会沢正志斎(読み)あいざわ せいしさい

百科事典マイペディアの解説

会沢正志斎【あいざわせいしさい】

江戸末期の水戸学を代表する学者。常陸(ひたち)水戸藩士。名は安(やすし),字は伯民。正志斎は号。藤田幽谷に学び,その子藤田東湖徳川斉昭の藩主擁立を策した。のち藩政に参画,藩校弘道館の創設に尽力し,初代総教(教授頭取)となる。主著《新論》は,尊王・大義名分・富国強兵などを強調し,当時の尊王攘夷運動の志士に大きな影響を与えた。水戸学の藩外への波及は正志斎に負うところが大きいが,一方で彼は幕藩体制の再建を目標としており,幕府の開国政策を追認して,高揚した尊攘運動と対立した。
→関連項目新論真木和泉

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

会沢正志斎 あいざわ-せいしさい

1782-1863 江戸時代後期の儒者。
天明2年5月25日生まれ。常陸(ひたち)水戸藩士。藤田幽谷にまなび,「大日本史」編修に従事。徳川斉昭(なりあき)を藩主に擁立して藩政改革につとめ,天保(てんぽう)11年藩校弘道館初代教授頭取となった。著作「新論」は尊攘(そんじょう)運動に影響をあたえた。文久3年7月14日死去。82歳。名は安(やすし)。字(あざな)は伯民。通称は恒蔵。別号に欣賞斎,憩斎。
【格言など】天地の間,各各(おのおの)その職分ありて閑人(むだびと)なきこと天道なり(「人臣去就説」)

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朝日日本歴史人物事典の解説

会沢正志斎

没年:文久3.7.14(1863.8.27)
生年:天明2.5.25(1782.7.5)
江戸後期の儒学者。水戸藩士。名は安,通称は恒蔵。正志斎は号。水戸城下下谷に会沢恭敬の長男として生まれる。会沢家は代々農民であったが,父の時代にはじめて武士の列に加えられた。寛政3(1791)年10歳のとき藤田幽谷に入門。11年からは彰考館に入って『大日本史』の編纂に従事した。13年『千島異聞』を著し,早くも対外問題に深い関心を示す。文化1(1804)年には徳川斉昭ら諸公子の侍読を命ぜられた。文政7(1824)年5月,藩内大津浜(北茨城市大津町)に英人12人が上陸したときは「筆談役」として応接,強い危機感を抱いた。幕末に昂揚した尊王攘夷運動に多大の思想的影響を与えたことで知られる『新論』は,その翌年に完成したもの。12年,8代藩主徳川斉脩の継嗣問題が起こるや,斉昭擁立派として活動し,斉昭が9代藩主になると斉昭を助け藤田東湖らと藩政改革の推進に尽力した。天保1(1830)年には郡奉行,翌2年には彰考館総裁に就任,11年藩校弘道館の初代教授頭取となった。この間,3年に150石,11年に役料200石(計350石)を給される。弘化1(1844)年斉昭が失脚するとその雪冤運動に奔走,このため翌年致仕,3年蟄居を命ぜられたが,嘉永2(1849)年赦免され,安政2(1855)年には小姓頭で弘道館教授頭取に復した。5年以降,水幕関係が険悪になると,藩内尊攘鎮派の領袖として激派の鎮圧を主張した。水戸の自邸で没。弘道館や家塾で彼の教育を受けた者は藩内のみならず全国各地におよぶが,吉田松陰の『東北遊日記』には,「会沢を訪ふこと数次,率ね酒を設く。……会々談論の聴くべきものあれば,必ず筆を把りて之を記す。其の天下の事に通じ,天下の力を得る所以か」と記されている。<参考文献>瀬谷義彦『会沢正志斎』,『水戸市史』中巻3

(鈴木暎一)

