伊藤伝右衛門(読み)イトウ デンエモン

20世紀日本人名事典 「伊藤伝右衛門」の解説

伊藤 伝右衛門
イトウ デンエモン

明治〜昭和期の実業家 大正鉱業社長。



生年
万延1年11月26日(1861年)

没年
昭和22(1947)年12月15日

出身地
福岡県飯塚市

経歴
少年の頃から丁稚奉公、小鉱山の穴掘りなどをする。明治31年から炭鉱経営を始め、牟田炭鉱で巨富を積み、一代で産をなし“炭鉱王”と呼ばれた。大正3年大正鉱業、昭和12年伊藤合名を設立。この間、明治36年衆院議員にも当選。44年52歳の時、華族柳原燁子(白蓮 27歳)と再婚、世にいう赤銅御殿を建てたが、昭和初頭焼失し、大正鉱業は昭和39年倒産した。

出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報

朝日日本歴史人物事典 「伊藤伝右衛門」の解説

伊藤伝右衛門

没年:天明5.5.23(1785.6.29)
生年寛保1(1741)
江戸中期,美濃国(岐阜県)大垣藩士,治水技術者。名は正敦。安八郡楡俣村の農民西松家に生まれ,大垣藩士伊藤政明の養子となる。領内で特に低地の2郷40村余の排水のために,多芸郡横曾根村,安八郡塩喰村・今福村に伏越樋や水路の設置を立案し,天明初年にその工事を監督,完成。しかしその後の大雨による揖斐・牧田両川の増水によって被害が発生し,責任をとって自刃したといわれる。しかし川の水位が下がると排水路は機能するようになり,古宮・今宮両輪中村々の米の収穫は増大した。明治38(1905)年旧鵜森水利組合によって鵜森に建立された旧藩主戸田氏の碑文には「殺身仁民」とある。<参考文献>『濃飛偉人伝』『新修大垣市史』

(松田之利)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「伊藤伝右衛門」の解説

伊藤伝右衛門(2) いとう-でんえもん

1861*-1947 明治-昭和時代前期の実業家。
万延元年11月26日生まれ。明治31年から炭鉱事業にのりだし,一代で財をなして「炭鉱王」と称された。大正鉱業社長,嘉穂銀行(福岡銀行前身)頭取。36年衆議院議員(当選2回,政友会)。再婚相手の柳原白蓮(びゃくれん)との離婚で話題となった。昭和22年12月15日死去。88歳。筑前(ちくぜん)(福岡県)出身。

伊藤伝右衛門(1) いとう-でんえもん

1741-1785 江戸時代中期の治水家。
寛保(かんぽう)元年生まれ。安永のころ美濃(みの)(岐阜県)大垣藩の郡奉行となる。天明元年藩命により,揖斐(いび)川,牧田川にはさまれた水はけのわるい今村・古宮地区の排水・治水工事に着手。難工事の末に完成させたが,直後の天明5年5月23日に自刃(じじん)。45歳。原因に諸説あるが真相は不明。本姓は西松。名は正敦。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

367日誕生日大事典 「伊藤伝右衛門」の解説

伊藤 伝右衛門 (いとう でんえもん)

生年月日:1861年11月26日
明治時代-昭和時代の実業家;衆議院議員
1947年没

出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報

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