改訂新版 世界大百科事典 「五ヵ年計画」の意味・わかりやすい解説
五ヵ年計画 (ごかねんけいかく)
pyatiletka[ロシア]
国民経済を計画的に発展させるための,5年を区切りとする経済計画。ソ連に始まり,他の社会主義国や一部の発展途上国にも広められたが,ここではその最も代表的な例であるソ連の五ヵ年計画の歴史についてみる。
社会主義を計画経済ととらえる考え方は20世紀前半の社会主義者共通のものであり,ロシア革命後のソ連では1920年代半ばから計画化への模索が始まっていた。20年代末には,穏健な経済政策を唱える〈右派〉が失脚し,スターリンの政治支配が強められる中で,急進的工業化政策がとられるようになり,第1次五ヵ年計画の採択もその一環をなした(採択は1929年春だが,28年秋にさかのぼって実施)。計画採択後に工業生産目標も農業集団化目標もさらに引き上げられたことに示されるように,計画は文字どおり〈計画的〉な経済運営をもたらすのではなく,むしろ野心的な工業化政策の精神的鼓舞という色彩を帯びていた。急進的工業化は市場の自然発生性に依拠して実現することはできないため,それまでのネップ期にみられた市場のメカニズムの利用は後退し,いわゆる〈指令経済〉体制が構築された。その中核をなしたのは,産業部門別の工業管理官庁および国家計画委員会(ゴスプランGosplan)である。
第2次大戦前には第3次までの五ヵ年計画が実施され(ただし,第3次は開戦のため途中で中断),戦後は46年に第4次五ヵ年計画が始まった。フルシチョフ期には第6次五ヵ年計画が途中で打ち切られて〈七ヵ年計画(1959-65)〉に代わられたが,その後は五ヵ年計画に戻った。
第12次五ヵ年計画(1986-90)は,ゴルバチョフ政権初期に策定されたが,当時はまだペレストロイカが本格化していなかったため,これは従来の五ヵ年計画の延長上にあった。その後しばらくは,次の五ヵ年計画から本格的な経済改革を始めることが想定されていたが,しだいに市場経済移行論が高まったため,90年代半ばには,第13次五ヵ年計画(本来なら91年スタートの予定だった)作成が棚上げとなった。91年4月にはゴスプランが経済予測省に取って代わられた。こうして,ソ連解体の前夜には,その経済体制の象徴だった五ヵ年計画も歴史的存在と化していた。
→計画経済
執筆者:塩川 伸明
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報