井伊谷村(読み)いいのやむら

日本歴史地名大系 「井伊谷村」の解説

井伊谷村
いいのやむら

[現在地名]引佐町井伊谷

現引佐町の南部、井伊谷川に神宮寺じんぐうじ川が合流する小盆地に立地する。「和名抄」にみえる引佐郡渭伊いい郷の中心をなしていたという。渭伊は井からの転化とされ、井水を神聖視する聖水祭祀を行ってきた豪族が栄えた地という(引佐町史)。井伊氏の名字の地とされる。「寛政重修諸家譜」によると、寛弘七年(一〇一〇)遠江国井伊谷八幡の神主が社頭に参り、御手洗井の中で男の赤子を見つけた。神主による養育を経て七歳の時に備中守共資の養子となって共保と称し、のち出生地の井伊谷に移住、井伊を家号としたという奇瑞が述べられている。

〔中世〕

井伊いい郷の中心地にあたる。戦国末期の井伊谷は奥山おくやま三岳みたけ久留目木くるめき渋川しぶかわを含む地域の総称としても用いられた。井伊郷の領主井伊氏は当地に井伊谷城を築いて本拠としたとされるが、地名の初見は年月日未詳の伊達忠宗軍忠状(駿河伊達文書)で、永正九年(一五一二)閏四月三日、今川氏親と斯波義達の合戦の最中に今川方の武将伊達忠宗が「井伊谷」への朝駆けの功をあげている。のち当地に龍潭りようたん寺を創建したのが井伊谷城主井伊直平であることから(「勅諡円照真覚禅師文叔大和尚略伝」竜門寺蔵)、伊達忠宗は井伊勢の本拠としての当地を攻撃したものと思われる。その後、井伊氏は今川氏に従ったが、今川義元の尾張桶狭間合戦での敗死後、反今川の動きをみせたという理由で、永禄五年(一五六二)三月二日に井伊谷城主井伊直親が今川家臣朝比奈泰朝に討たれた(異本塔寺長帳・家忠日記増補追加)。井伊家は子息万千代(のちの直政)が幼少のため直親と婚を約していた直盛の娘が次郎法師直虎を名乗って家督を継いだとされ(「寛政重修諸家譜」など)、年寄・親類衆・被官衆が主家を支えたが、当地ではなお動揺と混乱が続いた。このことは、永禄九年に今川氏が当地に徳政令を発布した際、一族の井伊主水佑が銭主と結託して私的にその施行を停止したことに現れている。この井伊谷徳政は同一〇年末から同一一年にかけて匂坂直興が駿府で今川家家臣関口氏経と交渉し(一二月二八日「匂坂直興書状」蜂前神社文書など)、同年八月四日に井伊直虎および親類衆・被官衆にその実現を促す氏経の書状(同文書)が出された。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報