今村(読み)イマムラ

デジタル大辞泉 「今村」の意味・読み・例文・類語

いまむら【今村】

姓氏の一。
[補説]「今村」姓の人物
今村明恒いまむらあきつね
今村紫紅いまむらしこう
今村翔吾いまむらしょうご
今村昌平いまむらしょうへい
今村知商いまむらちしょう
今村夏子いまむらなつこ

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精選版 日本国語大辞典 「今村」の意味・読み・例文・類語

いまむら【今村】

  1. 姓氏の一つ。

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日本歴史地名大系 「今村」の解説

今村
いまむら

[現在地名]大和町吉岡よしおか

北の大松沢おおまつざわ丘陵と南の七北田ななきた丘陵の間の台地が吉田川氾濫原に落込む東端に位置する。ぜん川の右岸、吉田川の左岸。東南は平地で水田地帯に続く。中央部から西・北方はなだらかな丘陵で吉岡の町場を形成する。道は南からの奥州街道が村の北で三本木さんぼんぎ(現志田郡三本木町)中新田なかにいだ(現加美郡中新田町)に分れ、東は高城たかぎ利府りふ道、西南方国分こくぶ根白石ねのしろいし道が通じる。北は大衡おおひら(現大衡村)、東は舞野まいの村・蒜袋ひるぶくろ村、南は高田たかだ村、西は吉田よしだ村。地名は元和二年(一六一六)伊達宗清が下草の鶴館しもくさのつるだて城から当地に移り、下草の黒川坂本くろかわさかもと町を古町とし、以前上の原うえのはらと称した当地を今村とよんだという(黒川郡誌)。しかし「伊達世臣家譜」の松坂氏の項に、享禄四年(一五三一)松坂定隆管理の七ヵ村のうちに「今」がみえ、永禄八年(一五六五)大膳稙定が「今」ほか一〇村の田を受けたとある。さらに「貞山公治家記録引証記」に慶長九年(一六〇四)大町主計の知行地に「上今村」「今村」の地名がみえる。天正一八年(一五九〇)九月一七日の奥州黒川之郡東大平検地帳(伊達家文書)の名請人のなかに出作者「今村」の十郎衛門とあるのでこれを初見とすべきであろう。


今村
いまむら

[現在地名]伊勢崎市稲荷町いなりちよう

中央部をおお(下り松川)が南流し、東は宮子みやこ村、北は勢多せた駒形こまがた新田(現前橋市)、西は飯塚いいづか(現佐波郡玉村町)、南は宮古みやふる村。大川の西岸に今村城跡があり、稲荷山いなりやま城とも称された。「伊勢崎風土記」には村も稲荷山とよんだとあり、また「広間橋・倉邸・定香橋・御医邸・鐘楼堂・広町・敷皮・殺害免・古邸・殿堀・乳母田・旗竿・竹内堀」の地名が記される。付近をじようと称する。長尾景春の乱によって五十子いかつこ(現埼玉県本庄市)の陣が崩壊した文明九年(一四七七)一月、撤退する上杉勢が利根川を越えて那波なは郡に入った際、「松陰私語」には「今村之城際打除而、山内被相控待間」とあり、当時今村城は反上杉方であったと思われる。天正二年(一五七四)と推定される四月一六日の上杉謙信書状写(「歴代古案」所収)によると、東上州に在陣中の上杉謙信は「向赤石、号今村与地取立候」と菅原左衛門佐に書送っている。


今村
いまむら

[現在地名]瀬戸市東吉田ひがしよしだ町・西吉田にしよしだ町・今池いまいけ町・市場いちば町・八王子はちおうじ町・西寺山にしてらやま町・西山にしやま町・西長根にしながね町・追分おいわけ町・川西かわにし町・川北かわきた町・川端かわばた町・北浦きたうら町・共栄きようえい通・田端たばた町・ひら町・孫田まごた町・效範こうはん町・汗干あせび町・北脇きたわき町・見付みつけ町・南山みなみやま町・城屋敷しろやしき町・東長根ひがしながね町・東寺山ひがしてらやま町・東横山ひがしよこやま

