翻訳|Bauhaus
1919年,ドイツのワイマールに設立された美術工芸学校。25年デッサウに移り,33年ベルリンでナチスによって解散させられる。同校における教育・造形活動は,近代デザイン,建築に重要な影響をあたえた。
バウハウスがワイマールに誕生する一般的な背景には,20世紀のはじめ以来のドイツの建築,工業デザインの発展がある。創設者W.グロピウスはこの新しい傾向のなかでももっとも際だった存在で,ファグス靴工場(1911),ケルンのドイツ工作連盟博覧会(1914)の建築で,新しい建築言語を確立していた。現実的には,ワイマール工芸学校の校長であったH.バン・デ・ベルデが第1次大戦の勃発によって敵国人になったため,後事をグロピウスに託そうとしたことからはじまる。グロピウスは大戦中に学校側から交渉をうけ,大戦後の1919年に校長に就任,大公アカデミーと工芸学校を併合して,25年〈ワイマール国立バウハウスStaatliches Bauhaus,Weimar〉と改称した。後年,バウハウスをめぐる政治的な論争の種はすでにそのときにあった。バウハウスの〈バウ〉は〈建物〉の意であるが,同時に,種をまき,育てるという含意もあった。
グロピウスの最初のマニフェスト(1919)で明らかにされたように,バウハウスにおいてはあらゆる造形活動は窮極的に建築に統合されるという考え方があったが,J.イッテンの提案した〈予備過程Vorkurs〉がその教育の特色をなすようになった。最初に招いた教授はイッテンのほか,マルクスG.Marcks,ファイニンガーL.Feininger,マイヤーA.Meyerで,ついでムッヘG.Muche,O.シュレンマー,P.クレー,W.カンディンスキー,さらにL.モホリ・ナギ等が招聘(しようへい)された。イッテンは23年にバウハウスを去るが,広い視野で造形の基礎的探究が中心に据えられたのはイッテンの功績である。バウハウスのこの時期の特色は機械的な生産よりも職人的技術の習得に力が入れられ,造形マイスターと技術マイスターの共同で運営される家具,金工,陶器,ステンド・グラス,壁画などの各工房が理想的共同体を目ざして設置された。新しい製品の開発,生産活動も行われたが,それはバウハウスを支える経済的な基盤にはならず,同校はワイマール市の財政援助によって成り立っていた。
バウハウスは当時の最も先端的な芸術家を集め,またグロピウス自身,政治的に急進的な建築家のグループのメンバーでもあったこともあって,同校は最初から民族主義的・保守的な建築家,ジャーナリズムの攻撃をうけた。また時代の社会的状況もたえずバウハウスを圧迫する。ついに1924年末,バウハウスはワイマールにおける活動を停止せざるをえなくなるが,それを救ったのがデッサウの市長F.ヘッセであった。25年バウハウスはデッサウに移り,翌年グロピウスの設計した新校舎,教員住宅が完成。バウハウスの名は,幾何学的形態,機能主義と結びついて〈バウハウス様式〉の名で大衆にも知られるようになるが,それはグロピウスらの意図するところではなかった。このころからバウハウスの卒業生が教授陣に加わりはじめる。タイポグラフィーと広告の部門を築いたH.バイヤー,家具に新境地をひらいていたM.L.ブロイヤー,彫刻のシュミットJ.Schmidtらである。
バウハウスはワイマール時代には建築の部門をもっていなかったが,27年グロピウスは建築部門を設けるとともに,スイス人の建築家マイヤーHannes Meyer(1889-1954)を招いた。グロピウスとマイヤーとの考え方にはかなり相違があったはずで,このいきさつはいまひとつ明らかでない。28年グロピウスが退き,マイヤーが校長に就任する。マイヤー時代に,バウハウスはグロピウスの精神を継承しながら,さらに社会的生産,機能性の重視の方向に近づいた。この時代にヒルバーザイマーL.Hilberseimer,ペーターハンスW.Peterhansが教授陣に加わって都市計画と写真の専門クラスができる。しかしマイヤーの政治的思想は,バウハウスの敵対者の攻撃の火に油を注ぐ結果になり,30年彼は退任を余儀なくされ,L.ミース・ファン・デル・ローエが後任の校長になる。この間,26年には雑誌《バウハウス》が創刊され,25-30年には《バウハウス叢書Bauhausbücher》(14冊)が刊行された。
デッサウ市の評議会はやがてナチスに牛耳られ,1932年にバウハウスの解散を決議する。ミース・ファン・デル・ローエはバウハウスをベルリンに移し,〈私立バウハウス〉として存続をはかるが,33年ナチスの政権獲得とともに,ついに閉鎖され,教授陣の多くは海外に移住した。これによってドイツでのバウハウスは終わったが,グロピウス,モホリ・ナギ,ミース・ファン・デル・ローエ,アルバースらはそれぞれの移住先で,その教育方針を継承することになる。とりわけ,モホリ・ナギが37年シカゴに創設した〈ニュー・バウハウス〉(現,インスティチュート・オブ・デザイン)は,アメリカにおけるデザイン教育の中心となった。
