伊東燕晋(読み)いとうえんしん

改訂新版 世界大百科事典 「伊東燕晋」の意味・わかりやすい解説

伊東燕晋 (いとうえんしん)
生没年:1761-1840(宝暦11-天保11)

江戸後期の講釈師。伊東派の始祖通称仙右衛門,号を詞莚。湯島天神境内に住んでいたので〈湯島燕晋〉とも呼ばれた。自宅を釈場として,得意とする《川中島軍記》《源平盛衰記》《三国志》《曾我物語》など軍記,記録物を読んだ。謹厳人柄風格が多くの客の支持を受け,1806年(文化3)の将軍徳川家斉墨田川御成りの節,弘福寺御膳所で上講,寄席高座を設けることを出願して官許となった。文才にも長じていた。
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朝日日本歴史人物事典 「伊東燕晋」の解説

伊東燕晋(初代)

没年:天保11.12.10(1841.1.2)
生年:宝暦11(1761)
江戸後期の江戸の講釈師伊東派の祖。通称仙右衛門。その住まいから湯島の燕晋と呼ばれた。すこぶる謹厳で常に羽織袴で演じ,内容も御家騒動物や世俗の講釈をせず,もっぱら「源平盛衰記」「川中島軍記」などの軍談に限られていた。博識で文才もあり,当時の出来事を書きとめた『撃攘余録』などの著作を残す。文化4(1807)年非人頭車善七らと争って,その支配を脱した。このときに従来の移動式高座(置台)を廃して常設とすることも許された。将軍家斉に愛され,たびたび御前講演をした。<参考文献>関根黙庵『講談落語今昔譚』(改題復刻『講談落語考』1960)

(吉沢英明)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

日本大百科全書(ニッポニカ) 「伊東燕晋」の意味・わかりやすい解説

伊東燕晋
いとうえんしん
(1761―1840)

江戸後期の講釈師。伊東派の祖。江戸・湯島天神境内の自宅で講釈を行ったので、湯島の燕晋とよばれる。諸侯方へ出入りし、他の講釈場には出演せず、読み物も『曽我(そが)物語』『三河後風土記(みかわごふどき)』などに限り、古格を守り、将軍家斉(いえなり)にも召された。寺社寄場(よせば)稼業の惣代(そうだい)として、1807年(文化4)乞胸頭(ごうむねがしら)山本仁太夫、非人頭車善七と争い勝訴、以後その支配を脱した。その際に、従来使用のたびごとに移動していた講釈場の高座を備え付けのものとするよう願い出、許可されるなど、釈界に貢献した。

[延広真治]

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「伊東燕晋」の解説

伊東燕晋(初代) いとう-えんしん

1761-1841* 江戸時代後期の講釈師。
宝暦11年生まれ。伊東派の祖。江戸湯島天神境内の自宅で「曾我物語」などの軍談を講釈,湯島の燕晋とよばれた。文化3年将軍徳川家斉(いえなり)に「川中島軍記」を御前講演。翌年非人頭(がしら)車善七(くるま-ぜんしち)の支配を排除し,常設の高座の設置をゆるされた。天保(てんぽう)11年12月10日死去。80歳。江戸出身。通称は仙右衛門。号は詞筵(しえん)。編著に「撃攘余録」。

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世界大百科事典(旧版)内の伊東燕晋の言及

【講談】より

…このころまでに宝井,貞山,神田,松林(しようりん),伊東,桃川,田辺など今日まで続く講釈師の系列も出そろい,各流派がそれぞれの芸を競い合った。伊東燕晋(えんしん)は,講釈師は芸人ではなく指導者であるというプライドをもち,湯島天神境内の自宅で威儀を正して《太平記》《川中島軍記》《三国志》などを読んだ。伊東派からは2代目燕凌(えんりよう),潮花(ちようか),初代桃川如燕(じよえん)が出た。…

※「伊東燕晋」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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