五十嵐道甫(読み)イガラシドウホ

デジタル大辞泉 「五十嵐道甫」の意味・読み・例文・類語

いがらし‐どうほ〔‐ダウホ〕【五十嵐道甫】

[?~1678]江戸前期の蒔絵師まきえし信斎の孫。前田利常まえだとしつね招き金沢に行き、加賀蒔絵基礎を築いた。

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精選版 日本国語大辞典 「五十嵐道甫」の意味・読み・例文・類語

いがらし‐どうほ【五十嵐道甫】

  1. 桃山から江戸初期の蒔絵師(まきえし)。信斎の孫。加賀藩主前田利常に招かれて金沢に行き、加賀蒔絵の基礎を築く。「秋野蒔絵硯箱(すずりばこ)」の作者とされる。老道甫。生没年不詳。

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朝日日本歴史人物事典 「五十嵐道甫」の解説

五十嵐道甫(初代)

没年:延宝6.5.26(1678.7.14)
生年:生年不詳
江戸前期の蒔絵師。法名は道甫日等。祖父は宗清,父は一初甫斎。小堀遠州の斡旋により加賀(金沢)藩主前田利常に召され,蒔絵御用を仰せ付かりしばしば金沢に下向したが,京で没した。基準作に延宝5(1677)年銘の蓮華寺旧蔵「蓮池蒔絵舎利厨子」がある。京都上京須磨町に住して代々蒔絵を業とし,また京都本法寺の檀那で,本阿弥家など京都上層町衆との間に法華信仰により強く結ばれた姻戚関係にあった。 2代道甫は寛永12(1635)年生まれ。元禄10年6月24日(1697.8.10)没。初代道甫の実子で,俗名喜三郎,法名鷲嶺院道甫日了。貞享1(1684)年前田綱紀に召されて金沢に移り,貞享3年ごろにはすでに金沢に居住し,金沢で没した。実子の喜三郎が元禄6(1693)年に25歳で没したため,養子が喜三郎を名乗り五十嵐家3代目を継いだ。今日まで2代道甫父子・養子の3名の喜三郎の存在が確認されなかったため,喜三郎に関する記述に混乱が生じていた(『前田貞親手記』)。養子の喜三郎没後,その技芸弟子筋の庄兵衛,宗兵衛の2家系によって幕末まで受け継がれた。<参考文献>内田篤呉(共著)「五十嵐道甫考」(『漆工史』12号),「京都本法寺教行院過去帳」

(内田篤呉)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「五十嵐道甫」の解説

五十嵐道甫(2代) いがらし-どうほ

1635-1697 江戸時代前期の蒔絵(まきえ)師。
寛永12年生まれ。初代の養子で,幸阿弥(こうあみ)清三郎の弟。加賀金沢藩主前田家につかえ,初代とともに加賀蒔絵の隆盛につくした。弟子も代々金沢にすみ,五十嵐派は幕末までつがれたという。元禄(げんろく)10年6月24日死去。63歳。名は喜三郎。

五十嵐道甫(初代) いがらし-どうほ

?-1678 江戸時代前期の蒔絵(まきえ)師。
五十嵐甫斎の子。五十嵐信斎子孫という。京都にすみ,寛永年間(1624-44)に加賀金沢藩主前田利常にまねかれ,加賀蒔絵の基礎をきずく。利常隠居後,京都にもどった。延宝6年5月26日死去。名は忠三郎。代表作に「秋野蒔絵硯(すずり)箱」。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「五十嵐道甫」の意味・わかりやすい解説

五十嵐道甫
いがらしどうほ

五十嵐派」のページをご覧ください。

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世界大百科事典(旧版)内の五十嵐道甫の言及

【五十嵐家】より

…室町時代の五十嵐信斎に始まる蒔絵師の家系とその一派。初代信斎(生没年不詳)は足利義政に仕え,幸阿弥道長(幸阿弥家)と並び称せられ,東山時代物と珍重される漆芸品の中に彼の作品が多いといわれているが,確証のある作はない。2代甫斎は信斎の子で業を継ぎ豊臣秀吉に仕えたが,作品などは詳らかでない。3代道甫(?‐1678)は寛永年間(1624‐44)加賀藩主前田利常に招かれ,京都から金沢へおもむき加賀蒔絵の基をきずいた。…

※「五十嵐道甫」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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