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由利公正 ゆり きみまさ

美術人名辞典の解説

由利公正

政治家。姓は三岡、初め石五郎、のち通称を八郎横井小楠財政を学び、橋本左内らと国事に奔走したが、安政大獄にあたり帰藩する。明治維新に際し参与となり、財政・金融政策に関与、また「五ヶ条の誓文」の起草にも参画した。東京府知事・元老院議官貴族院議員歴任。明治42年(1909)歿、81才。

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デジタル大辞泉の解説

ゆり‐きみまさ【由利公正】

[1829~1909]江戸末期から明治の政治家。越前福井藩出身。旧姓、三岡。通称、八郎。横井小楠に学び、藩政・国事に活躍。明治維新後、明治新政府の参与となり、太政官札の発行など政府の財政面を担当。また、五箇条の御誓文の起草にも参画した。元老院議官貴族院議員などを歴任。

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百科事典マイペディアの解説

由利公正【ゆりきみまさ】

明治の政治家,財政家旧名三岡八郎。越前福井藩士で横井小楠の教えをうけ,橋本左内らと国事に奔走。藩主松平慶永に重用され,財政整理に当たった。維新政府初期の財政を担当,建議して太政官札を発行。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

由利公正 ゆり-きみまさ

1829-1909 幕末-明治時代の武士,政治家。
文政12年11月11日生まれ。越前(えちぜん)福井藩士。藩政・兵制改革につとめる。明治新政府の参与となり,財政・金融政策をになった。五箇条の誓文の起草に参画。明治4年東京府知事,23年貴族院議員。明治42年4月28日死去。81歳。本姓は三岡(みつおか)。通称は石五郎,八郎。

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朝日日本歴史人物事典の解説

由利公正

没年:明治42.4.28(1909)
生年:文政12.11.11(1829.12.6)
幕末・明治期の財政家,政治家。福井藩出身。父は三岡義知,母は幾久。はじめ石五郎,のち八郎と称した。19歳のとき,福井に来遊した熊本藩の儒学者横井小楠の「経世済民」の思想と,民を重んじる実践的な学問に傾倒する。安政5(1858)年,小楠が福井藩に正式に招かれるにおよび,そのもとで財政改革に着手。従来の倹約を旨とする消極政策を排して,藩札を発行し,それを資本に民間から生糸などを買い上げ外国に売るという積極的な経済政策をとって成功し,諸藩の語り草ともなったといわれる。文久3(1863)年,藩内の政争により一時蟄居の身となるが,維新後は明治新政府に召され,太政官札の発行,五箇条の誓文の原案作成など枢機に携わる。その「実着の論」を説く才力には,後藤象二郎ら新政府のブレーンも感服したという。明治1(1868)年公正と改名し,同3年祖先の旧姓由利に復した。翌4年東京府知事,同8年元老院議官に任ぜられ,同23年には貴族院議員となっている。<参考文献>『子爵由利公正伝』

(高木不二)

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世界大百科事典 第2版の解説

ゆりきみまさ【由利公正】

1829‐1909(文政12‐明治42)
幕末・維新期の政治家。福井藩出身。幼名義由,初め三岡石五郎,のち八郎といった。家は御近習番100石の下級武士であった。1847年(弘化4)来藩した横井小楠の学問に影響され,一方で藩の財政調査を実行し,他方で橋本左内らと藩の兵制改革に尽力した。58年(安政5)藩主松平慶永らの徳川慶喜将軍擁立運動に参加したが,この運動は失敗に終わった。このとき由利は江戸で幕府の財政調査を行った。翌年長崎に出張し,越前蔵屋敷を設立し,オランダとの交易を始め,藩内では物産総会所をつくり,養蚕事業の奨励等の殖産事業に力をそそいだ。

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大辞林 第三版の解説

ゆりきみまさ【由利公正】

1829~1909) 政治家。福井藩出身。はじめ三岡みつおか石五郎。通称は八郎。藩政を担当して、外国貿易・物産振興に活躍。新政府で太政官札を発行するなど、財政家として手腕をふるった。五箇条の誓文の第一起草者。元老院議員。貴族院議官。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