瀬戸村の西にある。名古屋より瀬戸に至る道がほぼ北の境であった。南北は丘陵で、村域の大部分は瀬戸川を挟んでおおむね平坦地である。応永一〇年(一四〇三)頃のものと思われる尾張国国衙荘当知行分注文(醍醐寺文書)に「一同(瀬戸) 今村 一所 よこ山の松原」とあるのが初見である。


今村
いまむら

[現在地名]大垣市本今もといま・本今町・今町・世安町よやすちよう

水門すいもん川右岸、杭瀬くいせ川左岸、大垣輪中の西部に位置し、西は青柳あおやぎ村・若森わかもり村。枝郷に今村町分(今町)今村入方いまむらいりかた(世安町)見取みとり新田がある。中世には東大寺領大井おおい庄の庄域とされ、永仁三年(一二九五)の大井庄検注名寄帳案(筒井寛聖氏所蔵文書)に「今村貞弘」、応安二年(一三六九)の華厳会料帳(東大寺図書館蔵)には「今村三郎左衛門殿」の名がみえる。江戸時代を通じて大垣藩領。慶長郷帳に村名がみえ、村高一千四三五石余。正保郷帳では田高八二七石余・畑高二〇四石余(岩瀬文庫本正保郷帳では高一千九二石余)、ほかに新開三〇七石余(田方二九八石余・畑方九石余)がある。貞享二年(一六八五)の大垣領村々高帳では今村七七九石・本新田一四二石余・今村見取新田一一六石余、ほかに彦八分として今村分七四石余・本新田分三五石余・見取新田分二一石、喜右衛門分として見取新田二二一石余があり、今村町分五四石余・今村入方二四五石余。


今村
いまむら

[現在地名]大刀洗町今

筑後川支流の大刀洗川中流左岸域に位置し、北東は平田ひらた村に接する。南部の十三じゆうさん十七じゆうしち十八じゆうはち二十はたちなどは条里制の遺称地名と思われる(大刀洗町史)。もと田中たなか村と称したが、田中吉政が慶長六年(一六〇一)筑後国主となって入部したので、同名を避けて今村に改めたという(旧家由緒書)。天正七年(一五七九)高橋氏の拠る岩屋いわや(現太宰府市)で秋月・筑紫両氏の攻撃に対して防戦などの功があった屋山三介は、「三原郡田中村之内拾五町并役職」などを預け置かれている(同年正月一八日「高橋紹運知行預ケ状写」屋山文書/大分県史料三三)


今村
いまむら

[現在地名]能登川町今

垣見かきみ村の北東にある。西部を通る朝鮮人街道を北東に進み愛知えち川を渡ると、神崎郡稲葉いなば(現彦根市)に至る。中世は垣見庄に属したとみられるが、稲葉庄(因幡庄)との関連も考えられる。暦仁元年(一二三八)一二月三日の四条天皇宣旨案(勝尾寺文書)に「稲葉今村庄」とみえ、本家は京都六勝寺の一つ延勝えんしよう寺で、もと天台座主円基の遺領相続が弟子の円尊に認められている。元応元年(一三一九)の「日吉社領注進記」にも稲葉今村庄とみえ、坂本日吉社の十禅師大行事供料所で、理智房中納言大都房相伝知行の所領であった。


今村
いまむら

[現在地名]安城市今本いまほん町・東栄とうえい町・住吉すみよし町・今池いまいけ

猿渡さわたり川の谷とその分岐谷に発達した集落。北・東はさと村に接する。古代の東海道は、今村の傍らを通る。「三河物語」には、永禄三年(一五六〇)今川義元の西上のことを記して「駿河衆は吉田を立て、岡崎に着、諸勢は屋萩・鵜等・今村・牛田・八橋・地理宇のに陣をとる」とある。高根山崇福そうふく寺は、臨済宗妙心寺派。寺伝によると、和銅六年(七一三)尾崎おざき村の豊阿弥の建立するところという。初め観音像を安置し、普門ふもん寺といったが、永禄年中兵火に遭い、寛文三年(一六六三)の再建という。


