日本大百科全書(ニッポニカ) 「中越戦争」の意味・わかりやすい解説
中越戦争
ちゅうえつせんそう
1979年2月17日から同年3月16日にかけて展開された中国とベトナムとの戦争。中国軍は雲南、広西方面から侵攻し、ベトナム北部の主要都市ランソン、カオバン、ラオカイを占領した。中国は侵攻の目的をベトナム軍の国境侵犯に対する「自衛的反撃」であり「懲罰、制裁」であると主張したが、その背景には領土問題のほか、ベトナム戦争中の中国の支援にもかかわらず、ベトナムのソ連との提携強化、カンボジアにおける親ベトナム政権の樹立、華僑(かきょう)のベトナムからの大量帰国など、ベトナムの政策への強い不満があった。ベトナムからみれば、ベトナム戦争中からの中国の急速な対米接近と大国主義的政策に対する強い不信があった。中国軍は近代戦に慣れたベトナム軍によって多大の損害を強いられ、自主的に撤退したが、この戦争はアジアの社会主義国どうしの最初の戦争であり、両国は合計30万の兵力を動員し、数万の死傷者を出したといわれる。その後、国境線画定など紛争解決の交渉は続けられたが、武力紛争は絶えなかった。1989年に9年ぶりに中越次官協議が再開され、90年1月に、中越国境で相互に捕虜を交換し、91年8月北京(ペキン)で外務次官が関係正常化で原則合意。11月、ド・ムオイ書記長、ボー・バン・キエット首相が訪中、江沢民(こうたくみん)総書記、李鵬(りほう)首相と会談、両国はカンボジア紛争を背景とする1979年の中越戦争以来敵対していた両国関係を正常化した。しかし、西沙(せいさ)・南沙群島(Spratly Islands=南沙諸島ともいう)の領土問題、トンキン湾の国境線・陸上の国境紛争地問題が未解決事項として残存した。1994年11月、江沢民総書記兼国家主席がベトナムを公式訪問、(1)係争中の南沙群島など領海問題で「海上問題小委員会」を設置する、(2)陸上国境とトンキン湾の境界問題の早期解決を目ざすことで合意した。
[安藤正士]
1999年12月、朱鎔基(しゅようき)首相がベトナムを訪問、陸上の国境を確定する協定に調印、中国とベトナムの1300キロメートルにわたる陸上国境問題は解決をみた。さらに翌2000年12月にはチャン・ドク・ルオン大統領が中国を訪問、トンキン湾における領海確定に関する協定に調印し、トンキン湾での領海問題も解決したが、南沙・中沙諸島の領有権問題は未解決のままとなっている。
[編集部]