。1771年3月4日江戸千住小塚原(こづかっぱら)での死刑囚の腑分(ふわ)けを杉田玄白(げんぱく)・中川淳庵(じゅんあん)らと参観、ヨーロッパ人の解剖書の図の正確さを認め翻訳を決意、翌日から築地(つきじ)鉄砲州の中津藩邸内の良沢役宅で開始。知識・年齢に先行する良沢が盟主に推され、自作の『蘭訳筌(せん)』を同志に示しながら推進、1774年(安永3)8月『解体新書』全5冊を公刊した。しかし良沢は自分の名を出すことを拒否。訳後、同志と離れオランダ語学研究とオランダ書翻訳に専念した。語学書『蘭語随筆』『字学小成』『和蘭訳文略』『和蘭訳筌』などのほか、天文書『翻訳運動法』『測曜璣(ぎ)図説』、カムチャツカについて『東砂葛記』、ロシアの歴史『魯西亜(ロシア)本紀』『魯西亜大統略記』、『和蘭築城法』、良沢の識見を随所にみせるヨーロッパの諸事項の評書『管蠡秘言(かんれいひげん)』など、諸学啓蒙(けいもう)訳書を著した。また、高山彦九郎や最上徳内(もがみとくない)と交流し、大槻玄沢(おおつきげんたく)、江馬蘭斎(えまらんさい)(1747―1838)、小石元俊らの指導にもあたった。享和(きょうわ)3年10月17日没。墓は東京都中野区の慶安寺。1893年(明治26)正四位を贈られた。
[末中哲夫]
『岩崎克己著『前野蘭化』(1938・私家版/全3巻・平凡社・東洋文庫)』
(鳥井裕美子)
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江戸中期の蘭学者,蘭方医。杉田玄白ら江戸蘭学グループの《解体新書》翻訳事業の顧問格として,江戸蘭学勃興期に指導的役割を果たした。名は熹(よみす),字は子悦,号を楽山また蘭化といい,良沢は通称。本姓は谷口氏。幼くして孤児となり,伯父の淀藩医宮田全沢に養育され吉益東洞流の古医方を修め,縁続きの豊前中津藩医前野家の養嗣子となって江戸に住んだ。オランダ語の手ほどきを青木昆陽に受けたが,その時期には数説(46歳,43歳,あるいはそれ以前)があって確定をみていない。長崎に遊学して吉雄幸左衛門,楢林栄左衛門,小川悦之進らにつき蘭語学を修め,《蘭訳筌》《和蘭訳筌》《和蘭訳文略》《字学小成》などの語学書のほか世界地理,築城書などの著訳書を著作したが,いずれも未刊。社交ぎらいで江戸蘭学グループとも晩年は疎遠であった。高山彦九郎とは親交があり,最上徳内とも交遊があり,門弟は数少ないが,大槻玄沢,江馬蘭斎ら次代を担った蘭学者を出している。
執筆者:宗田 一
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1723~1803.10.17
江戸中期の蘭学者・蘭方医。名は熹(よみす),号は楽山また蘭化。古方医の伯父宮田全沢に感化をうけた。青木昆陽(こんよう)にオランダ語を学び長崎へ遊学,オランダ通詞に学び蘭書を購入して帰府。1771年(明和8)3月4日江戸千住小塚原で腑分(ふわけ)を観察,「ターヘル・アナトミア」の正確さに驚嘆,翌日から築地鉄砲洲の中津藩邸内良沢の宿所で,杉田玄白(げんぱく)・中川淳庵らと会読を開始。オランダ語の教授と翻訳の主力となった。その成果が74年(安永3)に公刊された「解体新書」だが,良沢は自分の名の掲載を拒絶した。訳著に「蘭語随筆」「字学小成」「和蘭訳文略」「和蘭訳筌」「和蘭点画例考補」など語学書をはじめ,世界地理・築城書がある。
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…1774年(安永3)刊。1771年(明和8)の骨ヶ原(小塚原)の腑分けがきっかけとなって,当時《ターヘル・アナトミア》と俗称されたドイツ人クルムスJ.Kulmusの解剖書の蘭訳本(1734刊)を日本訳したもので,江戸の杉田玄白,前野良沢ら蘭学グループが参画したが,良沢の名前は記されていない。これは幕府の出版取締りをおしはかって,もし幕府のとがめを受けたとき,先輩で盟主格の良沢に累を及ぼさないための配慮とみられる。…
…また諸藩の江戸藩邸の維持経営に関する支出は,個々の藩財政の過半を占めてその迫(ひつぱく)をもたらすことともなった。なお,例えば築地鉄砲洲にあった豊前中津藩の中屋敷において,同藩医前野良沢が同志とともに《解体新書》の翻訳を進め1774年(安永3)に刊行したこと,また1858年(安政5)に同じ中屋敷内に福沢諭吉が蘭学塾を開いたことなどに見られるような,諸藩の江戸屋敷が果たした文化史的役割も見落とすことができない。幕末・維新期には荒廃したものもあったが,1870年(明治3)大名の藩邸と私邸を各1ヵ所に限るとされたほか,上地を命ぜられて新政府の役所や用地になったものや,新宿御苑(信濃内藤家下屋敷),小石川後楽園(水戸徳川家上屋敷),本郷東京大学(金沢前田家上屋敷)など学校,公園,公共施設などに利用されて現在に至るものが多い。…
※「前野良沢」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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