井上長三郎(読み)いのうえちょうざぶろう

日本大百科全書(ニッポニカ) 「井上長三郎」の意味・わかりやすい解説

井上長三郎
いのうえちょうざぶろう
(1906―1995)

洋画家。神戸市に生まれる。2歳で両親とともに大連(だいれん)(中国東北)に渡る。1924年(大正13)単身帰国して太平洋画会研究所に通い、鶴岡政男靉光(あいみつ)を知る。二科展と一九三〇年協会展に出品を続けるが、30年(昭和5)に独立美術協会結成されるとそちらに転じ、翌年の第1回展で同協会賞を受け、35年には会員となる。38~40年渡仏。帰国して美術文化協会に移り、43年鶴岡、靉光、松本竣介らと新人画会を結成。第二次世界大戦の戦況が激化するなかでも発表を続けたが、戦時に迎合した決戦美術展への出品作が厭世的(えんせいてき)との理由で撤収される。第二次世界大戦後、46年(昭和21)日本美術会の創立参加、翌年新人画会同人たちと自由美術家協会にも参加した。政治的、社会的な主題を取りあげ、ヒューマニズムと社会正義の立場から批判的風刺に専念した。

[小倉忠夫・柳沢秀行]

『『井上長三郎』(1975・時の美術社)』

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20世紀日本人名事典 「井上長三郎」の解説

井上 長三郎
イノウエ チョウザブロウ

昭和・平成期の洋画家



生年
明治39(1906)年11月3日

没年
平成7(1995)年11月17日

出生地
兵庫県神戸市

学歴〔年〕
太平洋美術学校卒,パリ・アカデミー・グランショミエール

経歴
大正12年上京、太平洋画会研究所に入り、中村不折、鶴田吾郎らに師事。14年から二科展、昭和5年協会展、独立美術協会展などに出品。13〜15年、フランス滞在、アカデミー・コラロッシュなどで学び、その間結成された美術文化協会に参加。戦時中の17年「埋葬」、18年の「漂流」が撤去、撤回命令に遭う。18年、靉光、松本俊介らと新人画会を結成。戦後の21年、新人画会同人と自由美術協会再建に参加。アンデパンダン展や平和展などにも出品、「壺」連作の労働者群像など社会批判的作品に移行した。

出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報

百科事典マイペディア 「井上長三郎」の意味・わかりやすい解説

井上長三郎【いのうえちょうざぶろう】

画家。神戸市生れ。太平洋画会研究所で中村不折に学ぶ。1926年二科展出品。1935年独立美術協会会員。1938年から2年間滞仏,美術文化協会,自由美術家協会等で発表。1980年板橋区立美術館で個展。代表作《東京裁判》。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「井上長三郎」の解説

井上長三郎 いのうえ-ちょうざぶろう

1906-1995 昭和-平成時代の洋画家。
明治39年11月3日生まれ。太平洋画会研究所にまなぶ。二科展,独立美術協会展などに出品。昭和15年美術文化協会に参加。18年松本竣介(しゅんすけ)らと新人画会を結成。22年自由美術家協会会員となる。政治,社会を風刺した独自の人物画をえがく。平成7年11月17日死去。89歳。兵庫県出身。作品に「葬送曲」など。

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367日誕生日大事典 「井上長三郎」の解説

井上 長三郎 (いのうえ ちょうざぶろう)

生年月日:1906年11月3日
昭和時代;平成時代の洋画家
1995年没

出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報

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