神奈川県南西部、足柄下郡(あしがらしもぐん)にある町。南部と西部は静岡県(熱海(あたみ)市、函南(かんなみ)町)に接する。1926年(大正15)町制施行。1955年(昭和30)吉浜(よしはま)町、福浦村と合併。JR東海道本線、国道135号、真鶴(まなづる)道路、箱根ターンパイク、湯河原パークウェイが通じる。町域は地形上、湯河原火山の火口底と火口瀬(千歳(ちとせ)川本・支流)の低地、奥地は箱根火山の古期外輪山の斜面である。湯河原火山の火口底を流れる藤木川(千歳川支流)の川床を中心に温泉(上の湯、下の湯)が湧(わ)き出し温泉街が発達した。湯河原には多くの文化人が訪れていて、温泉街には「湯河原ゆかりの美術館」(現、町立湯河原美術館)と万葉公園がある。また、これより川沿いに約3キロメートル上った所に奥湯河原温泉があり、閑静な谷間の湯として知られ、周囲は県立奥湯河原自然公園になっている。泉質は単純温泉、塩化物泉、硫酸塩泉などで、1934年(昭和9)の丹那トンネル(たんなとんねる)の開通後急速に発展した。箱根とは湯河原パークウェイと湯河原新道(椿(つばき)ライン)で結ばれ、沿道一帯は広くミカン園に開かれている。中世初頭は土肥氏(どいうじ)の本拠地として知られ、いまもその山城(やまじろ)跡(城山、563メートル)が残っている。湯河原駅に近い城願寺(じょうがんじ)は土肥氏の館(やかた)跡とされ、土肥一族の墓があり、吉浜の土肥椙山(すぎやま)の巌窟(がんくつ)は石橋山の合戦に敗れた源頼朝(よりとも)が隠れていた岩穴といわれる(ともに県指定史跡)。また城願寺のビャクシン、城堀(じょうぼり)の山神の樹叢(じゅそう)は国指定天然記念物である。面積40.97平方キロメートル、人口2万3426(2020)。
[浅香幸雄]
『『湯河原町史』(1984~1987・湯河原町)』
神奈川県南西端,足柄下郡の町。人口2万6848(2010)。静岡県境にあたる千歳川と箱根外輪山から流出する藤木川の合流部に温泉がわき,〈刀比(とい)の湯〉〈土肥(とい)の湯〉〈小梅の湯〉などと呼ばれて,《万葉集》巻十四にも,〈足柄(あしがり)の土肥の河内(こうち)にいづる湯〉と詠まれている。中世には相模平氏の分流土肥氏の拠点となり,近世は土肥村に属した。湯河原温泉(含セッコウ食塩泉,41~88℃)は明治末年ころから旅館がふえはじめ,日露戦争時に陸軍の療養所ができて著名となった。1887年東海道線が国府津(こうづ)まで通じたが,熱海までは人車鉄道(のちに軽便鉄道となる)によるしかなかった。湯河原が急速な発展をみたのは1934年の丹那トンネルの開通以後である。いま温泉街は古くからの温泉場地区のほか広河原(奥湯河原ともいう)地区と湯河原駅付近に広がる。旅館約100軒,民宿・ペンション40軒を数える。近年有料老人ホーム,リゾートマンションなどの施設が増えている。箱根山へは椿ラインと湯河原パークウェーが通じ,箱根と一帯となった観光地となっている。ミカン狩りなど観光農業が行われる。土肥一族の墓がある城願寺のビャクシン,山神の樹叢は天然記念物。
執筆者:伊倉 退蔵
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…中世には相模平氏の分流土肥氏の拠点となり,近世は土肥村に属した。湯河原温泉(含セッコウ食塩泉,41~88℃)は明治末年ころから旅館がふえはじめ,日露戦争時に陸軍の療養所ができて著名となった。1887年東海道線が国府津(こうづ)まで通じたが,熱海までは人車鉄道(のちに軽便鉄道となる)によるしかなかった。…
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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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