伊志井 寛
イシイ カン
- 職業
- 俳優
- 本名
- 石井 清一
- 別名
- 前名=竹本 津駒太夫
- 生年月日
- 明治34年 2月7日
- 出生地
- 東京・牛込神楽坂
- 経歴
- 少年時代は商家に奉公、大正8年文楽座の3代目竹本津太夫に師事。11年松竹蒲田撮影所に入社。帝キネ、東邦映画などを経て昭和2年新劇協会、翌年花柳章太郎の新劇座に参加、新派の花形となる。13年から新生新派で活躍し、戦後は24年劇団新派に改組し大幹部を務めた。「婦系図」の主税は当たり役で、現代劇「明日の幸福」、テレビの「カミさんと私」シリーズなどに主演した。
- 没年月日
- 昭和47年 4月29日 (1972年)
- 家族
- 父=三升家 小勝(4代目・落語家),妻=三升 延(小唄三升派家元),長女=石井 ふく子(テレビプロデューサー)
- 伝記
- みごとな幕切れ親父バンザイ 戸板 康二 著婦人画報社 編(発行元 三月書房婦人画報社 ’90’86発行)
出典 日外アソシエーツ「新撰 芸能人物事典 明治~平成」(2010年刊)新撰 芸能人物事典 明治~平成について 情報
伊志井 寛
イシイ カン
大正・昭和期の俳優
- 生年
- 明治34(1901)年2月7日
- 没年
- 昭和47(1972)年4月29日
- 出生地
- 東京・牛込神楽坂
- 本名
- 石井 清一
- 別名
- 前名=竹本 津駒太夫
- 経歴
- 少年時代は商家に奉公、大正8年文楽座の3代目竹本津太夫に師事。11年松竹蒲田撮影所に入社。帝キネ、東邦映画などを経て昭和2年新劇協会、翌年花柳章太郎の新劇座に参加、新派の花形となる。13年から新生新派で活躍し、戦後は24年劇団新派に改組し大幹部を務めた。「婦系図」の主税は当たり役で、現代劇「明日の幸福」、テレビの「カミさんと私」シリーズなどに主演した。
出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報
伊志井寛
いしいかん
[生]1901.2.7. 東京
[没]1972.4.29. 東京
新派俳優。本名石井清一。父は落語家の4世三升亭小勝。 1919年文楽の3世竹本津太夫に入門して竹本津駒太夫を名のったが,徴兵検査を機に退座し,22年松竹蒲田の映画俳優となった。 27年新劇協会に参加,翌年久保田万太郎にすすめられて新派に入り,喜多村緑郎に師事した。 39年花柳章太郎らと新生新派を結成。以後新派の二枚目として活躍する一方,『カミさんと私』などテレビドラマでも親しまれた。長女の石井ふく子はテレビの名プロデューサーとして有名。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
伊志井寛 いしい-かん
1901-1972 大正-昭和時代の俳優。
明治34年2月7日生まれ。4代三升家小勝の子。石井ふく子の父。大正8年文楽の3代竹本津太夫に入門,竹本津駒太夫を名のる。11年から映画にも出演。昭和3年新派にはいり喜多村緑郎に師事し,14年新生新派の結成に参画。テレビドラマ「カミさんと私」などに主演した。昭和47年4月29日死去。71歳。東京出身。本名は石井清一。
出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例
伊志井 寛 (いしい かん)
生年月日:1901年2月7日
大正時代;昭和時代の俳優
1972年没
出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報
世界大百科事典(旧版)内の伊志井寛の言及
【新派】より
…すでに10年に[井上正夫]は〈新時代劇協会〉をおこしG.B.ショーの《馬盗人》などを上演して新境地を開こうとしていたし,13年には河合武雄が〈公衆劇団〉を結成,また文壇を追われた[真山青果]が松竹に入社して,亭々生の名で《黒髪物語》や《雲のわかれ路》の作品を作り〈新派〉を支えようとした。16年に高田と秋月,17年に藤沢が没し,〈新派〉は伊井,河合,喜多村のいわゆる〈三頭目時代〉となったが,21年に若い[花柳(はなやぎ)章太郎]が藤村秀夫,小堀誠,武田正憲,柳永二郎,松本要次郎,大矢市次郎,伊志井寛らと研究劇団として〈新劇座〉を結成,有島武郎《ドモ又の死》や秋田雨雀《国境の夜》の上演をしたり,また井上が《酒中日記》《平将門》を上演するなど一部で意欲的な活動はあったものの,全般には映画や新国劇の人気に押されがちで低調だった。なお,24年にもともと新劇から出発した[水谷八重子]を中心にした第2次芸術座ができて,27年に本郷座で藤森成吉《何が彼女をさうさせたか》を上演,以降松竹と提携して,いわゆる〈新派〉の一角に加わってきた。…
※「伊志井寛」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」