今村
いまむら

[現在地名]田主丸町以真恵いまえ

馬渡まわたり村の西に位置する。屋敷地は巨瀬こせ川右岸に沿い、耕地は馬渡・江口えぐち東牧ひがしまき・西牧・唐島からしま各村などと入組み散在する(上三郡絵図)。慶長四年(一五九九)四月一八日の某宛行状(黄薇古簡集)によれば竹野たけの郡「今村之内 本庄之内」六〇石などが岡田清介に与えられている。本高は二八八石余(元禄国絵図)。「在方諸覚書」では古高三〇〇石・役高九二三石。享保一二年(一七二七)の夏物成は大麦四六石八斗余・小麦二五石五斗余・菜種一二石七斗余(「本地夏物成帳」中村家文書)


今村
いまむら

[現在地名]日吉津村富吉とみよし

日吉津村の北、日野川下流の右岸に位置する。村名について「伯耆志」は新開の村であることから今村と称するとし、日吉津今村を略し、日野川左岸の今村(現米子市)と区別するため日今ひいま村ともよんだという。また日野川の元禄(一六八八―一七〇四)の洪水以前は同川左岸の中島なかしま(現同上)と一村であったと伝える。天正一五年(一五八七)三月一六日の大雄寺禅賀他三名連署状(伯耆志)車尾くずも(現同上)の東境として「今村之川迄」とみえる。なお元亀二年(一五七一)三月、羽倉孫兵衛は当地付近の浜辺で戦死したといい(陰徳太平記)、地内に「羽倉孫兵衛元陰戦歿之処」と刻んだ碑がある。


今村
いまむら

[現在地名]飽田町今

白川左岸に沿い、対岸は半田はんだ(現熊本市)、東は横手手永の土河原とがわら村、南は砂原すなはら村に接する。天文四年(一五三五)の鹿子木親員知行目録(鹿子木文書)によれば、鹿子木西かのこぎにし庄に属し、「三町 今村」とあり、同二一年三月二〇日の大友義鎮領知預ケ状案と大友家老中連署遵行状案(いずれも大友家文書録)に「肥後国飽田郡河尻庄之内、御岳参詣田今村分拾弐町分」とあり、永富弾正忠に給与されている。しかし飽田郡には今村が二ヵ村あり、近世に入ってもともに河尻かわしり庄に属したため、前出の今村がいずれをさすのか判然としない。慶長九年(一六〇四)九月の検地帳も「飽田郡川尻庄今村」分米二五四石五斗余と「飽田郡今村」分米四六三石三斗余の二冊があり、同一二年のものはともに「飽田郡川尻庄今村」とあり、分米は四〇五石七斗余と六二三石五斗余である。


今村
いまむら

[現在地名]河浦町今田いまだ

北は福連木ふくれぎ(現天草町)、東は宮地岳みやじだけ(現本渡市)、西は益田ますだ村に接し、今田川の中流域に位置する。今田川に合流する板河内いたかわち川沿いに当村の枝郷板河内村があり、付近の茶園原ちやえんばらに石鏃・石槍を出土した縄文後期の茶園原遺跡がある。慶長国絵図に「板野河内」とみえ、正保郷帳では今村の高九六石一斗余、「板ノ河内村」高八七石一斗余とある。万治二年(一六五九)石高半減により一〇五石一斗余となった(天草風土考)


今村
いまむら

[現在地名]彦根市開出今町かいでいまちよう

西今にしいま村・野瀬のせ村・宇尾うお村の西、犬上いぬかみ川左岸に位置し開出今村ともいう。年未詳六月七日の小幡商人申状案(今掘日吉神社文書)に「かいて今村」とみえ、出路でつち市・高宮たかみや市などの「北市」で相物を商う商人がいた。天正一九年(一五九一)四月の御蔵入目録(林文書)には今村とみえ、高一千四石余が豊臣秀吉の直轄領として代官石田三成の管理下に置かれている。


