日本大百科全書(ニッポニカ) 「五か条の誓文」の意味・わかりやすい解説
五か条の誓文
ごかじょうのせいもん
維新政府の政治基本方針。1868年(慶応4)3月14日、明治天皇が紫宸殿(ししんでん)で、公卿(くぎょう)・諸侯・文武百官を率い、天地神明に誓う形式で発表した。「一、広ク会議ヲ興シ、万機公論ニ決スベシ。一、上下(しょうか)心ヲ一ニシテ、盛(さかん)ニ経綸(けいりん)ヲ行フベシ。一、官武一途(いっと)庶民ニ至ル迄(まで)各其(おのおのその)志ヲ遂ゲ、人心ヲシテ倦(う)マザラシメンコトヲ要ス。一、旧来の陋習(ろうしゅう)ヲ破リ、天地ノ公道ニ基クベシ。一、智識(ちしき)ヲ世界ニ求メ、大(おおい)ニ皇基を振起スベシ」の5か条よりなる。
この誓文の草案は、1868年1月ころ、由利公正(ゆりきみまさ)(三岡八郎)が議事所の規則、つまり「議事之体大意」として執筆、ついで福岡孝弟(たかちか)が諸侯会盟(列侯会議)の盟約書としてその本旨を改め、そのまま放置されていた。それを3月になって、木戸孝允(たかよし)が加筆し、最終的にはおそらく岩倉具視(ともみ)や三条実美(さねとみ)も加わり、14日直前の時点で、天皇の大坂親征(21日)の前提として仕上げられた、と思われる。語句の修正・加筆のたびに、原案の限定的な語句は抽象的なことばに変えられた。
この五か条の誓文と同時に、いわゆる「国威宣揚の宸翰(しんかん)」(木戸孝允起草)も発せられた。これは天皇親征によって万国対峙(たいじ)のなかで万民を安撫(あんぶ)し、国威を四方に宣布するというものであった。天皇の存在は国の命運と結び付けられ、ここでも上下一致、旧来の陋習の打破、開国進取、富国強兵が強調された。誓文と宸翰とは一体だったのである。
天皇が群臣を率いて神明に誓う形式は、天皇が新しい権力の主体であることの表明であると同時に、その神権的粉飾の第一歩であった。それはまた、原案にあった「列侯会議」を「広ク会議」とすることによって、公議の尊重をうたい、公議政体論的な列侯会議を拒否するとともに、きわめて開明的な語句で新政権の性格を印象づけ、先進列強の支持を得ようとしていた。列強の支持がなければ、進行しつつあった戊辰(ぼしん)戦争も遂行不可能となるからである。事実、翌15日は、江戸総攻撃の予定日だった。
その15日には、「五榜(ごぼう)の掲示」が改めて出され、幕藩体制下と同様の民衆支配の方針が明らかにされた。それは誓文の開明性とは裏腹な封建的な色合いの濃いものであった。
だから、五か条の誓文は、当時の政治情勢に対応した、きわめて政治的なものであったことがわかる。しかし、その内容の開明性が一人歩きし、以後、維新の精神のシンボルとされ、日本における民主主義の出発点とされたりした。
[田中 彰]