今畑村(読み)いまはたむら

日本歴史地名大系 「今畑村」の解説

今畑村
いまはたむら

[現在地名]打田町今畑

中畑なかはた村の西、葛城(和泉)山脈南山中を占め、東流する二瀬ふたせ(瀬川とも)流域集落が点在する。西北和泉(現大阪府泉南市)、西は押川おしかわ(現岩出町)。村内の集落へは東坂本ひがしさかもと(現岩出町)より山道を北に三〇町余入り、土仏とぶつ峠を越え、一八町ほど下る。この道は二瀬川沿いに下り、神通じんづう村で北上して和泉国に至り、大木おおき越と称した。中世池田いけだ庄に含まれ、芋畑いもはたとも称した。元弘三年(一三三三)八月一八日付の護良親王令旨(国立史料館蔵那賀郡古文書)に「芋畑村」とみえるが、建武四年(一三三七)二月三日付の畠山国清書下写(佐々木家文書)には「紀伊国池田庄内今畑」とみえる。なお大木越の街道については「政基公旅引付」文亀三年(一五〇三)九月二日条に、根来ねごろ(現岩出町)の足軽らと和泉国日根ひね(現泉佐野市)の荘民双方が「芋畑」を通って往来したことがみえている。


今畑村
いまはたむら

[現在地名]野津原町太田おおた 今畑など

太田村の西にある。「肥後国誌」は当村を矢野原やのはる村のうちとし、高六八石余。「豊後国志」も同村枝郷と記す。天保二年(一八三一)の「野津原手永略鑑」によると惣高九六石余、うち本方六八石余、免は六ツ六分余、南西にある栗灰くりはい村の本方二七石余、免は三ツ一分余。「肥後国誌」によれば栗灰村ははら村のうち。旧高旧領取調帳では当村の高九六石余。享保九年(一七二四)谷村手永惣庄屋出身の工藤三助が、栗灰村の北でせり提子ひさご淵の滝上から取水する提子井手の開削に着手、中断を経て孫の弁助と阿鉢あばち(現挟間町)の佐藤夫四郎によって安永六年(一七七七)に完成した(野津原三渠碑文など)


今畑村
いまはたむら

[現在地名]多賀町霊仙りようぜん

落合おちあい村の南にあり、坂田郡武奈ぶな(現彦根市)への道がある。寛永石高帳に九石余とある。元禄八年大洞弁天寄進帳によれば男三六・女三三。明治七年(一八七四)落合村入谷にゆうだに村と合併して霊山村となる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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