由利公正
ゆりきみまさ

[生]文政12(1829).11.11. 越前
[没]1909.4.28. 東京
幕末~明治維新期の財政家。越前藩士三岡義知の子。八郎と称した。横井小楠の来藩で影響を受け,みずから藩財政の実地踏査を行なった。嘉永6 (1853) 年父業を継いで砲術練兵方教授,次いで御製造所頭取となり兵制改革に従事。さらに藩財政の再建に努め,長崎に越前蔵屋敷を,藩国に物産惣会所を建てて殖産興業を奨励した。薩長討伐の非を建言して処罰を受けたが,王政復古とともに新政府参与となり,金札 3000万両を発行して殖産興業政策を企画したうえ,新政府の基本政策である「五箇条の御誓文」の原案をつくった。明治1 (68) 年 12月金札流通に失敗して辞任,帰国して藩政改革に尽力,同4年7月東京府知事。 1875年4月元老院議官。 90年7月貴族院議員。子爵。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

由利公正
ゆりきみまさ
(1829―1909)

幕末・明治の政治家。福井藩士。初め三岡(みつおか)石五郎、のち八郎と改め、維新後由利公正と名のった。1857年(安政4)藩の兵器製造所頭取となり、造船事業に携わるとともに将軍継嗣(けいし)運動(一橋(ひとつばし)派)に関係し、藩主松平慶永(まつだいらよしなが)が隠居謹慎を命ぜられると大老井伊直弼(いいなおすけ)を除くことを計画。一方、福井藩に招聘(しょうへい)された横井小楠(よこいしょうなん)の指導のもと物産会所をおこして財政整理、物産振興にあたり、長崎に蔵屋敷を設けてオランダとの間に生糸などの特約を結ぶなど活躍。1861年(文久1)末には輸出物産300万両に上り、藩金庫には黄金50万両蓄蔵の成果をあげた。維新後、新政府の徴士・参与となり、会計基金300万両の調達、太政官札(だじょうかんさつ)の発行など明治政府の財政面を担当、五か条の御誓文の起草にも関係した。
 その後大阪府知事御用取扱、福井藩大参事心得、東京府知事を歴任、代書人、巡査の創制などにあたる。1872年(明治5)岩倉具視(いわくらともみ)一行と外遊、1874年民撰(みんせん)議院設立建白書に署名したが、まもなく運動から手を引き、翌1875年元老院議官となる。その後、貴族院議員、有隣生命保険社長、日本興業銀行期成同盟会長を歴任、子爵に列せられる。彼が世に出たのは慶永の推輓(すいばん)と小楠の教導によるところ大であった。[山口宗之]
『由利正通著『子爵由利公正伝』(1940・岩波書店) ▽三上一夫・舟沢茂樹編『由利公正のすべて』(2001・新人物往来社)』

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世界大百科事典内の由利公正の言及

【銀座】より

…政府は大火を契機に煉瓦造建築で町並みを建設する計画を企てたが,その理由は銀座が外国人交通の要所となることを見越し,条約改正を有利に進めるための都市美装であった。計画を主導したのは大蔵大輔井上馨,東京府知事由利公正である。大火直後より,お雇い外国人ウォートルス原案になる煉瓦造家屋の仕様,土地買上げの布告などが次々に出され,72年3月末には東海道を15間に拡張する杭打ちを完了した。…

【太政官札】より

…政府はこれを藩や人民に貸し下げ,産業を興す資金にしようとしたが,実際には,その約3分の2は財政が窮迫した政府の軍費や行政費の支出に用いられた。この発行は参与兼会計事務掛三岡八郎(福井藩士,のち由利公正と改称)の建議に基づいている。当時政府の信用は弱く,しかも次々に増発したので正貨より低価でしか通用せず,当初は流通しない地域もあった。…

【藩政改革】より

… これに対して,伝統的な土着産業を基礎におき,絹業の育成に努めたのは福井藩である。まず姫路藩の河合寸翁と比較される指導者三岡八郎(のちの由利公正)の存在と,彼を支える横井小楠,さらにその師橋本左内に及ぶ活眼の人脈にふれておかなくてはなるまい。福井藩は表高32万石で,会津藩同様に三家に次ぐ家門の位置にたつ有力藩であった。…

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