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世界大百科事典 第2版の解説

あいざわせいしさい【会沢正志斎】

1782‐1863(天明2‐文久3)
後期水戸学の大成者。名は安,字は伯民,正志斎は号。水戸藩下級士族の子。藤田幽谷に師事し,彰考館に入り《大日本史》編纂に携わるかたわら,斉昭ら藩主の子の侍読を務める。1825年(文政8)主著《新論》を著し,尊王・攘夷を鼓吹する。29年8代藩主斉修が死に継嗣問題が起こると,藤田東湖らとともに斉修の弟斉昭の擁立に奔走する。斉昭襲封後は藩政改革派の中心となり,郡奉行,御用調役,彰考館総裁を歴任,また藩校弘道館の創設に尽力し初代の総教(教授頭取)となる。

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大辞林 第三版の解説

あいざわせいしさい【会沢正志斎】

1782~1863) 江戸後期の儒学者。水戸藩士。名は安やすし。藤田幽谷に学びその思想を祖述・発展させた。彰考館総裁。藤田東湖とともに藩の尊攘運動を指導。著「新論」「迪彝篇」など。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

会沢正志斎
あいざわせいしさい
(1782―1863)

江戸末期の儒学者で水戸学の代表的思想家。名は安(やすし)、字(あざな)は伯民(はくみん)、通称恒蔵(つねぞう)、号は正志斎、憩斎(けいさい)。天明(てんめい)2年5月25日常陸(ひたち)国久慈(くじ)郡諸沢(もろざわ)村(茨城県常陸大宮市諸沢)に生まれる。10歳で藤田幽谷(ふじたゆうこく)に学び、彰考館(しょうこうかん)写字生となる。1807年(文化4)、当時5歳であった後の藩主徳川斉昭(とくがわなりあき)の侍読(じどく)を務め、1824年(文政7)イギリス人常陸大津浜上陸事件の尋問にあたり、翌1825年尊王攘夷(そんのうじょうい)運動の聖典といわれる『新論』を著述した。幽谷の没後、彰考館総裁代理となる。藩主斉脩(なりのぶ)(1797―1829)の相続問題が起こると斉昭擁立に奔走。1829年斉昭就任後、郡奉行(こおりぶぎょう)、通事(つうじ)、調役(しらべやく)、彰考館総裁を歴任、1840年(天保11)弘道館教授頭取(とうどり)となる。ペリー来航に際し和議の非を説いたが、1858年(安政5)修好通商条約調印後、井伊大老の非をつく戊午(ぼご)の密勅が水戸藩に下るや、幕命を体して勅書の伝達を中止し、これを幕府に返納すべきことを主張した。桜田・坂下両門外の変に際しては御三家家臣の身分秩序を超える反逆の行為と論断、ついで1862年(文久2)一橋慶喜(ひとつばしよしのぶ)に「時務策」を呈して開国のやむをえないことを献言し、尊攘派と鋭く対立、藩内激派に対する鎮派の中心人物とみなされるに至った。この年馬廻頭(うままわりかしら)上座となり、翌文久(ぶんきゅう)3年7月14日82歳で没した。[山口宗之]
『『水戸学大系 会沢正志斎集』(1941・水戸学大系刊行会) ▽西村文則著『会沢伯民』(1938・大都書房) ▽高須芳次郎著『会沢正志斎』(1942・厚生閣) ▽瀬谷義彦著『会沢正志斎』(1942・文教書院) ▽山口宗之著『幕末政治思想史研究』(1968・隣人社/改訂増補・1982・ぺりかん社)』

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367日誕生日大事典の解説

会沢正志斎 (あいざわせいしさい)

生年月日:1782年5月25日
江戸時代後期の儒学者;水戸藩士
1863年没

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世界大百科事典内の会沢正志斎の言及

【下学邇言】より

…水戸藩の学者会沢正志斎の著。1847年(弘化4)稿。…

【新論】より

…後期水戸学の大成者会沢正志斎の主著。1825年(文政8)成稿。…

※「会沢正志斎」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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