日本歴史地名大系 「伊波村」の解説 伊波村いふあむら 沖縄県:沖縄島中部石川市伊波村[現在地名]石川市伊波(いは)・曙(あけぼの)三丁目石川(いひちやー)村の南西にあり、南東は東恩納(ひじやうんな)村、北西は恩納(うんな)間切仲泊(なかどうまい)村(現恩納村)。イファとよばれる。絵図郷村帳には越来(ぐいーく)間切のうちに伊覇村とある。慶長検地帳では伊覇村だが、元文検地の際に伊波村となったという(石川市史)。琉球国高究帳では伊覇村と「かでかる村」(嘉手苅村)の二村が一括して記され、高頭六二四石余、うち田三三六石余(うち永代荒地一三石余)・畠二八七石余。村位は田畠とも中(里積記)。康熙一一年(一六七二)越来・美里(んざとう)両間切の境界が改められた際、当村など五ヵ村は美里間切に編入された(「球陽」尚貞王四年条)。当村は首里の湛(たん)氏の出身地とされる。嘉靖年間(一五二二―六六)に尚清王の久高(くだか)島(現知念村)行幸からの帰り風雨がやまず、随行していた神酒司頭役の首里湛氏(数明親雲上)が舟の舳先で三度神歌(オモロ)を唱え、風雨を鎮めた。 伊波村いなみむら 福井県:勝山市伊波村[現在地名]勝山市荒土(あらど)町伊波皿(さら)川の右岸にあり、東は松(まつ)ヶ崎(さき)村、西は堀名中清水(ほりめなかしみず)村に至る勝山街道沿いの集落。村名は天文八年(一五三九)一〇月一八日の平泉寺賢聖院々領所々目録(平泉寺文書)に「稲見村」とみえる。慶長五年(一六〇〇)から福井藩領、寛永元年(一六二四)勝山藩領、正保元年(一六四四)幕府領で福井藩預地、貞享三年(一六八六)幕府直轄領、元禄四年(一六九一)以降勝山藩領となった。 伊波村いはむら 沖縄県:沖縄島南部東風平町伊波村[現在地名]東風平町伊覇(いは)東風平(くちんだ)村の北にあり、報得(むくいり)川支流の西リ原(イリーバル)川上流の台地に位置する。イファ村ともよぶ。東風平(くちんだ)間切に所属するが、絵図郷村帳・琉球国高究帳に村名はみられない。「琉球国由来記」に伊波村、琉球一件帳には伊覇村と記されており、その後は伊覇の表記となる。間切集成図によると伊覇村は東風平村と道を挟んで隣接し、西側に井が記される。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by