柳原白蓮(読み)ヤナギワラビャクレン

デジタル大辞泉 「柳原白蓮」の意味・読み・例文・類語

やなぎわら‐びゃくれん〔やなぎはら‐〕【柳原白蓮】

[1885~1967]歌人。東京の生まれ。本名、宮崎燁子あきこ佐佐木信綱に師事し短歌雑誌「心の花」に作品発表。情熱的な歌風で知られる。歌集「踏絵」「幻の華」など。

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知恵蔵 「柳原白蓮」の解説

柳原白蓮

日本の歌人。本名は柳原燁子(あきこ)。大正三美人の1人。白蓮事件で知られる。
1885年、東京に生まれる。父は柳原前光(さきみつ)伯爵、母は妾の1人で柳橋の芸妓となっていた没落士族出身のりょう。前光は大正天皇の生母・柳原愛子(なるこ)の兄で、燁子は大正天皇の従妹に当たる。94年、遠縁に当たる子爵・北小路隨光(よりみつ)の養女となる。98年、華族女学校に入学。1900年に、15歳で北小路家の長男資武(すけたけ)と結婚させられ、その後、妊娠により女学校を退学。長男・功光(いさみつ)を出産するも、05年、功光を北小路家に残して離婚し、実家に戻る。
当時、華族の家庭では体裁が重んじられ、離婚した娘は恥とされて柳原家本邸に入ることができず、前光の正妻・初子の隠居所で読書や短歌をなぐさめとして暮らす。結婚・出産のために断念した学業を再開するため、08年、東京・麻布のカナダ系ミッションスクール、東洋英和女学校に寄宿生として編入する。8歳年下の村岡花子と出会い、「花ちゃん」「燁さま」と呼び合う「腹心の友」となる。この頃、佐佐木信綱が主催する短歌結社竹柏会に入門する。
10年、25歳年上で九州の炭鉱王、伊藤伝右衛門と見合いし、翌年、後妻として嫁ぐ。年齢・身分・教養のいずれも不釣り合いな、伯爵家と炭鉱王の政略結婚として世間を騒がせ、東京日日新聞では連載で大きく報じられた。花子はこのニュースにショックを受け、燁子と絶交に至る。
再婚後は「筑紫の女王」と呼ばれたが、生きがいを感じられずに、花子に心情を吐露する手紙を書いている。これをきっかけに親交が再開する。孤独や苦しみを短歌に詠み、竹柏会の機関誌「心の花」に発表し続けた。この頃から、白蓮の号を用いる。
21年、社会主義者の宮崎龍介と駆け落ちする。いわゆる「白蓮事件」である。当時は姦通罪が存在し、旧刑法では2年以下の懲役となる行為であった。燁子は伊藤家に対して大阪朝日新聞紙上で絶縁状を発表し、その2日後には大阪毎日新聞紙上に伝右衛門の抗議文が掲載されるなどして、センセーショナルな事件となった。22年に長男・香織を出産するも、義父が抱える多額の負債もあって、生活は苦しく、龍介が結核に倒れた時期は、文筆で生計を支えた。25年、長女・蕗苳(ふき)が誕生。35年以降、歌誌「ことたま」を主宰する。
45年、学徒出陣していた香織を米軍による空爆で亡くす。その経験から、「国際悲母の会」を立ち上げ、各地で平和を訴える活動を起こす。緑内障視力を失いながらも、歌を詠む穏やかな晩年を過ごし、67年、81歳で死去
主な作品に、歌集『踏絵』、『幻の華』、詩集几帳かげ』など。

(葛西奈津子  フリーランスライター / 2014年)

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20世紀日本人名事典 「柳原白蓮」の解説

柳原 白蓮
ヤナギワラ ビャクレン

大正・昭和期の歌人



生年
明治18(1885)年10月15日

没年
昭和42(1967)年2月22日

出生地
東京

本名
宮崎 燁子(ミヤザキ アキコ)

旧姓(旧名)
柳原 燁子(ヤナギワラ アキコ)