今村
いまむら

[現在地名]熊本市とび町・合志ごうし

北は刈草かりくさ村、東は薩摩街道を挟んで託麻たくま郡本庄手永の高江たかえ村、南は池畑いけはた村に接する。天文四年(一五三五)の鹿子木親員知行目録(鹿子木文書)に「三町 今村」とあり、同二一年三月二〇日の大友義鎮領地預ケ状案と大友家老中連署遵行状案(いずれも大友家文書録)に「肥後国飽田郡河尻庄之内、御岳参詣田今村分拾弐町分事」とある。しかし飽田あきた郡には今村が二ヵ村あり、近世に入ってもともに河尻かわしり庄に属したため、前出の今村がいずれをさすか不明である。


今村
いまむら

[現在地名]国府町今村

荒城あらき川中流左岸平坦地にあり、西は蓑輪みのわ村、東は宮地みやじ村。高山から上広瀬かみひろせ村・今村峠を越えて当村を経て八日町ようかまち村・十三墓じゆうさんぼ峠を越し船津ふなつ(現神岡町)へ通ずる道は越中東街道とよばれる重要な街道であった。古くは宮道みやじ(宮地村)の内であったが、元暦元年(一一八四)近江国粟津あわづ(現滋賀県大津市)木曾義仲とともに討死した今井兼平の子孫が落延びて住み着き、家名の一字を唱えたという(斐太後風土記)


今村
いまむら

[現在地名]宮原町今

北は東上宮南段ひがしかみみやみなみだんの丘陵、東はさくらおか平原ひらばるの台地、南は早尾はやお大王だいおう山塊に囲まれる。西に条里遺構の口ノ坪があり、上有佐かみありさ村に続く。「八代日記」天文一二年(一五四三)八月六日条に「八代衆今村まて打出」とみえ、当地周辺で相良勢と宇土うとの名和勢との合戦が展開された。慶長国絵図に村名がみえ、正保郷帳に田方四〇五石五斗余・畠方四〇石四斗余とある。種山手永に属し、「国誌」は「田中村室村平木村南村等ノ小村アリ」と記す。


今村
いまむら

[現在地名]熊本市水前寺すいぜんじ五―六丁目・水前寺公園すいぜんじこうえん神水くわみず一丁目・上水前寺かみすいぜんじ一―二丁目・江津えづ二丁目・国府こくぶ二丁目・出水いずみ一―四丁目

東は神水村、北西は田迎手永の国府村、南は長溝ながみぞ村である。天文四年(一五三五)の鹿子木親員知行目録(鹿子木文書)に「三町 今村」がある。現高をあらわす慶長八年(一六〇三)の検地帳では田一五町六反四畝余・分米一九八石一斗余、うち上田一一町八反四畝余・分米一五四石余、畑山畑七四町七反一畝余・分米三八二石一斗余、居屋敷四町一反九畝余・分米三三石五斗余で、家数一二五、男九八(うち年寄一二・倅一三)、女六六(うち年寄二・娘三)、牛二八・馬一二である。


今村
いまむら

[現在地名]豊田市今町・河合かわい町・水源すいげん

矢作川の右岸、碧海へきかい台地の北端に位置する。今町には、縄文時代の小猿投こさなげ遺跡・いけおもて古墳・薬師山やくしやま古墳があり、水源町には先土器時代の寄畔よりくて遺跡・高根たかね古墳・平古山ひらこやま古墳・同北古墳・水源山すいげんやま南古墳・同北古墳・萱野かやの古墳・大谷古墳、河合町には先土器時代の河合遺跡・豊田大塚おおつか古墳がある。

寛政七年(一七九五)の渡船仕上入用書上控帳と文政九年(一八二六)の今村渡船新造費申受取証(今区有)から矢作川の渡船の新造費用の一部が挙母藩から出されていることがわかる。


今村
いまむら

[現在地名]岡山市今村・今一―八丁目・大元上町おおもとかみまち上中野かみなかの一―二丁目

上中野村・下中野村の西にあり、西は中仙道なかせんどう村・辰巳たつみ村、北の野田のだ村・つじ村との境を鴨方かもがた往来が通る。康永元年(一三四二)の「備前一宮社法」に「三野之郡り内今村明神御まつり、年ニ弐きの神事也」とある。寛永備前国絵図に村名がみえ、高一千六一石余。「備陽記」によると田畑六七町七反余、家数八五・人数四五四。文化年間の「岡山藩領手鑑」では直高一千九〇三石余、蔵入と家老伊木豊後および家臣九名の給地。田高一千一三八石余・畑高三〇石余、家数一〇五(本村七八・竹通し二七)・人数四七三。


