1918年着工,34年12月使用開始した,東海道本線熱海~函南間にある延長7840m(完成時は7804m,その後落石防止工事に伴って延長)の複線型鉄道トンネル。これ以前の東海道本線は,国府津~沼津間では現在の御殿場線を通っていたが,この線区は急曲線と急こう配の連続する60km余のルートであった。この改良案として海岸側を通って小田原,湯河原,熱海を経由,伊豆半島の付け根に当たる山地をこの丹那トンネルで貫き,三島を経て沼津で合流する延長48.5km,最急こう配1000分の10の熱海線を建設し,東海道本線に切り換える計画がたてられた。この改良計画は,トンネル工事としても従前のもの(例えば笹子トンネルなど)から飛躍的に大型で,その後の清水トンネルや関門海底トンネル計画への発展の引金となった点で意義深いものであった。丹那トンネル建設地の地質は,富士火山帯に属する複雑な構造をもち,玄武岩や凝灰岩のほか,固結度の低い火山れき,火山灰,砂層などが混在し,加えて火山の熱水作用で変質した温泉余土と呼ばれる膨張性の強い粘土化した地層がある。また多数の断層と高圧の多量の地下水があって,世界のトンネル工事史上に残る難工事となり,16年の工期を費やして完成を見た。犠牲者67人。工事用に電気機関車を全面的に用いるなど当時として最高の技術が傾注され,地質の悪さを克服するため,それ以前には例の少ないセメント注入や薬液注入の研究開発,圧気工法やシールド工法の採用などが行われた。また大量の湧水の処理のためにトンネル本坑の2倍余の1万6000mの水抜坑や迂回坑が掘られた。数度の出水事故にも見舞われ,トンネル直上の丹那盆地一帯に大規模な渇水被害を生じさせた。
1960年代の東海道新幹線の建設に当たっては,丹那トンネルの北側に50m離れて並行に新丹那トンネル(新幹線複線型,7959m)がつくられた。一部は1941-43年に弾丸列車計画で掘られていたが,59年10月着工,64年9月,約5年という短期間で完成した。これは地質状況が知られていたこと,地下水が抜けていたこともあるが,鋼アーチ式支保工や大型トンネル機械の駆使など,トンネル技術の向上に負うものであり,新旧トンネルとも日本トンネル技術にとって時代の代表に挙げられている。
執筆者:吉村 恒
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東海道本線熱海(あたみ)―函南(かんなみ)間の長さ7804メートルの複線鉄道トンネル。1918年(大正7)着工し、1934年(昭和9)開通。丹那トンネル開通前、東海道本線は御殿場(ごてんば)を経由しており、1000分の25の急勾配(こうばい)区間があって輸送の隘路(あいろ)となっていた。そこで最急勾配を1000分の10とする改良線が計画され、伊豆半島北部山地を東西に横断するこのトンネルが掘進された。丹那トンネルの開通により、東海道本線国府津(こうづ)―沼津(ぬまづ)間が11.6キロメートル短縮された。当初工期は7年であったが、多量の高圧湧水(ゆうすい)、温泉余土(温泉の熱湯によって変質した粘土。膨張性をもつ)、断層などのために難渋し、16年の年月をかけて完成した。
工事中の大事故は4回を数え、とくに殉職者を出した大事故は次の3回であった。(1)1921年(大正10)4月1日の東口990フィート(約302メートル)付近の崩壊事故では、33人の作業員が埋没され、16人が死亡、17人は8日間の生埋め後に救出された。門屋盛一、飯田清太(1889―1975)両氏の沈着な指導によるもので、当時の新聞に事故状況が詳細に報道されている。(2)1924年2月10日の西口4950フィート(約1509メートル)付近の事故では、16人の作業員が土砂に埋没し殉職している。(3)1930年(昭和5)11月26日、北伊豆地震により、西口1万0800フィート(約3292メートル)付近が崩壊、5人が埋没し、2人は救助されたが3人が殉職した。
トンネル工事中に、これらの大事故を含め合計67人の工事殉職者を出し、日本の鉄道トンネル工事史上、最大の難工事であった。
[藤井 浩]
新幹線の熱海―三島(みしま)間の長さ7959メートルの複線鉄道トンネル。東海道本線丹那トンネルの北側を50メートル離れて併設されている。1941年、当時の東京―下関(しものせき)間弾丸鉄道トンネルとして着工したが、1943年8月第二次世界大戦のため工事は中止された。東海道新幹線工事のトップをきって、1959年(昭和34)工事再開、1964年開通。丹那トンネル工事の経験を生かし、導坑(小断面のトンネル)を先進させ湧水を排出させて温泉余土区間、丹那断層区間を掘進している。従来の木材支保工にかえて、H形鋼アーチ支保工を使用し、工事の安全性を確保した。
[藤井 浩]
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東海道本線熱海―函南(かんなみ)間の丹那盆地の下を通る全長7841mの長大トンネル。第2次大戦以前には清水トンネル(9702m)に次ぐ規模であった。1918年(大正7)に着工されたが,多量の湧水,温泉余土,断層,北伊豆大地震などに悩まされ,67人の犠牲者を出しながら,34年(昭和9)12月使用開始。国府津(こうづ)―沼津間の所要時間はほぼ2分の1に短縮され,牽引力も3倍に向上した。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
…伊豆半島の付け根にあたる静岡県田方郡函南(かんなみ)町にある盆地。標高約230m,直径約1kmの小盆地で,直下を東海道本線の丹那トンネルが東西に通過している。多賀火山の西斜面の一部が断層運動によって落ち込み,形成されたもので,丘陵性の山に囲まれ,火山灰におおわれる。…
…以来,国内の鉄道建設の伸長につれて,地形の険しい日本では多数のトンネルが必要となり,また火山性などの複雑かつ困難な地質条件を克服する必要から,トンネル技術の進歩が大いに促進され,日本を有数のトンネル技術国たらしめることとなった。明治,大正,昭和の前半にかけては,笹子トンネル(1896‐1902年,延長4.6km),清水トンネル(1922‐31年,延長9.7km),丹那トンネル(1918‐34,延長7.8km),関門トンネルなどが代表的なものとされる。第2次世界大戦後は,在来鉄道の複線化やこう配改良,新線建設などにより,北陸トンネル(1957‐61年,延長13.9km)や新清水トンネル(1963‐67年,延長13.5km)などが生まれ,また新幹線の建設は一挙に多くの長大トンネルを生み出すこととなり,1981年には世界最長の大(だい)清水トンネル(延長22.2km)が完成している。…
※「丹那トンネル」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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