学歴〔年〕
東洋英和女学校〔明治43年〕卒

経歴
大正天皇の従妹にあたる。北小路資武と離婚後、筑豊の炭鉱王・伊藤伝右衛門と再婚、“筑紫の女王”と呼ばれたが、大正10年社会運動家・宮崎龍介との世紀の恋愛で話題を呼び、12年宮崎と結婚。歌人としては明治33年佐佐木信綱の門に入り、大正4年「踏絵」を刊行。以後「幻の華」「紫の海」「地平線」を刊行したほか、詩集「几帳のかげ」、小説「荊棘の実」などを刊行。昭和10年歌誌「ことたま」を創刊して主宰。戦後は愛児香織の戦死をきっかけに“国際悲母の会”を組織し、平和運動などに関係した。

出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報

日本大百科全書(ニッポニカ) 「柳原白蓮」の意味・わかりやすい解説

柳原白蓮
やなぎはらびゃくれん
(1885―1967)

歌人。東京生まれ。本名宮崎あき子。伯爵柳原前光の次女。北小路資武と離婚後、1910年(明治43)東洋英和女学校卒業。九州の富豪伊藤伝右衛門と結婚し筑紫(つくし)の女王として世の耳目を集めたが、やがて実家に戻り、1923年(大正12)年下の学生宮崎龍介と恋愛結婚、以後ともに無産者解放運動に挺身、第二次世界大戦後は平和運動と宗教的世界に関心を示した。1900年(明治33)に佐佐木信綱(ささきのぶつな)に師事、『心の花』に作品を発表。数奇な運命に翻弄(ほんろう)されつつ精神的な苦悶(くもん)を激しい情熱で乗り越えようとした。歌集に『踏絵』(1915)、『幻の華』(1919)、『地平線』(1956)など。

[佐佐木幸綱]

 踏絵もてためさるる日の来しごとも歌反故(ほご)いだき立てる火の前

『『踏絵』(『現代短歌全集3』所収・1981・筑摩書房)』『永畑道子著『恋の華・白蓮事件』(1982・新評論)』

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百科事典マイペディア 「柳原白蓮」の意味・わかりやすい解説

柳原白蓮【やなぎわらびゃくれん】

歌人。本名【あき】子(あきこ)。伯爵柳原前光の娘。東京生れ。東洋英和女学校卒。2度の結婚の後,1921年社会運動家宮崎竜介と結婚。佐佐木信綱に師事し,情熱的歌風で知られた。1935年以後,歌誌《ことたま》を主宰。歌集に《踏絵》など。
→関連項目心の花竹柏会

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「柳原白蓮」の解説

柳原白蓮 やなぎわら-びゃくれん

1885-1967 大正-昭和時代の歌人。
明治18年10月15日生まれ。柳原前光(さきみつ)の次女。実母は東京柳橋の芸者良(りょう)。佐佐木信綱にまなぶ。北小路資武(すけたけ)と離婚後,九州の炭鉱王伊藤伝右衛門と再婚。「筑紫の女王」とよばれた。宮崎竜介と恋愛,大正10年家をさる。その間の4年「踏絵」を発表し,情熱的な作風が注目された。昭和10年から「ことたま」を主宰。戦後は平和運動にもかかわった。昭和42年2月22日死去。81歳。東京出身。東洋英和女学校卒。本名は宮崎燁子(あきこ)。小説に「荊棘(いばら)の実」。
【格言など】踏絵もてためさるる日の来しごとも歌反故(ほご)いだき立てる火の前(「踏絵」)

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「柳原白蓮」の意味・わかりやすい解説

柳原白蓮
やなぎはらびゃくれん

[生]1885.10.15. 東京
[没]1967.2.22. 東京
歌人。本名,宮崎あき子 (あきこ) 。伯爵柳原前光の次女として生れ,九州の炭鉱王伊藤伝右衛門と結婚したが,社会主義運動家の宮崎龍介と熱烈な恋愛の末に結ばれ,世間の話題を集めた。短歌は 1900年から佐佐木信綱に師事。情熱的な歌風で,『踏絵』 (1915) ,『地平線』 (56) などの歌集がある。ほかに自伝小説『荊棘の実』 (28) など。

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367日誕生日大事典 「柳原白蓮」の解説

柳原 白蓮 (やなぎはら びゃくれん)

生年月日:1885年10月15日
大正時代;昭和時代の歌人
1967年没

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