今在家町(読み)いまざいけちよう

日本歴史地名大系 「今在家町」の解説

今在家町
いまざいけちよう

[現在地名]伊勢市宇治今在家うじいまざいけ

内宮の宇治橋畔にある鳥居前町。五十鈴川の左岸にあり、中之切なかのきり町・浦田うらた町へと続いて街村をなし、古く茶屋ちやや町といった。中世以来中之切町・浦田町とともに岡田おかだといわれ、宇治六郷のうち上二郷の一。「建久三年皇太神宮年中行事」に「風日祈宮祭礼、其次第如六月勤、但今度ハ直会饗膳、岡田今在家沙汰」とみえ、明治三年(一八七〇)の「皇大神宮神田神戸御厨御薗貢物表」(神宮文庫蔵)にも「九月二十五日風日祈宮神事直会料」とみえる。


今在家町
いまざいけちよう

[現在地名]西宮市今在家町・六湛寺町ろくたんじちよう

宮武みやたけ町の北に続き、越水こしみず村から西宮宿に入る道沿いにある。この道は中世後期に越水城の大手道として造られたといわれ、八町畷はつちようなわてともよばれた。西宮の高札場に出るので札場ふだば筋ともいわれたが、近世には山陽道が与古道よこみち町ルートに代わってしだいに廃れた。町名は天文二一年(一五五二)四月二五日の公事米・公事銭取帳(吉井良尚氏所蔵文書)に「今才家丁」とみえ、正月・三月に水夫役としてそれぞれ二〇〇文を負担している。

近世には西宮町の町方一五町の一であったが(天保九年「西宮町石高町数等書上」岡本家文書)、町支配の田地も近隣に多かったようで、寛文九年(一六六九)頃の尼崎藩青山氏領地調(加藤家文書)によると本田高一九八石余があり、延享三年(一七四六)の書上(吉井家文書)には、本田一八五石余・新田二石余とある。


今在家町
いまざいけちよう

[現在地名]小浜市竜田たつた神田かんだ

片原かたはら町の西にある松寺まつでら小路の南西にあたり、天文一七年(一五四八)二月一〇日付日桂寄進本境寺資財等目録(本境寺文書)に「若狭今在家本境寺」とみえ、寛永夫代帳(「拾椎雑話」所収)にも記載される。当町と西の鵜羽うわ小路との通路をどうまん小路という。道満と号した鍛冶五郎左衛門宅があったためと伝える(拾椎雑話)


今在家町
いまざいけちよう

[現在地名]奈良市今在家町

京街道に沿い佐保川石橋の南北にあり、手掻てがい町の北に接する。往昔は町家がなく、東は東大寺の西築地、西は水田地帯であった。「奈良曝」には「善鐘寺町と壱つニ合シて町役四十弐軒」とある。

今在家郷は永仁二年(一二九四)の大仏灯油料田記録に「本地子一斗五升 作権次郎 今在家 檜升 他所公事無之 在河上御庄内」とあり、中世の東大寺七郷の一である。正長元年(一四二八)・天文八年(一五三九)の転害会記(東大寺文書)によると、今在家郷に「ヌシ屋」「エヒス屋」「鍛冶屋」の屋号がみえる。「大乗院雑事記」寛正六年(一四六五)七月一一日条に「今在家橋事破損之間、御下向以前可修造旨、申送東大寺、万一令無沙汰者、為当寺渡此橋、今在家事可自専厳密ニ申送云々」とある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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