共産主義者で中国問題評論家。明治34年4月29日東京に生まれる。東京帝国大学法学部卒業後朝日新聞社に入社。1928年(昭和3)から同紙特派員として上海(シャンハイ)に住む。このとき中国の左翼文化運動にかかわり、積極的に中国革命を支持するようになる。そして魯迅(ろじん/ルーシュン)やスメドレーと知り合い、スメドレーの紹介によりドイツ人でソ連共産党員のゾルゲを知り、ゾルゲの中国における情報工作に協力する。1932年大阪朝日新聞本社に転勤。1934年ゾルゲと再会。これ以後、日本におけるゾルゲの情報活動を支援し、日ソ不戦のために努力する。同年東京に転勤。1938年、朝日新聞社を退社し近衛文麿(このえふみまろ)内閣の嘱託に就任する。翌1939年、近衛内閣総辞職とともにこれを辞し、満鉄調査部の嘱託になる。中国から帰国後の尾崎は中国問題評論家として活躍し、『嵐(あらし)に立つ支那(シナ)』(1937)、『現代支那論』(1939)、『支那社会経済論』(1940)などによって、独自の東亜協同体論を展開した。1941年10月ゾルゲ事件が発覚して逮捕され、1944年(昭和19)11月7日処刑された。1946年(昭和21)に獄中書簡集『愛情はふる星のごとく』が出版されベストセラーになった。
[山田敬男]
『風間道太郎著『ある反逆―尾崎秀実の生涯』(1959・至誠堂)』
昭和期のジャーナリスト,中国問題評論家
出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報
社会主義者,評論家。東京に生まれ,中学卒業まで台北ですごし,父秀太郎の影響で幼少のころから中国問題に興味をもつ。1925年東大卒業,翌年東京朝日新聞社に入社,28年上海特派員となり,29年A.スメドレーと知り合い,30年R.ゾルゲと会う。32年帰国,34年ゾルゲと再会してゾルゲ諜報機関に参加した。36年西安事件の評論によって注目され,以後傑出した中国評論家として活躍した。37年昭和研究会に参加,38年朝日を退社して,満鉄の東亜経済調査局嘱託,第1次近衛文麿内閣の嘱託となる。41年スパイ容疑で検挙され,44年11月7日ゾルゲとともに死刑に処せられた。著書に《現代支那論》《最近日支関係史》など。また死後刊行された獄中通信《愛情はふる星の如く》がある。
→ゾルゲ事件
執筆者:木坂 順一郎
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報
…1917年,第1次大戦下のニューヨークでインド人活動家たちと知り合い,独立運動を支援してスパイ容疑で投獄される。自伝的小説《女一人大地を行く》(1920)は,強い自立心と不正を憎む性質をたくまず表現しており,第2次大戦前に白川次郎(尾崎秀実の筆名)訳で日本に紹介され,反響をよんだ。20年にヨーロッパへ渡り,ベルリンでインド国民会議派左派のビレンドラナート・チャトパジャーヤと同棲。…
…R.ゾルゲと尾崎秀実(ほつみ)を中心とする対日諜報機関関係者の検挙事件。ソ連赤軍第4本部に所属し諜報活動に従事していたゾルゲは,偽装のためナチス党へ入党,ドイツの新聞社の日本特派員として1933年9月に来日し,ドイツ大使館から絶大な信頼をかちえていた。…
※「尾崎秀実」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...
10/29 小学館の図鑑NEO[新版]動物を追加
10/22 デジタル大辞泉を更新
10/22 デジタル大辞泉プラスを更新
10/1 共同通信ニュース用語解説を追加
9/20 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新