今村均(読み)イマムラ ヒトシ

20世紀日本人名事典 「今村均」の解説

今村 均
イマムラ ヒトシ

明治〜昭和期の陸軍大将



生年
明治19(1886)年6月28日

没年
昭和43(1968)年10月4日

出生地
宮城県仙台市

学歴〔年〕
陸士(第19期)卒,陸大卒

経歴
大正6年陸軍省軍務局課員、7〜9年イギリス駐在、参謀本部員、上原勇作元帥付副官を歴任。昭和2年インド駐在武官を経て、6年参謀本部作戦課長となる。9月、満州事変が起こり作戦指導。林銑十郎朝鮮軍司令官の独断越境を統帥権侵犯として反対。橋本欣五郎中佐のクーデター計画を未然阻止(10月事件)。7年歩兵57連隊長。10年少将、歩兵第40旅団長、11年関東軍参謀副長。13年中将、陸軍省兵務局長、第5師団団長から、15年教育総監部本部長。16年第23軍司令官、第16軍司令官として蘭印方面に従軍。17年第8方面軍司令官としてラバウル作戦に参加、18年日本軍のガダルカナル島撤退に努力。20年オーストラリア軍に降伏戦犯として禁固10年判決。25年巣鴨に送還されたが、部下のいるマヌス島服役を希望、後再び巣鴨に移り29年釈放。その処世は軍人の鑑とされた。著書に「今村均大将回想録」がある。

出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報

改訂新版 世界大百科事典 「今村均」の意味・わかりやすい解説

今村均 (いまむらひとし)
生没年:1886-1968(明治19-昭和43)

陸軍軍人。宮城県出身。陸軍士官学校(19期),陸軍大学校卒。参謀本部部員,上原勇作元帥付副官,陸軍省軍務局課員などを経て,1931年8月参謀本部作戦課長に就任,満州事変初期の作戦指導にあたった。以後,関東軍参謀副長,陸軍省兵務局長などを歴任。39年には第5師団長として南寧付近で中国軍の冬季攻勢に遭遇し大損害をこうむった。40年教育総監部本部長となって戦陣訓の制定関与。41年第16軍司令官となり,太平洋戦争初頭のジャワ進攻作戦を指揮。42年第8方面軍司令官。以後,戦局の悪化に伴い孤立したラバウル方面の要塞化を推進した。43年大将に昇進。敗戦後,戦犯となったが54年に釈放。
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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「今村均」の解説

今村均 いまむら-ひとし

1886-1968 明治-昭和時代の軍人。
明治19年6月28日生まれ。今村方策の兄。関東軍参謀副長,第五師団長などをへて,昭和16年第十六軍司令官。翌年第八方面軍司令官となり,ラバウル作戦を指揮。18年陸軍大将。戦後戦犯となり,自分から希望して部下が収容されているマヌス島で服役。29年釈放された。昭和43年10月4日死去。82歳。宮城県出身。陸軍大学校卒。著作に「今村均大将回想録」。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「今村均」の意味・わかりやすい解説

今村均
いまむらひとし

[生]1886.6.28. 宮城
[没]1968.10.4. 東京
陸軍軍人。 1907年陸軍士官学校,15年陸軍大学校卒業。関東軍参謀副長,第5師団長などを歴任後,41年オランダ領東インド諸島 (インドネシア) 攻略軍 (第 16軍) 司令官に就任,太平洋戦争終了までインドネシアにおける陸軍最高指揮官をつとめた。 43年大将。

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367日誕生日大事典 「今村均」の解説

今村 均 (いまむら ひとし)

生年月日:1886年6月28日
明治時代-昭和時代の陸軍軍人。陸軍大将
1968年没

出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報

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