今村
いまむら

[現在地名]長浜市今町

国友くにとも村の東に位置し、南は榎木えのき村、東は浅井あざい三田みた(現東浅井郡浅井町)、北は同郡おち(現同上)。寛永石高帳によれば高七〇七石余、彦根藩領。寛文四年(一六六四)の彦根領分高帳(間塚文書)国友今くにともいま村とあり定免四ツ三分。元禄八年大洞弁天寄進帳では男一八一・女一九三、寺社方男五・女三。元禄年間(一六八八―一七〇四)の洪水により馬井うまいの樋が押詰められたため、彦根藩北筋奉行大根田猪右衛門の尽力で底樋一八間を新設し、文政六年(一八二三)には佐藤隼人が底樋三五間を延長した以後干害から解放され、九月に底樋祭を行ったという(坂田郡志)


今村
いまむら

[現在地名]菊池市今

赤星あかほし村の北にある。菊池川が村の北で西へ迂回し、南西へ流れる。北方の隈府わいふ町高札辻より約一五町。天正一七年(一五八九)の検地帳に田八反二畝余・畠二二町一反三畝余、分米一五〇石とある。慶長九年(一六〇四)九月の検地帳では田一町二反八畝余・畠五〇町四反一畝余、分米三五〇石とある。近世は河原手永に属し、文化一一年(一八一四)頃の河原手永手鑑には高三五四石一斗余、田二二町三反七畝余・畑四五町二畝余、竈数七六・人数三七六、牛馬九一、渡舟一艘とある。


今村
いまむら

[現在地名]米子市吉谷よしたに

橋本はしもと村の南、法勝寺ほつしようじ川西岸の南から北へ延びる低丘陵北麓にある。近世には榎原えのきはら庄内にあることから榎今えのきいま村とも称した。西方の南に延びる狭長の平坦地一帯は中馬場なかばばとよばれる地域で、元亀二年(一五七一)と推定される六月二二日付の山田重正宛児玉元良書状(閥閲録)に「相見郡榎原之内、中馬場分」とみえる。同所二五石の地は毛利元就より山田氏に宛行われた地で、重正の当知行が安堵されている。


今村
いまむら

[現在地名]可児市今

下切しもぎり村の南、ひめ川の上流部にある。慶長郷帳などにみえる姫村のうち。元禄郷帳に今村とみえ、幕府領。文化七年(一八一〇)村明細帳によれば地不足などで有高三四八石余、田二二町九反余・畑四町二反余、家数六九(高持五一・水呑一六・寺一・山伏一)・人数二五九、馬二。御林一ヵ所(一町一反余)・溜池四ヵ所がある。農間稼は男は草刈、女は綿布作り。伏見ふしみ宿(現可児郡御嵩町)への助郷高二三四石(元禄七年「伏見宿・太田宿助郷帳」奥村文書)。明和元年(一七六四)の潰百姓書上帳(安藤文書)によれば、同年までに疫病などで六四軒のうち四四軒が潰百姓となっている。そこで隣村の塩河しゆうが村・下切村と当村の三ヵ村で江戸まで困窮による伝馬役休役の願いに出府している(「困窮申上書」同文書)


今村
いまむら

[現在地名]黒木町今

在郷町黒木町の北にあり、東は笠原かさはら川を境に椿原つばはら村。元弘三年(一三三三)一一月四日の日念譲状(市来政香蔵文書/鎌倉遺文四二)によれば、日念(建部清政)は「くろきのうち、いまむら」の田五反などを妻の遺言どおり子息清光に譲っている。江戸時代の本高二二四石余(元禄国絵図)。「在方諸覚書」では古高三七〇石・役高五一五石。享和二年(一八〇二)の春免高帳では高五一七石、文化四年(一八〇七)の畝付帳では本田一四町四反余・開田二町六反余・畑田八町七反余・畑九町四反余・開畑作畑二町余・居屋敷一町三反余。旧高旧領取調帳では高四八三石余。「山方小物成方格帳」に小物成現物として起炭四一俵余・鍛冶炭四六俵余・椎茸二斗余・木海月一斗五升余・山芋二三本・栗一斗一升余・蕨縄六束・葛藤四束余・生蕨四束余・干蕨七連・抹香一斗八升余・灯松三三束・串柿七串・火縄一〇曲などとある。


