二枚橋村(読み)にまいばしむら

日本歴史地名大系 「二枚橋村」の解説

二枚橋村
にまいばしむら

[現在地名]御殿場市二枚橋・東田中ひがしたなか一―三丁目

本村ほんそん栢木かやのき北原きたばらの三ヵ所に分散している村で、本村萩原はぎわら村の東に位置し、西田中にしたなかかや北久原ほつくばら村などを挟んで本村の北方に栢木、東田中村を挟んで本村の北東北原がある。本村の中央を御殿場道が走り、小山おやま川と鮎沢あゆざわ川が本村を流れ、ぬけ川が栢木を東流している。村の始まりは栢木で、二枚の橋を架けて他の地域に移り住んだとの伝承がある。寛永改高附帳では田高一一五石余・畑高四八石余。正保四年(一六四七)検地帳(二枚橋区有文書)によれば、高三二五石余、反別は田方二〇町一反余・畑方一五町二反余、名請人数三六(本村一四・栢木一一・北原一一)。貞享三年(一六八六)の村指出帳(勝又家文書)によれば、家数三七、この内訳は名主一、組頭四(うち村足軽一)・本百姓一〇・村足軽二・無田八・隠居六・門屋五・定使一、人数一九二、馬三一・牛一。


二枚橋村
にまいばしむら

[現在地名]飯舘村二枚橋

東流する新田にいだ川流域に位置し、村内を経て南西の伊達郡在飯坂ざいいいざか(現川俣町)に至る道がある。明暦二年(一六五六)に西の須萱すがや村を分村(相馬藩政史)正保郷帳では田方七三石余・畑方四八石余。明暦二年の高四五石余(相馬藩政史)元禄郷帳によると高四五石余。安永三年(一七七四)の高七四石余・免三ツ(「山中郷年貢皆済目録」飯舘村史)。嘉永四年(一八五一)の高六三石余・免二ツ二分(「山中郷本田新高帳」同書)。天明三年(一七八三)の家数二五、嘉永元年の家数一六(検地石高収納戸口等調)。なお同三年の村明細帳(飯舘村史)によると高三三石余、田畑三五町余、家数一七(うち給人四・寺一)


二枚橋村
にまいばしむら

[現在地名]白河市関辺せきべ

新郷渡しんごうど村の南西、藤野ふじの川右岸に位置する。標高六一九メートルのせき山頂上に所在する関山満願まんがん(現真言宗智山派)門前村で、集落は北麓に散在する。関山登り口に弘化五年(一八四八)建立の壱丁目の碑がある。郷帳類では旧高旧領取調帳にのみ記され、「本文ノ廉辛未年間新規高受相成候分」と注記され、石高記載はない。越後高田藩領。宝暦一一年(一七六一)の巡見使案内記(菊池家文書)によれば門前家数一七・人数五八、馬五。鎮守稲荷明神。同社にはお棚を設けて太鼓を打鳴らす天道念仏踊が伝わる。明治九年(一八七六)郷渡ごうど村・新郷渡村と合併して関辺村となる。満願寺は天平六年(七三四)聖武天皇の勅願所として行基により開かれたと伝え、本尊の聖観音は天皇の持仏であるという(東奥白河往昔之記)


二枚橋村
にまいばしむら

[現在地名]花巻市二枚橋・二枚橋町大通にまいばしまちおおどおり・二枚橋町南にまいばしまちみなみ二枚橋町北にまいばしまちきた卸町おろしまち

西宮野目にしみやのめ村の北に位置し、東は南北に走る奥州街道を境にくず村、西は大畑おおはた村など。天和二年(一六八二)の惣御代官所中高村付には蔵入高五四石余とあり、七ヵ年平均の免は一ツ三分六厘六毛。元禄十郡郷帳によると当村は大畑村に入るとある。「邦内郷村志」では蔵分一三六石余、家数三。享和三年(一八〇三)の仮名付帳では家数四。「湯本村誌」によれば天和二年より元禄三年(一六九〇)頃までに四代盛岡藩主南部重信による開田(高一三〇石余)が行われたが、干害のためその後荒廃したという。


二枚橋村
にまいばしむら

[現在地名]豊浦町あら

荒町村に隣接する。慶長三年(一五九八)頃の新発田御領内高付帳(新発田市史資料)に村名がみえ、六二一石九斗九升とある。同一二年の給人開田方定納之帳(同資料)によると、藩士井上助太夫の家臣弥左衛門尉・新二郎らによって村内の開発が行われている。正保国絵図には四二〇石余、寛文四年(一六六四)郷村高辻帳には高四二〇石二斗余とある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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