李鵬(読み)リーポン

デジタル大辞泉 「李鵬」の意味・読み・例文・類語

リー‐ポン【李鵬】

[1928~2019]中国の政治家上海出身周恩来の養子。1988年、首相に就任。1989年の天安門事件では、戒厳令発令などの強硬姿勢による鎮圧を主導した。

り‐ほう【李鵬】

リー=ポン(李鵬)

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「李鵬」の意味・わかりやすい解説

李鵬
りほう / リーポン
(1928―2019)

中国の政治家。四川(しせん)省出身。父は初期の共産党員で、1927年の南昌蜂起(なんしょうほうき)(南昌暴動)に参加、のち1931年に海南島で国民党に捕らえられて刑死した李碩勲(1903―1931)。母も初期の党員。1939年、周恩来夫妻に烈士の子として引き取られ、張家口工業専門学校などで学び、1945年入党。1948年モスクワ動力大学に留学、1955年帰国して吉林(きつりん)省豊満発電所技師長となり、1966年以降北京(ペキン)給電局長などを歴任、1979年電力工業部副部長、1981年部長となって中央政界に入る。1982年党中央委員、1985年中央政治局委員、中央書記処書記、また国家教育委員会主任を兼任、1987年中央政治局常務委員に任じ、最高指導者の一人となった(~2002)。そのあと国務院総理(首相)代行に就任、1988年4月中華人民共和国第4代目の国務院総理に任命された(~1998)。代表的なテクノクラート幹部といわれた。1989年(平成1)来日。長く総理の職にあって、1998年第二次天安門事件の処理にあたったが、同年、全国人民代表大会全人代)常務委員会委員長に就いた(~2003)。2003年政界を引退

安藤彦太郎 2019年8月20日]

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現代外国人名録2016 「李鵬」の解説

李 鵬
リ・ホウ
Li Peng

職業・肩書
政治家 元中国全国人民代表大会常務委員長,元中国首相,元中国共産党政治局常務委員

国籍
中国

生年月日
1928年10月20日

出生地
上海

学歴
延安自然学院,張家口工業専門学校,モスクワ動力学院水力発電科〔1954年〕卒

経歴
革命烈士・李碩勲の子。1939年以来、周恩来夫妻に育てられる。代表的なエリー技術者出身。1945年中国共産党入党。張家口工業専門学校などで学び、’46年以後ハルビン油脂公司副支配人、党支部書記など務める。’48年モスクワ動力学院に留学、中国在ソ留学生総会会長。’55年豊満水力発電所副所長、’66年北京電力管理局長を経て、’79年国務院電力工業省次官、’81年3月電力工業相、’82年水利省との合併で水利電力第1次官。同年9月党中央委員。’83年6月副首相。’84年来日。’85年6月〜87年国家教育委員会主任兼任。’85年9月党政治局員・中央書記局書記、’87年11月政治局常務委員、首相代行。’88年4月首相に就任。国家経済体制改革委主任兼任(’90年まで)。’89年4月来日。同年春の民主化運動の際は楊尚昆国家主席とともに強硬派路線を主張。5月19日座り込み学生排除のため軍隊を動員、20日戒厳令を発令、6月の天安門事件では武力で弾圧した。’92年10月党政治局常務委員再選。’93年3月首相再任。’97年11月来日。’98年3月第9期全人代で首相退任、常務委員長に選出される。また中国の対外政策の方向づけを行う党中央外事指導小組組長も務めた。2002年4月来日。同年11月党政治局常務委員を退任。2003年3月第10期全人代を最後に引退。1996年現役指導者としては初めて伝記が出版される。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「李鵬」の意味・わかりやすい解説

李鵬
りほう
Li Peng

[生]1928.10.20. 四川,成都
[没]2019.7.22. 北京
中国の政治家。国務院総理(首相。在任 1988~98)。3歳のとき革命家の父が中国国民党に殺害されたため,中国共産党の指示で周恩来の義理の息子になった。1945年中国共産党に入党。1948年よりソビエト連邦に留学し,中国ソ連留学生総会の主席を務めた。帰国後中国東北部の発電所の技術者や工場長を経て,北京電力管理局責任者,電力工業部副部長,同部長などを歴任。1982年党中央委員に初当選。1983年国務院副総理に就任,エネルギー,交通,原材料などの経済部門を主管し,1985年より国家教育委員会主任も兼任した。同 1985年党中央委員会政治局員と中央書記局書記に,1987年には政治局常務委員に選ばれた。1987年国務院総理代行,1988年趙紫陽の後任として総理に正式に就任し,楊尚昆江沢民国家主席のもとで首相職を務めた。1998~2003年全国人民代表大会(全人代)常務委員長。保守的政治姿勢のため,1989年の民主化運動(→天安門事件)の際,学生らによる辞任要求運動を弾圧するため戒厳令をしいたことから,西側からの反発を招いた。

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「李鵬」の解説

李鵬(りほう)
Li Peng

1928~

中国現代の政治家。四川省成都の人。革命遺児として11歳のときに周恩来夫妻の養子となる。1945年中国共産党に入党し,48~55年ソ連に留学。帰国後一貫して水利・電力部門で昇進を重ね,82年より中央委員,83年国務院副総理,85年より中央政治局委員,87年より中央政治局常務委員・国務院総理を歴任。89年の天安門事件に際して学生運動の鎮圧を指示し,改革・開放についても保守派と目されている。他方,98~2003年まで常務委員会委員長を務めた全国人民代表大会(全人代)では,その立法・監督機能強化を促進した。2003年3月の第9期全人代第5回会議を最後に権力の中枢から引退。

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百科事典マイペディア 「李鵬」の意味・わかりやすい解説

李鵬【りほう】

中国の政治家。四川省生れ。少年時代,周恩来夫妻の養子として育てられた。1945年入党,1948年―1955年党から選ばれてソ連に留学。中央政界入りは文化大革命後で,1982年党中央委員,1983年副首相。1985年政治局員に昇格,1987年首相代行となり,1988年正式に首相就任。
→関連項目天安門事件【とう】穎超

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知恵蔵mini 「李鵬」の解説

李鵬

中国の政治家。1928年10月20日、上海市生まれ。3歳の時に中国共産党初期の指導者であった父が中国国民党に処刑され、周恩来の養子となった。45年、共産党に入党する。48年よりソ連に留学し、モスクワ科学動力学院で水力発電を学んだ。帰国後は技術者として発電作業などに従事する。その後政界入りし、電力工業部部長(大臣に相当)などを歴任した。82年に共産党の中央委員に選出され、83年には副首相に就任。88年、首相に就任した。89年の天安門事件においては強硬姿勢をとり、戒厳令を発令して民主化運動を弾圧した。98年、首相を退任。2003年まで全国人民代表大会常務委員長を務め、同年に政界を引退した。19年7月22日、90歳で死去した。

(2019-7-25)

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旺文社世界史事典 三訂版 「李鵬」の解説

李 鵬
りほう
Lǐ Péng

1928〜  
中国の首相(在任1988〜98)
四川省出身。周恩来を養父にもち,電力関係の技術者から共産党の要職へ。1983年副首相,88年趙紫陽の後任として首相に就任。1989年の第2次天安門事件では学生運動の弾圧を指揮した。1998年任期満了退任後は全国人民代表大会常務委員長(国会議長に相当)に就任。

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367日誕生日大事典 「李鵬」の解説

李 鵬 (り ほう)

生年月日:1928年10月20日
中国の政治家。首相

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