今村
いまむら

[現在地名]久留米市荒木町今あらきまちいま

上荒木村の南、ひろ川左岸に位置する。南は西古賀にしこが(現三潴町)、西は富安とみやす(現同上)。天正元年(一五七三)頃に田川たがわ(現同上)城主田川長門守の長子利右衛門尉が開墾したという(「田川氏系図」鶴久家蔵)。江戸時代初期には田川・時里の姓で構成されていた。「寛文朱印留」に村名がみえる。本高は七〇石余(元禄国絵図)。「在方諸覚書」によると古高八〇石・役高一三七石。享和二年(一八〇二)の春免高帳では高一三九石。文化四年(一八〇七)の畝付帳では本田五町一反余・開田七反余・畑田三町余・畑一七町六反余・居屋敷三反余。


今村
いまむら

[現在地名]南関町今

西部をせき川が南流し、東は東今村、北は赤坂あかさか村・庄寺しようでら村、南は田原たばる村と接する。慶長九年(一六〇四)九月の検地帳によると田二二町一反七畝余・畠屋敷一〇町六反余・屋敷筆数一三、分米三二八石一斗余。同一三年の検地帳では田二二町六反五畝余・畠屋敷九町三反九畝余・屋敷筆数九、分米三二八石二斗、家数二〇・人数二一、牛六、上木一四、下ケ名に下の屋敷などがある。近世は南関手永に属する。文政五年(一八二二)の同手永略手鑑では田一七町六反一畝余・畑一二町一反四畝余、竈数四七・人数一八九、馬三七。小村に岩下・増永・中尾がある(肥集録)。明治一四年(一八八一)頃の戸数五一・人数二四六、牛馬三五、豊後浦ぶんごうら溜池などを用水とする。


今村
いまむら

[現在地名]神崎町今

神崎本宿こうざきほんじゆくの東、利根川右岸に位置する。初めは今泉いまいずみ村と称し、慶長四年(一五九九)の検地では今泉村として高一一七石余が打出された(「部冊帳」伊能家文書)。元和五年(一六一九)伊勢津藩領となり(幕末まで同藩領)、その際藩主藤堂高虎が和泉守を称していたため泉の字をはばかり今村に改めたという(香取郡誌)。しかし寛文七年(一六六七)の年貢割付状(今区有文書)には今泉村とあり、年貢は米八一俵余となっている。同一〇年利根川を挟んで対岸の四谷よつや(現茨城県東村)が分村した(大貫天神山藤堂氏旧封邑之碑)


今村
いまむら

[現在地名]天明町中無田なかむた 今村

北を天明新てんめいしん川、南を緑川が流れる水田地帯にあり、東は河尻かわしり(現熊本市)、南は中牟田なかむた村、北は横手手永の権藤ごんどう(現飽田町)に接する。「国誌」によれば銭塘手永に属し「中牟田村ノ内」とされる。宝暦一二年(一七六二)の下ケ名寄帳では惣畝数一七町二反二畝余、うち御蔵納は一六町八反三畝余・高二五二石三斗余で、他は新地・永荒などである。下ケ名に築切つききり石櫃いしびつ江越えごえなどがある。


今村
いまむら

[現在地名]砥用町今

西流する天神てんじん川と、南を流れる津留つる川に挟まれ、両河川は西隣佐俣さまた(現中央町)との境界で合流する。津留川の北辺を古くは日向国へ通じる往還が通り、集落もその近辺にある。津留川と往還が交差する地点に文政一〇年(一八二七)竣工の石造眼鏡橋馬門まかど橋が架かる。津留川を隔てて南は坂貫さかぬき村。北は手蝶てちよう(三九〇・一メートル)で、上益城郡東寒野ひがしさまの(現甲佐町)と山頂部を分け合い、東は目磨めとぎ村・岩尾野いわおの村と接する。