バウハウスに対する評価は,それにつづく時代によって影響をうけざるをえない。〈近代〉というおおまかな概念のもとにバウハウスの思想,デザインの方法などが一括して葬られる傾向がなくはないが,20世紀における芸術,社会,思想をとらえるうえで,バウハウスに対する研究,評価はむしろ今後に残されているといってもよい。それは,バウハウスが探究した視覚,言語,空間や運動,身体などの問題が現在も課題として残されているからである。なお,バウハウスに学んだ日本人生徒として山脇巌,道子夫妻,水谷武彦がいる。
執筆者:多木 浩二
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1919年、建築家ワルター・グロピウスが構想してワイマールに設立した学校。同地にあった美術学校と工芸学校を合併し、新時代へ向けての工芸、デザイン、建築の刷新を図ろうとしたものである。以後、1933年にナチス政権によって閉鎖に追い込まれるまで、近代デザインや近代建築の諸問題が検討され、豊かな実りをあげた。工業生産のなかでのデザイン、機能主義に立脚した建築などへの方向づけがバウハウスを拠点にして示されたことが大きくあげられるが、バウハウスの理念はかならずしもこうした意味での近代主義に偏っていたのではなく、今日もなおそこに立ち返らなければならないデザインの基本的な活力をあわせもっている。
デザインや建築を総合的に把握しようとしたグロピウスの教育方針に基づいて、イッテン、ファイニンガー、クレー、シュレンマー、カンディンスキーらの芸術家がバウハウスにかかわったことが大きな特色としてあげられる。彼らは側面からではあったが、バウハウスのデザイン理念を肉づけするために貢献した。開校当初は手業による工芸学校的な要素が強かったが、しだいに本来の軌道に入り、1923年には「芸術と技術――新しい統一」というテーマでバウハウスの成果を世に問うことになった。同年に定められた教育課程によれば、学生はまず予備課程において半年の基礎的な造形訓練を受け、木工、木石彫、金属、陶器、壁画、ガラス絵、織物、印刷の各工房へ進む。ここで学生は芸術家(形態教師とよばれた)から造形の理念を学び、一方で技術者(工作教師)から、より実際的な技術を修得するというシステムがとられた。各工房で3年の課程を経たのち、すべてを統括する建築課程へ進むことになる。この年、多才な造形家モホリ・ナギがバウハウスに迎えられ、教師の陣容もいっそう整えられた。しかし不運にもこのころワイマールに経済不調があって国立バウハウスの経済的基礎が崩れ、1925年には反動的な政府の圧迫から閉鎖のやむなきに至り、デッサウ市の招きで市立バウハウスとして再編された。
デッサウのバウハウスではワイマール期の卒業生アルベルス、バイヤー、ブロイヤーらが新たに教員スタッフに加わり、それぞれの工房も飛躍的に充実した。この時期、新しい生産方式に基づいたデザインのあり方が追求され、また工房の作業は産業界と実際に連携して成果があった。グロピウス設計によるバウハウスの校舎(1926)は、工業時代特有の構造と機能美の統一によって、デッサウ期のバウハウスの精神を象徴的に語り出している。1925年からはバウハウス叢書(そうしょ)の刊行が始まり、幅広いデザイン思考の形成に寄与した。ここにはオランダの「デ・ステイル」派やロシアのマレービチの著作も含められ、バウハウスがもっていた国際的なつながりを知ることができる。1928年、いちおうの役割を果たしたグロピウスが退陣し、ハンネス・マイヤーが校長となった。マイヤーは、バウハウスのなかにあった形式主義的な一面を批判し、民衆への奉仕がデザイン本来の仕事であることを強調して新しい道筋を切り開こうとしたが、デッサウ市との対立で1930年にバウハウスを離れた。その後バウハウスはミース・ファン・デル・ローエに引き継がれ、1932年にナチスの弾圧でベルリンに地を移したのち、この私立バウハウスも1933年には完全に閉鎖された。
しかし、バウハウスの精神は亡命した教師、卒業生によって継承された。とくにグロピウスとブロイヤーが教えたハーバード大学建築学部、モホリ・ナギが設立したシカゴのニュー・バウハウス(インスティテュート・オブ・デザインを経てイリノイ工科大学デザイン学部に合併)など、アメリカのデザイン教育に及ぼした影響は著しい。またドイツではバウハウスの卒業生マックス・ビルによって1955年にウルム造形大学が開かれ、新たに再出発した。
