日本大百科全書(ニッポニカ) 「飯田藩」の意味・わかりやすい解説
飯田藩
いいだはん
信濃(しなの)国(長野県)飯田・伊那(いな)地方を領有した藩。1590年(天正18)徳川家康の関東移封後、毛利秀頼(もうりひでより)により伊那郡10万石支配の拠点として、飯田城と城下町が拡張され、1601年(慶長6)小笠原秀政(おがさわらひでまさ)により、下伊那の約半分、上伊那の一部(箕輪(みのわ)郷1万石)を飛地(とびち)とした飯田藩5万石の成立となった。小笠原氏の松本移封後、4年の幕領を過ぎ、1617年(元和3)四国の大洲(おおず)より脇坂安元(わきざかやすもと)の飯田藩入封となり、小笠原時代の旧領が引き継がれ(ほかに上総(かずさ)に5000石領知)、1672年(寛文12)以降、堀氏により明治維新までの支配が続くが、堀氏の領有は飯田城周辺2万石のみであった。脇坂・堀氏とも外様(とざま)大名であるが、脇坂安元、堀親昌(ちかまさ)などは文人藩主として知られる。堀氏18代の親(ちかしげ)は、幕府の要職にあり7000石を加増され、老中格に進んだが、水野忠邦(ただくに)の失脚に伴い、1万石の減封を受けている。小笠原氏時代、伊那街道の西に春日(かすが)街道が開かれ、寛文(かんぶん)期(1661~1673)以降中馬(ちゅうま)街道として、本州中部を貫く往還道から物資が尾張(おわり)、三河方面へ搬出され、また流入した。飯田の街には日に数千の馬が出入りし、中馬(農民による駄馬輸送)による商品流通が藩の農産業に影響した。中馬一件(中馬と宿駅との抗争)、紙問屋一件(特産の紙に課す問屋口銭への反対)などの騒動の記録により、産物の動きを知ることができる。小藩飯田藩の財政は苦しく、早くから藩財政は御用達商人の手に握られていた。1762年(宝暦12)の千人講騒動(財源確保の強制講に反対)、1869年(明治2)の偽(にせ)分金(チャラ金)騒動(偽金引替え要求)など、城下の打毀(うちこわし)が激しかったことで知られている。1871年(明治4)廃藩、飯田県、筑摩(ちくま)県を経て、1876年長野県に編入された。
[堀口貞幸]
『『新編物語藩史 第4巻』(1976・新人物往来社)』▽『「飯田郷史考」(『市村咸人全集 第6巻』所収・1980・下伊那教育会)』