今村
いまむら

[現在地名]美濃加茂市下米田町今しもよねだちよういま

則光のりみつ村の南西、小山こやま村の北東にあり、村東にははく(通称東山、二七二・七メートル)がある。慶長郷帳によれば幕府領で、「米田島内」三〇三石余。正保郷帳によれば尾張藩領で、田方一七五石余・畑方一二九石余・山年貢二石余。明暦覚書によれば、元和元年(一六一五)尾張藩領に編入され、概高は三一四石余。慶安四年(一六五一)の男女一一〇、馬一一。「濃州徇行記」によれば、蔵入地七〇石余と藩士三人への給地。家数四〇・男女一六八、馬一一。


今村
いまむら

[現在地名]尾西市北今きたいま

板倉今いたぐらいま村ともいったように北方の板倉村の支村と思われる。中島郡にある同名の村と区別して北今村とも称した。概高三一八石三斗余の本田と新田二石七斗余を合わせて三二一石八升余、田方は九町余、畑方二一町二反余で畑がちの村である。天保一二年(一八四一)には九人の給知と、藩の蔵入地二八石八斗余がある。寛文年間(一六六一―七三)の人数三八七で、天保一二年には家数一三四、人数五八八とある(寛文覚書)


今村
いまむら

[現在地名]辰野町大字伊那富いなとみ 今村

上島かみじま村の南、横川よこかわ川の西岸。山麓を伊那往還が南北に走る街村。

天正一九年(一五九一)の信州伊奈青表紙之縄帳の上伊奈領の部に村位は下、村高は「百弐拾三石壱升五合 今村」とある。

村内に香住こうじゆう寺があり、延享元年(一七四四)成立の「伊那郡神社仏閣記」によれば真言宗、江戸愛宕真福寺末山で山号をりゆうこう山、永禄年中(一五五八―六一)の開基という。


今村
いまむら

[現在地名]竹田市今

菅生組のほぼ中央に位置し、南は菅生すごう村、東は宮園みやぞの村・楠野くすの村。おか城下から三里一〇町。正保郷帳では大戸ねぎ郷に属し、田方四五石余・畑方一八九石余。弘化物成帳では菅生組のうち、村位は中、免三ツ四分、田一三石余(一町三反余)・畑二〇八石余(三八町四反余)・屋敷三石余(三反余)で、開田七斗余(三反余)・開畑七石余(一五町三反余)がある。


今村
いまむら

[現在地名]稲沢市今村町

東は目比むくい村に接し、三宅みやけ川の自然堤防上の地高にあり、人家は宮田用水大塚おおつか井の東側に集中していた(天保村絵図)。「徇行記」では板葺今いたぶきいま村という。概高五九五石余で、尾張藩付家老成瀬隼人正の知行地。田地一五町八反九畝余・畑地一五町九反余。坂田さかた村からの入小作があり、薑・嫩甜瓜はなおちうりを産出し「村中竹木ヨク茂リ、丹羽郡アタリノ村立ニ彷彿タリ」(徇行記)という。


今村
いまむら

[現在地名]芦北町田川たがわ

久野くの(現田川川)に沿い、対岸に野々木ののき村、上流に垣内かきうち村が続く。佐敷手永に属し、正徳(一七一一―一六)頃と思われる表題破損の文書(伊藤家蔵)によれば高七二石六斗余、文化一〇年(一八一三)の佐敷手永村々高附帳(熊大図書館蔵)では高七九石八斗余。


今村
いまむら

[現在地名]城南町今吉野いまよしの

吉野山の西方、まいばら台地の北端部にあり、東は吉野村。集落の北西に平野が開ける。今村貝塚が発見され、吉野山古墳群の一部として今村横穴古墳群が字東原ひがしばる一帯にみられる。慶長国絵図に村名はみえず、築地ついじ村に含まれ、元禄国絵図にも「築地村之内今村」とある。杉島手永に属し、集落は上下二組からなる。