日本のデザイン界も水谷武彦(1898―1969)、山脇巌(いわお)(1898―1987)・道子(1910―2000)夫妻の留学以来、バウハウスから多くを吸収して今日に至っている。さらに、デッサウの校舎も復原され、ベルリンのバウハウス資料館ともども、バウハウス再評価がいつの時代にも必要であることにこたえようとしている。なお、ユネスコ(国連教育科学文化機関)の世界遺産の文化遺産(世界文化遺産)として、「ワイマール、デッサウおよびベルナウのバウハウスとその関連遺産群」が登録されている。
[高見堅志郎]
『利光功著『バウハウス――歴史と理念』(1970・美術出版社)』▽『杉本俊多著『バウハウス――その建築造形理念』(1979・鹿島出版会)』
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(武正秀治 多摩美術大学教授 / 2007年)
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1919年にヴァルター・グローピウスがドイツのヴァイマルに創立した総合建築デザイン学校,またここを中心として展開された機能主義的な建築造形運動の名称。現代建築と建築デザインに大きな影響を及ぼしたが,その革新的な思想は保守派の攻撃にさらされ,25年ヴァイマルを去ってデッサウに移り,さらにベルリンで再興を図ったが,33年ナチスの政権掌握とともに閉鎖された。グローピウスなど指導者はアメリカなど海外に移住して新建築を世に広めた。
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…建築を同時代の社会観・宗教観の反映と見るピュージンや,ゴシック建築を構造合理性の極致として解釈してみせたビオレ・ル・デュクはその典型である。中世をモデルとする態度は19世紀の建築,都市論の特徴といってよいが,それは20世紀の〈田園都市Garden City〉やバウハウスなどの理念にも受け継がれている。しかし,実際の造形がゴシック様式や他の歴史様式を基調とする限りにおいては,それらを近代建築と呼ぶことはできない。…
…第1次大戦で兵役に服したが,敗戦後はいち早くベルリンにてB.タウトらと芸術労働評議会を結成,建築を中心とした前衛的な造形芸術運動をおこす。他方ワイマール大公国から要請のあったのを機に,1919年全く新しい教育施設〈バウハウス〉を設立し校長に就任。工芸から建築までのあらゆる造形芸術の再構成のための徹底した教育実践を試みる。…
…政治状況と密接に関連したもう一つの芸術運動に,ダダの分流たるシュルレアリスムがあった。ワイマール期の前衛芸術運動で落とすことのできないのは,1919年4月,ワイマールに設立された〈バウハウス〉である。これは建築のほか絵画や工芸を含めた総合的な創造の場であり,〈労働共同体〉というユートピア的社会組織が熱っぽく説かれた。…
…ミュンヘン),そのころからはじまるP.ベーレンスのAEG電機会社での建築,工業製品,広告などにわたる一貫した活動,さらにアメリカの生き生きした産業社会に触れてヨーロッパの文化的遅滞を痛感したA.ロースの激しい言説(〈装飾は罪である〉。1908)などを経て,第1次大戦後のドイツにバウハウスが設立されたとき,である。 B.タウトら表現主義の影響をうけながらW.グロピウスが1919年ワイマールに設立したバウハウスは,産業革命以来の生産物のみならず視覚的コミュニケーションにおける上記のような先駆的活動を統合するもので,その教育システムに,デザインの思想が表現されていた。…
…〈プロパガンダ〉として絵画を市民社会の実相の暴露に変えたG.グロスや,コラージュの手法を闘争の武器に変えたハートフィールドは,アバンギャルドがワイマール共和国の混沌の中で体現した一つの極点を示している。 ワイマール文化の中で国際的にもっとも大きな影響を及ぼしたのは,〈バウハウス〉運動を核とするドイツの建築・都市計画の新しい成果だった。革命的高揚期のユートピア的傾向から,鉄とガラスとコンクリートの機能主義的なインターナショナル・スタイルを確立して,今日の世界を支配する近代主義建築のモデルを生み出すまで,アバンギャルドと勤労者大衆のためにという社会主義イデオロギーとの結合は,ワイマール文化の両義性を目に見えるものとして提示してくれた点で,大きな意味をもつ。…
※「バウハウス」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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