今村
いまむら

[現在地名]蟹江町今

蟹江本町かにえほんまち村、蟹江新町かにえしんまち村と村続きの名古屋西南三里余の村。富田庄絵図(円覚寺蔵)に当村の名がみえる。「徇行記」によれば、概高一千一一〇石余のうち八八二石余は藩士一三人の給知、田は五一町六反八畝余、畑は七町一反六畝余。「寛文覚書」に戸数一〇五、人数五三七とある。「徇行記」は「高持ハ僅ニ十四五戸アリテ、アトハ無高百姓ハカリ也(中略)元ヨリ貧村ニテ天明八申年比四十六戸ホト農戸頽レ、其時ヨリ別シテ衰弊スト也、商戸二、三戸アリ、灰問屋一戸アリ、外ニ灰ヲ処々ヨリ買集メ生産トスル者廿四戸ホトアリ、灰ハ南野・岐阜・長良辺ヘ第一売リツカハス也、又漁師十戸ホトアリ」とし、津島祭礼車船に毎年二艘を出していたことを伝える。


今村
いまむら

[現在地名]湖北町今

西端を南流する丁野木ちようのぎ川を挟んで南西はつぼ村。応永七年(一四〇〇)四月三日の室町幕府御教書案(東大寺文書)によれば、青名あおな速水はやみとともに丁野よおの郷の「八日市場清水」を抑留し問題になっている。


今村
いまむら

[現在地名]小倉北区今町一―三丁目・熊谷くまがい一―三丁目・南丘みなみがおか一―二丁目

篠崎しのざき村の南、むらさき川下流左岸に位置する。元和八年人畜改帳に御蔵納分として小熊野こぐまの・今村とみえ、高二二六石余、家数一六、人数四四(うち百姓三・名子一・坊主一)、牛五・馬一。


今村
いまむら

[現在地名]蘇陽町今

二津留ふたづる川流域にあり、東は花寺はなでら村・長崎ながさき村、北はかしわ村・神木かみのき村、南は大迫おおさこ村・米山こめのやま村に接する。文明一六年(一四八四)八月二八日の阿蘇十二社同霜宮最花米注文(阿蘇家文書)に、収納使の宿泊地として「一所いま村」とみえ、上納物を免除されている。


今村
いまむら

[現在地名]矢部町入佐いるさ

下大川しもおおかわ村の東、入佐村の南に位置する。古くは長福寺ちようふくじ村と称したが享保(一七一六―三六)頃から今村となった(国誌)。慶長国絵図には「長福寺村」とある。矢部手永に属したが正徳四年(一七一四)から一時期中島手永に移り、のち旧に復した。


今村
いまむら

[現在地名]松本市笹賀 今村

笹賀地区の最南端、奈良井ならい川左岸の村で、北は小俣こまた村に続く。現塩尻市広丘から奈良井川を渡り今村集落に入ると、今井いまいの段丘がある。道の登り口に柏木古墳跡・山の神の神社がある。

天正検地の際、初めて六四石九斗三升五合と高付けされている。


今村
いまむら

[現在地名]金沢市今昭町いましようまち

千木せんき村の西、金腐かなくさり川右岸に位置。正保郷帳によれば高二〇二石余、田方一二町九反余・畑方五反余。寛文一〇年(一六七〇)の村御印の高二〇九石、免六ツ五歩(三箇国高物成帳)


今村
いまむら

中世にみえる地名。建保五年(一二一七)九月一四日の肥前高来郡内宇佐宮領立券文(大川文書)に「今村」とみえる。その四至は東は海、南は三波加野場(上は傍仕尾、下は仏石)、北は上が堀、下が楠江、西は横道を限るとされ、田三段・畠三段、在家一家、桑一〇本。


今村
いまむら

中世にみえる彼杵そのき庄内の地名。元応二年(一三二〇)某月二七日の東福寺領肥前国彼杵庄文書目録案(東福寺文書)に「同庄今村津田□浦」とみえ、彼杵庄の雑掌は年貢未進を行うようになった一分領主を鎮西探題に訴えているが、当地の浦の一分領主は伊佐早十郎持通と記されており、伊佐早氏の勢力下にあったことが知られる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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